8, アダナ:ミュンヒハウゼン
8, アダナ:ミュンヒハウゼン
赤い月光の反射する霧中、先を進んだ。
階段を昇り切ると、そこには本来あるはずのない寮の当番室が目に入った。
(ここは……寮の玄関に出たのか、なぜだろう。空間が捻じれているのか?)
「今更か……」
時刻も夜ではないようだ。気づけば背後からは月光ではなく西日が差している。
当番室は本来玄関のすぐ脇に設置されている部屋だ。
当番の者は来客者の対応や電話の取次ぎ(近年は携帯電話の普及で個人への取次ぎはほとんどなくなったが)、郵便やら届いた荷物を預かったり、寮の掃除、風呂を沸かすなど、色々仕事をしなければならない。もちろんこれは当番制だ。都合の合わなくなったときは誰かと交代してもいい。その辺は自由だ。
タバコ屋のように玄関側に面した窓ガラスの奥――当番室の中――に、黒髪の寮生がいた。目が合う。
(今回はどんな方だろうか)
「おいおいおい……元気な奴だな。こんな時期に上裸とは……もう10月だぞ」
彼はガラガラと窓口のガラスを開けて顔を覗かせ、訝しげにこちらを見た。人の良さそうな顔立ち。
「当番お疲れ様です。私は極東寮のホウガン……」酒は出さない方がよいと判断した、夕方だし。普通に挨拶し名乗ろうとしたが、言い終わる前に遮られた。
「……ってお前、全裸じゃないか!」
「え……?」普通の反応に、普通であるが故に驚いた。
え、じゃないよと呆れた彼は当番室を出て玄関に出てきてくれた。
(……かなりの常識人のようだ。一周回って厄介な相手かもしれない)
「一応、フンドシは巻いていますが……」
「首にな。巻くところが違うだろう……」
私よりやや背の低い彼は、こちらを上から下までジロジロと見て、それから首に巻いたフンドシ、その刺繍を見て何かを察したようだった。
(フンドシには卒寮年月も刺繍されている。……彼から見れば、おそらくは、未来から来たことになってしまう。まずい、怪しまれるだろうか)
いや……既に十分怪しまれている気もするが。
「お前……まさかいじめられているんじゃないだろうな?」
「いえ、そう言うわけでは……」
寮においてどの辺からがいじめになるんだろうか。こんな風に考えること自体よくないな。
「まあいい、とにかく入れ」
今日は誰も来なくて暇だったしな、そう言って彼は私を当番室に招いてくれた。
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彼は黒髪、黒い長袖の服、黒いスラックス、黒いサンダルといった服装だった。黒に拘りがあるのだろうか。あるいは服装に興味がなくて、無難なものを選んでいるのだろうか。
玄関側の窓口にはスチールの事務机が配置され、机の上には電話やメモ帳、それから当番の日誌が置かれていた。
部屋の奥の方には床の上に畳が2畳敷かれており、その上に炬燵。そこで二人で向かい合うように入った。机の上には飲みかけのコーヒーの入ったカップと誰かが置いて行ったくたびれた漫画週刊誌が置かれていた。
ちらりと部屋にかかったカレンダーを見ると10月になっていた。年は……自分の入寮する10年ほど前だった。
「で、お前の型番は?」
(型番……?)
一瞬理解が追い付かなかった。暫く考えて、おそらくはSF映画にかけて、名前を聞いているのだろうと見当をつける。まあ確かに、状況は似ているかもしれない。
「えー……えっと……960です。あだ名はホーガン、です」そのまんまだな、と自分でも思った。
気の利いた返しが思いつかなかった。彼は腕を組んで、しばらく考え込んでいたが。まあいいか、と息を吐いた。少々ガッカリしているように見えた。場を和ませようとこんな質問をしてくれたのかもしれないのに、失敗したな。
「いや、振りが悪かったな。あ、俺も極東寮で……アダナはミュンヒハウゼンだ」
(え……、あの……)
「あなたが……あのミュンヒハウゼン殿ですか!」
「『あの』ってなんだよ」
「実はあなたの書いた日誌は全部、読んでいて……あ、もちろん見つかる範囲でですが。それで気になっていたんです。どんな方だったのか。演劇の脚本も書かれて……」
言いかけて止めた。これは確か、少し先の話だったはずだ。
「なんだか知らんが、俺のファンのようだな」
彼は照れ隠しをするようにコーヒーをすすった。
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■■
寮生のアダナは入寮した年の5月の連休明けにつけられる決まりになっていた。寮役員に加え、各学部の秀才(寮内においての)が招集されて考える。
アダナに関して明確な名づけの規則はないのだが、大抵は偉人や格言などから取られるのが慣習となっていた。最低限のルールとして個人を馬鹿にするような名はつけてはならない。
いつものように暇つぶしに古い寮日誌をパラパラとめくっていて、読めない名前を見つけた。あとで調べてみて、それはミュンヒハウゼンと読むのだと知った。
彼の各日誌にはいつも小話が書いてあり、私はそれを読むのが楽しみだった。
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「このような話を書けるから、ミュンヒハウゼンの名を与えられたのですね」
「逆だよ、ホーガン。お前もミュンヒハウゼンなんて名前を付けられてみろ。……プレッシャーで頑張っただけだよ」
(名前が先なのだろうか)
「では何故、ミュンヒハウゼンという名を?」
「それは……まあ、俺は独文だし……ま、色々あってな」彼は露骨に濁した。
「で、いじめられているんじゃないんだとしたら、お前は未来から何しに来たんだ?」全裸で、と付け加えた。
