2,アザナ:テンジン
2,アザナ:テンジン
階段を走っていた。
上に上がるほど、酒気が強く濃くなっていく。
むせ返るほどの日本酒の匂い、窓からは紅い満月が顔をのぞかせ、1階ほどではないがあちこちにフンドシが散らばっている。
(半ば異界と化している……)
匂いだけで酔いが回りそうになりながらさらに階段を駆ける。
三階建ての建物、その屋上に行き、オヅノさんを助ける。それだけで終わるはずだった。もはや何階分階段を上ったのか判らない。いくら足を動かしても屋上の扉が見えてこない。
(甘かった……。建物の構造すら変質しているようだ)
首にマフラーのように巻きつけたフンドシが走る度にひらひらと揺れ動く。
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ここに至るまでに2人の寮生と勝負、いやストームを繰り広げた。
どうも屋上に辿り着くには寮生たちとの勝負に勝たなければならない、そういう趣向のようだ。まあ、私が勝手に推察しているだけだが。
相手はただの寮生ではない。……そもそも、今の段階で寮に残っているものなどいるはずがないのだから。
……オヅノさんを助けなければならない。
今はまるで九龍城がごとく、無限に増殖しているように思えた。外から見れば摩天楼のように星空に伸びているのだろうか。
走っている時は何かと考えが巡る。脳が同じ動作の繰り返しを命じることに飽きているからだろうか。
踊り場を抜け、階段を上った先……やはり、いらっしゃるか。
コン、コン、コンと下駄の音が階段に響く。黒い学生帽、黒いスラックスに白いワイシャツ、坊主頭に丸眼鏡、そして言うまでもなく下駄をはいている。ピンと伸びた背筋、気品、清廉さが感じられた。
……この感じ、大学生とは違う。おそらくは旧制高投学校時代の方だろうか。
私の暮らした寮は元々は大正時代1920年に旧制高等学校の寮として竣工された。戦後の学制改革にて1950年に新制大学へ統合され、寮もまた大学に継承され、今に至る。
そんな直感が働いた。目が合う。即座に90度のお辞儀をする。
「お疲れ様です!」
「よせ、よせ。俺はそういうの、好きじゃない」彼は煙たがるように言った。男性にしては高い声だった。
上体を起こすと、そこにはふわふわと一升瓶が浮かんでいた。
「いただきます」言って、一口酒をあおった。
この世界について判ったことがある。
この異界と化した寮では一升瓶は望めば出現させることができる。また、フンドシをある程度、自分の意思で動かすことも可能になっているようだった。……原理は知る由もない。
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ところで、さっきまではこんな感じで挨拶をしていた。
「大■■大学ゥ―! 大、大、大○○寮ォー! キョクトォオオー! あだ名をホウガン」
体育会系の組織でよくあるタイプの挨拶だ。立場が下の者が一回の名乗りで許されることはない。普通は何度かやり直しをさせられる。聞こえていようがいまいが、そんなのは関係がない。「聞こえねぇー」「声がちいせぇー」「もっとはっきりしゃべれ」といった具合に、何度やり直しさせられるかは上級生の気分次第である。
そういうのなんか嫌だな、と思われるかもしれない。私もあまり好きではないが、けれどこれにも意味があるのだと思う。下級生を鍛える、度胸をつけさせる、そう言う気持ちを込めて指導をするのだと、私は教わった。
なるほど。確かにそういう温かい気持ちがなければ、ただのシゴキでしかなくやらない方がマシだろう。私は結局、指導することはなかった。それでよかったと思っている。
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今回はそういうのは好きではないということなので、普通に名乗ることにした。
「寮は極東、あだ名をホウガンと申します」
私の寮では入寮して5月の連休が過ぎた頃に、あだ名を与えられる。真名に対する仮名のようなもので、寮の中では基本的にこの名で呼びあうことが推奨されていた。
