1,20XX年3月31日
1,20XX年3月31日
バタバタと誰かが廊下を歩く音で目を覚ます。体を起こすと、カーテンのない窓からは眩しい朝日が差し込んでいた。体を起こして大きく伸びをする。
今日が寮の退寮期限だった。私は今度の4月から(もう明日からだが)会社の寮に住ませてもらうことになっていた。明日の朝、会社の寮に入って、それからその流れで入社式なんかをするらしい。
今日の午後5時までには退寮しなければならない。
何もなくなってしまった部屋を見回す。ただ四角く切り取られた空間。
事務机も椅子もベッドも、寮の備品はもう運び出してしまっていたから、昨日は服を重ね着して、床で眠っていた。
そういえば4年前、寮に入ったばかりのときも布団を買う金がなくてベッドの上で服を布団代わりにして寝ていたことを思い出す。
「……おはよう」同居人の少年に挨拶をする。返事が返ってきたことは一度もない。
電車の席で片膝を抱えて、窓から田園風景を眺めている。白いシャツに青いジーンズ、女性にも見える髪の長さ、物憂げに外を見ている。
何も(自分の手荷物以外は)なくなってしまったと言ったけれど、あと一つだけ残っていたものがあった。内開きのドア、閉じた時だけ見えるように張られたポスター。
自分が貼ったものではない。入寮したときには既に貼ってあったもので、日に焼けて酷く色あせていた。裏側には段ボールが貼られていて補強されており、ドアのガラスを隠すように貼られていた。
多分CDか旅行会社か、何かのポスターなのだろうと思うのだが、最後までよく判らなかった。
「今日で最後なんだ」
相手が答えられるはずもない。こちらに気づいてすらいないだろう。
「どうする? やっぱり……一緒に行く?」物憂げな瞳を見つめて訊ねる。
(だから、答えるわけないって……)自嘲する。
このままにしておけば寮と一緒に壊されてしまうだろう。でも彼はずっと寮で暮らしていたのだから、とかなり一人で悩んでいたのだが、悩んだ末やはりこのままにしておくことにした。
(自分が関与するべきことではない……と思う)
廊下にある洗面所兼手洗い場で顔を洗い、髭を剃るために扉を開けた。
/
残っていた学生たちに寮歌と共に見送られて、4年間暮らした寮を後にした。
明日からは会社の寮に入れてもらうが、今日は寝る所がないので1日だけビジネスホテルに泊まることにしていた。
明日の日程と電車の時間、持ち物なんかを確認していて、忘れ物に気づいた。
「あれ……? いやでも、あれを忘れるはずが……ないような」
鞄の中身をすべて広げてみたが、なかった。ホテルにはさっき来たばかり、探す場所はもう思いつかない。
(来る途中で落としたのか)
鞄を確認するが、穴は開いていない。だとすれば……。
「寮に忘れたのか……」
それも考えにくい気がしたが、それしかない。腕時計を確認する。午後3時だった。
(5時までなら寮長のドウシがいるという話だった……間に合うか?)
考えている間も惜しい。もう一度だけ確認したがやはりなかった。鞄は置いたままにして、コートを羽織り財布だけ持って、また寮に戻ることにした。
/
着いた時には4時半を過ぎていた。一応玄関のチャイムを鳴らしたが。誰も出てこない。
(ドウシ……あいつが居ないはずがないんだけど)
今の時間なら、まだ勝手に入っても問題はない……だろうか。さっき、退寮して厳密にはもう部外者だけど……。
ポケットを探る。(携帯電話……置いてきたか、馬鹿だな)
「確認するだけ。なかったらすぐ帰る」言い訳を呟いて、建付けの悪い扉を開いた。不法侵入だろうか。
自分の部屋は極東棟の1階にある。玄関は中央棟に。寮は西、中央、東、極東の4棟で構成されている。各棟はどれも3階建てだ。
靴下で廊下を歩き、自分の部屋の前に辿り着く。
(……誰にも会わなかった……。もう皆出ていったのか)
あらかた物が運び出されてしまった寮を歩いていると、よく遊んでいたゲームの3Dダンジョンを思い出した。
(なんだか怖いな)
静かすぎて、常にホラー映画の脅かす前の前振りの状態がずっと続いているような気がしてくる。
(今にも扉が開いて……ってそんなわけないか)
自室(だった部屋)の扉をゆっくり開ける。やっぱり少し怖い、が、何も起きなかった。部屋には何もなかった。中に入り扉を閉めて、見回す。
「やっぱりない……か。あー、実は記念品のフンドシ失くしちゃって、え……」
当たり前のように、ポスターの少年に話しかけようとして気づいた。
「なんだよ……ポスター、もうはがしちゃったのかよ」
いや、本来なら私がはがしていくべきだったのだが。自分勝手に腹を立てていると、突然、コンコン、と扉がノックされた。思わず息をひそめる。
(幽霊? ……。いやいや、ドウシか誰かだろ、普通に考えれば)
「あ……ホウガンです。勝手に入って悪かったよ。忘れ物を……」
そうっと扉を開くと、誰も居なかった。けれど探し物が廊下に置かれていた。卒寮記念品の刺繍の入った紅いフンドシが綺麗に畳んで置かれていた。……見つかってよかったけれど、理解が追い付かない。
(いやいや、怖いって……)
「……おい、ドウシか? 俺を怖がらせるのはやめろ!」
返事はない。フンドシを手に持ち、考える。
(こんな面倒ないたずらをするような奴じゃない。……ドウシ以外にもこんな手の込んだ悪ふざけするような人はいない。いや、心当たりが全くないわけではないが、今はもう退寮しているはず。……ではこの状況はなんだ?)
