12,アダナ:ドウシ
12,アダナ:ドウシ
ここは既に現実の世界だ。帰ってきた。
であれば寮は摩天楼などではなく、住み慣れた三階建て。屋上まで走るのは大したことではない。
酒気にもいい加減慣れてきた。単に酔っただけかもしれないが。
「ハッ……ハァ……」
屋上へと続く扉の前に誰かが座っていた。
背後の窓から差し込む月光、それに照らされた頭部は剃り上げられていた。
「ドウシ……か?」
「……ホウガンさん、無事でしたか」
彼は安心したようだったが、私の全裸を見て顔をしかめた。いや、それでなくても辛そうに見えた。
「ドウシ、ちょうどよかったよ。オヅノさんが危ないんだ。一緒に助けよう。すぐそこ、お前の後ろ。屋上に……」
ドウシの方へと進む。彼は何も答えない。
(……何か引っかかる)
何かおかしい。なぜドウシはオヅノさんを助けていない? そんな奴ではないはずだ。 わざわざ屋上の前で座って待っていたのか。2人いなければ助けられない状況なのか。だとしても私を待つ理由になるだろうか。
ペタペタと音を立てて歩き、ドウシと一間の間合いほどに近づいたとき、嫌な感じがして、足を止めた。
「ドウシ、なぜ黙っている? なぜ一人でもオヅノさんを助けようとしない。なぜそこをどかない?」
酒気は屋上への扉に近づくほど濃くなっているのを感じた。屋上から流れ出している、とそういうことか。
(まずい……ドウシは下戸だ。様子がおかしいのも文字通り空気に酔っているためか。こんな場所に長居させるわけないはいかない)
「ドウシ、お前は帰りなさい。あとは俺がやっておくから」
「……そう言うわけにも、いきませんよ。私はあなたを止めるために残っていたんですから」
彼はぼそぼそと話した。
「止める? 何を言っている。俺を止めてそれでどうする。オヅノさんはどうなる?」
「屋上の様子を見せるわけにはいかないから、ここに立っているのです。見てしまえば、あなたのような人は魅入られます。あなたには見せられません」
困惑といら立ちを収めて、なだめるように話す。
「ドウシ。他人を判ったように言うものじゃない。人は他人を理解することは絶対にできない。だからこそ、思いやりが必要となる。人は人に対して謙虚でなければ……」
ただの一般論を口にして、内心は別のことを考えていた。
(魅入られる? お前の背の向こう側にはいったいどんな光景が広がっているというのか)
見たい、と思った。その隠しきれぬ欲望を気取られたようだった。
「欲しがるようなものも、そもそも見せなければ、人の心は乱れないといいます」
(老子の道徳経……)
彼の切れ長の目は、月の光を反射して輝いていた。
ドウシはコートを脱ぎ捨て、袖をまくり、腰を落とし、半身に構えた。
(力づくだと……)
「呆れた。……お前が日々、修練に励んでいたのは……人が人を救わんとする、その邪魔をするためであったか!」
叫んで、首に巻いたフンドシを整える。
「理解してもらおうとは思いません。これがあなたのためなんです……」
私を打ちのめしてでも、その先を見せないこと、それがを救いになるというのか。
「ドウシ、それは傲慢だ。見下すのはよせ」
そうは言ったものの、もう通じないことは判っていた。どちらかが折れるしかない。それができないのであれば……
(これはストーム。であれば巻くか、巻かれるか)
私も拳を正面に構える。我流だ、それっぽい構えをしているだけ。それから左手を腰に、右手を手刀とし、ゆっくりと正面に伸ばす。
「先輩を二人も失うのは御免です」
「諦めるのが早すぎる。……日頃の聡明さがない、道志の名も泣こうというもの。下戸のお前のことだ。今の寮の空気、呼吸だけで酔っているのだろう」
「そんな格好をした人が、それを言いますか」
包丁で豆腐でも切るように、スッと手刀で空を切る。
正面、左、右。
「お前に俺が止められるか、ドウシ!」
全身の痛みを忘れようと、わざと威勢のいい言葉を吠えた。
/
格好をつけたものの、ここに至るまでの疲労が重くのしかかっていた。まるでドウシの拳が見えない。いや、万全だったとしても見切れないだろう。それほどに鍛え上げられている。
毎日のように道場に通う姿を見ていた。弱いわけがない。
相当な数を打ち込まれた。あるとき、ピタリと拳が胸に当たる寸前で止まった。いや、寸止めしたのだ。青あざだらけの私を哀れんだのだろう。
「だったらそこをどいてくれないか……」
昔、彼に回し蹴りを教わったことがあるが、使ってくる気配がない。
こちらはただの一度もドウシの体を捉えることができない。近づこうとすれば牽制され、下がれば打ち込まれる。