「ほうがん? ……義経か。良い名をもらったな」彼は眼鏡越しに目を細め感心したようだった。
「ありがとうございます。ですが、由来は判官贔屓から来ています」その言葉に彼は変わらないな、と言って笑った。
「ハハ……。だが確かに、義経にしては大柄で、それにやせぎすだ」私の全裸を一瞥して、一瞬眉を顰めそれから彼もまた名乗った。
「こちらはアザナをテンジンという」
あだな、いや……ア『ザ』ナとおっしゃられた。であれば時代は古い。
「テ、テンジン殿……でありますか」
天神……菅原道真公から名をとられているのか。それに加えて旧制高等学校の時代の寮生。正真正銘、エリート中のエリートだ。尋常な相手ではない。
「構えるな。大したものじゃない。家紋が梅鉢紋だったのと、それに加えて良く勉強しなさいと、それだけのことだ。……そうだな、好きにせよと言われているが。では……三つ質問をする。それに答えられればよしとしよう。なに、簡単だよ」身構えた私の緊張をほぐすように優しい口調で顔には笑みを浮かべた。
それから、寮生なら当然答えられるはず、そう付け加えた。判って当然、判らなければひどく幻滅される予感がする。
(嫌だな……この感じ)手のひらに汗がにじむ。
心臓が早鐘を打ち始める。この手の枕詞は苦手なのだ。
立ったままというのもあれなので、手近な部屋から事務椅子を二つ持ってきて座った。(部屋の備品も戻っていた。それどころかそれぞれの部屋にはかなりの生活感があった)
/
①
寮の規則を全て言わされた。入寮したとき暗記させられたのが役に立った。私の方が当然、あとに入寮しているので規則の数は増えていた。
ただ内容は覚えていたが、助詞などを正確に一語一句言えた自信はなかった。時折、テンジン殿は眉をひそめていた。……おそらくは違っていたのだろう。
②
寮の歴史について説明させられた。いつ竣工されたか、いつ旧制高校の寮から大学の寮に変わったか。寮の役員をやっていた時に、ロートルの寮生やOBたちにそんなことも知らないのかと叱られて暗記したのが役に立った。
「……なんだなんだ、しっかり覚えているじゃないか」感心したようにガッカリしたにも見えた。
「では最後の質問だ。ホーガン」彼は眼鏡を外してから訊ねた。理知的な瞳が赤い月の光を反射する。
「1年目は子供、2年目には大人、3年は……いや3年以降は老人となる。けれど彼らは5年目にはまた子供になる。さて……これは何か?」
(スフィンクスの謎かけに似ている。……けれど簡単だ。引っ掛けだろうか? それとも警戒し過ぎか。旧制高校は3年制だが、大学は4年、だから歯切れの悪い感じになったのだろう)
「答えは寮生です。1年目は新人、寮のことを学びます。2年目になれば寮の役員となり後輩を指導し、寮を運営します。3年目以降はロートルとなり、寮の運営を見守り、時に指導し、時に粗探しに精を出します。そして5年目には卒寮し、社会へと出ていきます。……もちろん、留年や休学、留学、院進などなかった場合ですが」
彼は頭の後ろで手を組み、背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。
「ん――正解だ。つまらん。簡単すぎたな」
胸をなでおろす。正直最後の質問よりも、規約や寮の歴史について聞かれる方が不安だったのだが。
「ご指導ありがとうございました」立ち上がり、自分の分の椅子を部屋に戻した。
また深く頭を下げ、では、先に進ませて頂きます。そう言って脇を抜けようとしたとき、声が掛けられた。
「ホーガン、一つ忠告しておく」
その言葉に振り返る。彼はこちらに背を向けたままだった。
「全裸でいる事、寮の中でならば許されよう。だが一歩外に出てそれをしたならば、法はお前に罰を下すぞ。心しておけ」
「箴言、感謝いたします。寮の名を汚すようなことは絶対に行いません」こんな格好で説得力がないかもしれないが、そのあたりの分別はあるつもりだ。
聞く耳はあるようで安心した、と彼は呟いた。
もう一度、私は彼の背中に深く頭を下げた。
私は階段を上がり、フンドシをなびかせ廊下を走り、また階段を駆ける。
とにかく今は進んでみよう。
2,アザナ:テンジン【終わり】