5,行事:マラソン
5,行事:マラソン
階段を上った廊下の先、明滅する灯りの下に全裸の人影が見えた。挨拶をしてから、一升瓶を一口飲み、名乗りを上げる。
「アダナをホウガンと申します……」
「「「アダナを■■」」」反響して聞き取ることができなかった。いや……そんなことよりも、彼はこちらに全速力で走って向かってくる。
(……武闘派の寮生か?)
思わず身構えたが、彼は何もすることもなく、ただ自分の前を全速力で通り過ぎていった。
彼、というより彼らだった。何人いるのかも判らない、数え切れない。全裸の男たちの絶え間のない疾走。奔流。ペタペタと足音がやかましい……いや、やかましくはない。人数に対して明らかに足音が少ない? 少ないというよりもこれは……。
次々に廊下を駆け抜けていき、流れは途切れることがない。
(なんだ……この人たち、褌も巻かずに……)そう思ったが、よく考えれば、いや考えるまでもないが、自分も正しい位置にフンドシは巻いていないので人のことは言う資格はない。
敵意はないのか? そう安心しかけたところで、背中を思い切り叩かれた。
「ホウガンと言ったか、ボサっとしていないで走らないか。マラソンだぞ」
声がどこからともなく廊下に響いた。
「……マラソンというと、全裸で寮内を走り回るという、あの伝説の……」
声の主を探そうと、全裸の集団を見回すが、無理だった。
「応とも。ホーガンを名乗るからには足には自慢があるのだろう」
正直、あまり走りたくはなかった。酒を飲みすぎているから、動くと吐くような気がする……。
「我らは寮を巡る風、お前に捕まえられるか?」
今回は個人との対決ではなく、行事の……概念との勝負ということだろうか。
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「……マラソン」
本来の意味のマラソンの行事もあるが、今回は別のものだ。マラソンの他にイダテン、駅伝とも呼ばれたという、かつて寮で行われていた行事のことだ。自分が寮に入ったときには、すでに廃止となっていた。
それより昔には、学生たちは気が向くままに全裸となり、寮内を駆け抜けていたという。起源は定かではなく、全裸で走る理由も今一つ判らなかった。
(やってみないと判らないものかもしれない。食わず嫌いはよくないか……)
廃止となった理由は2つあった。一つは普通に考えて、廊下やら階段を走るのは危ないということ。そしてもう一つは、静かに暮らしたい寮生にとってははなはだ迷惑というところにあった。
板張りの廊下は一人でも走ろうものならギシギシとなり、大勢で駆け抜ければ床が抜けかねない。建物にもよくないし、学生も危険だ。そして非常にうるさい。学問の妨げになるということで廃止となったと伝えられている。
ただ一説によると、卒業できるか否かの瀬戸際にいた学生がマラソンの喧しさに耐えきれず、駆け抜ける寮生たちを迎え撃つ形で正拳突きを食らわせるという事件があり、それが決め手になったとか。決して少なくない寮生が、病院通いになったという、真偽のほどは判らないが、事実だとすれば悲しい話だ。
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捕まえろと言われれたのだから、素直に従い全裸の集団を追いかけてみた。彼らは廊下の果てまで行くと、階段を降りまた下の階の廊下を走り、階段を降りるという行為を繰り返していた。
「ハッハァ……」
(腹の中身が上下して気持ちが悪い……。それにこの人たち、全力疾走している。……まずいな)
現在の寮内部は、一種の異界と化している。おそらくは無限にこれが繰り返されるのだろう。
(キリがない。屋上に向かわなければならないというのに……)
らちが明かないと思い、手近な学生を捕まえて、フンドシで巻いてしまおうと思ったのだが……手のひらが彼の体をすり抜けていった。
(さっき、マラソンとは寮を巡る風だと言っていたか? だとすればどうやって捕まえろと言うのか。この足音……風の音なのか?)
「風に触れることなど……」
歩きながら愚痴を吐くと、今度はケツを叩かれた。
「だらしがない。それではホーガンの名が泣くぞ」
判官贔屓のホーガンですよ。と言おうとして、胃液がこみ上げてきた。
(気持ち悪い。駄目だ……こんなの、なんだってこんな状態で走らないといけないのか。……水)
各階の廊下には洗面台が備え付けられている。
横長の鏡、その前に蛇口が三つ。
手で水を汲んで、口に含んだ瞬間にまた背中を叩かれた。水を吐き出すと鏡にかかった。イラっとしながら思った。
(この叩いてくる人、同じ人か? この空間がループでもしているとして、空間の構造はともかく。叩かれるということ、それにこの足音の数は……)
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「すいません。あの……一升瓶出してもらっていいですか?」虚空に語り掛ける。こんなふうにちゃんと頼むのは初めてだった。いそいそと一升瓶が何もない空間からニョキニョキと姿を出した。
手を伸ばす振りをして、彼が来るのを待つ。もうすぐのはず。見かけに惑わされてはならない。足音に集中しろ。
(今だ)その場で足を軸に回転し、伸ばしていた手でそのまま――おそらくは背中、もしくはケツに迫った張り手――を弾こうと考えたが、掌は上下にすれ違い、お互いに腹を打ち合う形となった。
強かに背中を廊下に打ち付けた彼は、受け身を取ってから流れるように後転して立ち上がった。
(身のこなしが軽い)
「よく見破った、ホーガン。見事」
「なぜ、わざと急所を作ったのですか? 私を叩こうとせず、ただ走っているだけだったら、ずっとここに閉じ込めておくことができたのに」
気づけば所狭しと駆け回っていた全裸の男たちが消えてしまっていた。
「ホーガンよ。そんなことをして一体、何が面白いというのか」子供を諭すように彼は言った。彼の体には、長距離選手のように無駄な肉ついていなかった。
「ですが……勝負に徹するならば。いえ、私としては助かったのですが」
「ストームもマラソンも一歩間違えば、迷惑極まりない行為となる。だからこそ、根っこには皆が幸福であるように、皆で楽しめるようにという思い、そして最低限他人への思いやりがなければならない、判るか?」
もっとも下級生を必要以上にいたぶって喜ぶ者もいたが……、と悲しそうに続けた。
「は……はい、判ります。やはりみんなが楽しいのが一番良いと思いますから」
「そうだろう? お前に勝ち目がない勝負など、勝負と言えん。そんなもの、ただのシゴキだ。趣味ではないし、何より楽しくない」
「高潔な精神……感謝いたします。……私が寮に入ったとき、既にマラソンは伝説と化しておりました。今宵、皆さまとともに寮を駆け抜けられたことを誇りに思います」
本当に短い時間だったが。
そう言って頭を下げると。彼はにこやかに笑い、私の肩をポンポンと叩いた。
「……忘れるな。マラソンは寮を巡る風、風とは我ら寮生……寮に入り、巡り惑い、そしていつか必ず外へ出ていくものだ」
それだけ言うと彼はまた走り出した。その背を見送り、私も逆方向へと走り出す。
5,行事:マラソン 【終わり】