気持ちが切れかけた瞬間、気づけばドウシは一瞬で詰め寄り、柔道の裏投げかプロレス技のように、私の体を抱え、彼の背後へと放り投げた。フンドシが衝撃を吸収するように動いてくれたが、それでも衝撃を殺しきれず叩きつけられ肋骨が軋む。だが、どこか優しさあるいはぬるさがあった。
(クソッ……寝技に持ち込めれば……)
甘かった。彼の首へと伸ばした腕が一瞬で腕と足に絡めとられた。
(腕ひしぎ……折られる?)咄嗟に思い切り腕を振ると、彼はあっさりと手放した。立ち上がり、向かい合う。
(こいつ……一つ一つ、やることがぬるい)そのおかげで私はまだ何とか、無事で(これは無事なのだろうか)いられているが。まずいな……。
「……ハッ、ハッ……」
(ドウシの息が上がっている? 酒気の所為か。オヅノさんのためにもドウシのためにもむやみに長引かせるわけにはいかない)
ハー、とわざと大きく深呼吸するように息を吐いてから言った。
「もう止めよう、ドウシ」
「……判って頂けましたか」
彼の顔に喜びが浮かぶ。私をいたぶったところで、その実痛めていたのはドウシの心か。だが……違う。
「お前が他人をいたぶるのが趣味でないというのなら……一撃で決めて見せろ。武道というのは本来そういうものだろう」
首に巻いたフンドシをほどき、両腕をだらんと下げる。ノーガードだ。もっともガードしていたところで、私にドウシの為すことを何一つ防げはしないのだろうが。
ドウシは様子を窺っていた。なにか仕込みがあるのではないかと警戒しているのだろう、この全裸の私を。
「ドウシ……俺は見ての通りだ。恐れず打ち込んで来い」
空気が鎮まる。彼はグッと腰を落とし私へと打ち込まれるのであろう拳を後方に引いた。
(痛みは避けられない。せめて今は考えるのはよそう)
拳はどうせ見えない。足捌きに集中する。ここでフェイントは入れてこない、はずだ。ドウシであるのなら。
彼の足が地面から離れた瞬間に、右手に持っていた赤ふんを振り、左手で掴む。そんなことをしている間にも彼は私へと一瞬で近づいた。そのため、彼は私とフンドシに抱きこまれるような形になったが、彼はそれに気づかず、渾身の拳を私の腹に放った。
フンドシを握った拳に意識を集中する。決して離さぬように。
腹が吹き飛んだかのような衝撃、問答無用で体は崩れ落ちようとするが握り込んだフンドシが、彼の背に引っかかり、地面すれすれの所で倒れることはなかった。
「……フンドシ?」
ドウシがそれに気づき、背後を振り返る。
今日、一体どれくらい酒を飲んだのだろうか。素面であれば悶絶していただろうか。それは判らない。
一瞬吹き飛んだ意識も今はもう戻っている。もう、動ける。私は新体操かスケート選手のようにその場で回転し、フンドシをドウシに巻き付け続けた。フンドシ自身も動いてくれているようだ、かなり回転が速かった。
グルグル巻きにされたドウシは、バランスを失いその場に倒れた。私も少し遅れて彼の上に倒れこんだ。
「ドウシ……巻いたぞ」
「まあ……そう、ですね……」
■■
ストームには「巻く」「巻かれる」という概念が存在した。
全裸に脱がされてフンドシを巻かれた方がやられてしまった、そんな共通認識があった。
ストーム、嵐だから「巻き込まれる」。そういう意味から派生したのかもしれない。身勝手な喜びの嵐、それに巻かれ、また巻き込まれる。巻かれたものも嵐に加わり次の獲物を探す。
巻くか巻かれるか、どちらも大差はないのかもしれない。どちらもストームを楽しめていたなら。
狂騒の嵐に巻き込まれてしまったのなら、それはもう既に嵐の一部だ。
■■
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不安はあったが、ドウシは負けを認めてくれた。いや、勝ちも負けもない。これはストームなのだ。あるのは巻くか、巻かれるか。それだけだ。
ドウシの肩を取り、階段を下りていった。下戸の彼にはここに居ること自体が毒となるだろうから帰した方がいい。
玄関で彼の背を見送る。
これでようやく……屋上に向かうことができる。
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また階段を上がり、そして屋上への扉を開ける。
ギィッと音を立てて、扉が開き、日本酒の匂いが流れ込んでくる。
屋上はあたり一面に紅いフンドシで溢れていた。
中央には繭のような、大玉のようなフンドシの集合体があった。そしてそれからは木の根のように数え切れないフンドシが屋上へと延びていた。
(あの中にオヅノさんが居るのだろう)
私の胸は確かに高鳴っていた。
ああ、そうだったと気付く。
私は今日のストーム、その始まりからずっと……楽しんでいたのだ。
12,アダナ:ドウシ 【終わり】