考えていると、天井から何か赤いものが降り注いできた。唐突に視界が赤で埋め尽くされる。
/
目を開けると揺れる裸電球が目に入った。
(暗い……気を失っていたのか)
周囲を見渡すと廊下が紅いフンドシで溢れかえっていた。フンドシが乱雑に置かれた廊下は赤い川のように見えた。まるで世界中のフンドシを集めたように。フンドシが世界的にあるものなのかは知らないが。
私はと言えば、なぜか全裸になっていた。
「やりすぎだ、全く。片付け大変だぞ。こんなことをして……」悪戯のレベルではない。
(夢なのか? 俺はいつの間に全裸になったんだ? 脱がされたのか。だとすれば誰に?)
周りを探したけれどフンドシばかりで、自分の服が見つからない。寒い。手に持っているフンドシを確認する。卒寮年度と「ホウガン」の刺繍がある。これは自分のものだ。
(とりあえず……巻くか)
腰に巻こうとして、手が止まった。……なんとなく、マフラーのように首に巻くことにした。深い意味はない。
(とにかく、誰か探そう)
歩き出したところで、『ボン、ボン』と何かを叩くような音がした。怖い。
(いや、この音……放送のマイクテストか)
『あ、あー……。これ入ってるのかな? ホ、ホウガン、オヅノが危ない。助けてあげて下さい』廊下のスピーカーから放送が聴こえた。
少年、いや少女のような綺麗な声に、アナウンサーのような癖のない話し方。寮生でないことは間違いない。
「……あなたは誰ですか。どうして俺を裸に……いやそれよりオヅノさんがどうしたって」
言ってから気づく、スピーカーに話しかけても意味がない。放送設備があるのは当番室、中央棟だ。向かおうとして、返事が返ってきた。
『彼は屋上で、危険な行為をしているので……だから助けてあげて下さい』
(会話できている? 危険な行為って投身とか? いや、この言葉を信じていいのか)
「……す、すみません。あの、あなたはどちら様でしょうか。あと、服知りませんか。なんか裸になってて……。財布とか時計、失くすと困るんですが……」
『え、えーっと私が誰かは説明している暇がなくて……、あと服とかはこちらでちゃんと保管しています。あとで返しますから。今は……行った方がいいかと、一刻を争う……かもしれません』
歯切れの悪さが気になる。……しかしオヅノさんがなにか危険だと言うのなら、行かないわけにもいかない。罠の可能性は……いや、なんの罠だ?
(三階建てだ。確認しても、大して時間もかからない)
「投身なのか? ともかく屋上にいるんですね」
『投身ではないけれど、気を付けて……』
(自殺じゃないのか? ならいい。でもとにかく危険なのに変わりはないか。行こう)
フンドシで滑る廊下を走り、階段を駆け上がる。(階段にはフンドシは少なかった。登れば登るほど、フンドシが少なくなっている気がする。上から流して……一階に溜まっていたのだろうか)
窓からは赤みがかった満月が顔を覗かせていた。
胸がざわついていることに気づく。
恐怖? 違う。これは高揚……だろうか。多分、満月のせいだろう。
1,20XX年3月31日【終わり】