私は少し悩んだ。今更かもしれないが、今回の一連のストームは過去に顔を出しているということなのだろうか。だとすればタイムパラドックスの起きる可能性が……。いやそれは、おそらく違う。これは多分、過去の寮生の再現……のような気がする。
(だが……もしタイムパラドックスが起こすことができるとしたら……たしか彼は……)
「どうした、何で黙る? やはり誰か殺しに来たのか?」
「そんな物騒なことは……」迷ったが、そのまま伝えることにした。彼の意見も聞いてみたいという気持ちもあった。
起こったことをそのまま伝えた。突然全裸にひん剥かれ、先輩が寮の屋上で詳しくは判らないが危険な状態にあるという話を耳にし、服を着る間も惜しんで首にフンドシを巻き、階段を昇っていたところ、なぜか本来3階建ての寮は摩天楼と化し、至る所、一升瓶と紅い褌の山。行く先々で過去の伝説の寮生たちとストームや勝負をしなければならなかったのだ、と。
「フンドシを巻くくらい、大して時間がかかるとも思えないが……。まあそれはともかく、随分楽しそうなことをやっているじゃないか、ええ」彼はそう言って目を輝かせた。
「単純に考えれば、主犯はオヅノか声だけの存在か。あるいは……オヅノは捕まっていて、声だけの存在が味方、敵は別にいるのか……これはタイムトラベルの類なのか? だとしたら俺はなんだ……」
「このまま先に進んでよいものでしょうか」もっと早く考えるべきことだったかもしれない。
「寮生といっても無尽蔵ではない。いつか終わりは来るだろう」
「いつか、ですか」
「声だけの存在と、ことあるごとにお前を助けるというフンドシ、その二つはおそらくはお前の味方だと考えていいだろう。……そいつらが邪魔しない限りは進んで問題ない、と思う。保証はできない。悪いな」
「なるほど……いえ、ありがとうございます」
よければ一緒にどうか、と訊きかけたが、これまでに受けたパワハラ、アルハラの数々を思い出すと気安く誘うことは憚られた。
「しかしまあ、それなら急ぐといい。オヅノとやらが心配だろう」
今回は勝負事などはなく通してもらえるようだ。喜ぶべきことなのかもしれなかったが、今回に限っては、少し寂しかった。当番室から出る際、振り返ってやはり誘ってしまった。
「折角だが止めておくよ。夢のような話だが、残念ながら今日は当番を任されている。昔から運が悪いんだよなあ。ここぞという時に、外せない用事がある。ま、当番だったからお前に会えたのだと、前向きに捉えることにしよう」
彼はこたつの天板に顎を載せて、そう言った。なかなか出ていかない私を不思議そうに見ている。
(運……来年彼は)迷った、けれど言わなければ後悔する。だから、言うことにした。
「あの話半分に聞いてくれればよいのですが。その……来年7月の……」
「ああ……? おい、ホーガン!」
大声を出された。それ以上喋るな、そういう意味だ。
「……いい。俺の人生だ」さっきの怒鳴り声が嘘のように、優しくそう続けた。恐ろしく察しが良い。
「すみません」
「いいから……ほらほら、さっさとオヅノの所へ行かないか」
「ミュンヒハウゼン殿、どうかお元気で」
言って、頭を下げて走り出す。ミュンヒハウゼンさんは来年……でも、オヅノさんはまだ救えるというのならば……行かないと。
8, アダナ:ミュンヒハウゼン【終わり】
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【ミュンヒハウゼン】
ホウガンが廊下を走っていった。次はどんな時代へ飛ぶのだろうか。少し羨ましく思う。俺は事務机の方に移り、当番日誌を書くことにする。日誌は筆で書く決まりになっていた。
『十月十日(土)晴れ
来寮者:ホウガン
目的 :オヅノという寮生を助けるため
時刻 : 17:30~17:45』
額に人差し指を当てて考える。
(これだけではよく判らないな)
『※ ホウガンというのは未来の寮生だ。どうも何かの拍子にこの時代に来てしまったらしい。あるいは私が知らず、未来に移動しているという可能性も否定できないが。
なぜこんなバカげたことを言うかと言えば、その男は寮の卒寮記念品のフンドシを持っていたからだ。フンドシには卒寮時の年月日が縫われているが、それは確かに未来のものだった。
……いや、持っていたというのは正確ではないな。彼はなぜかフンドシを首に巻いていて、そしてそれ以外は全裸だった。そんな奴を寮に野放しにするな、と諸兄には怒られるかもしれないが、おそらく問題ないだろう。というのも、彼はこの私ミュンヒハウゼンのファンだという。このような駄文を読んでくれるのなら相当に寛大な暇人と見て、まず間違いないだろう。そんな奴は放っておいてもまあ……問題はない、と思う。そしてこの文章を読んでいる諸兄もまた寛大であることは疑う余地もなく明らかである。
そもそも未来から来た全裸の男といえど、寮生であるならば、寮内に置いて彼の行動を制限することはできない。著しく公序良俗には反していると言われればそれまでだが、彼の時系列においてはどうもストームの最中であるらしく、であるならば全裸であること責めるのは如何なものだろうか。
それに彼はフンドシを巻かないのではなく、巻く時間も惜しいと言っていたのだ。これは泣かせる話だ。もしホウガンを名乗る男が、なにかやらかしたなら私が責任を取って寮を出ようと思う。しかしながら……』
しかしながら、おそらくもう彼には会えない気がする。と書いたが、二重線で消した。フゥ、と息を吐き、まったく夢のような話だと一人で笑う。そして最後の部分を書き足す。
『未来でもこの寮で多くの寮生が暮らしているのだと思うと、不思議な気がする。私の文章が残っているというのも嬉しいような、恥ずかしいような。願わくば、彼らにとって寮での暮らしがよき思い出となることを祈る。
文責:極東 Münchhausen』