三壁の戦国時代
この世界観を殆ど作り上げたminecraftのワールドがあるんですが、欲しいですか?
(Twitter @soga_26に言ってくれれば公開しよっかなと思ってます)
講和条約の結果、戦勝国の月都・東安・石野が超大国を分割する一方で、その"元"超大国・三壁では食糧不足が深刻化し、餓死者が続発した。
餓死してもリスポーンで人口が減らない事が、却って国民を苦しめているらしい。
極度の食糧難によって三壁共和国は瓦解の危機にあった。
穀倉地帯だった石野属州から極めて安価に収奪していた小麦が今では、ダイヤよりも重んじられるようになっているとか。
東安商人はこれに商機を見出し、余剰食糧の輸出を始めた。
東安は市街予定地や宮殿を全て穀倉地帯にしたため、余剰食糧が発生していたのだ。
東安商人は外街11区・12区の開発を進める原資を、三壁に求めた。
手初めに、東安と外街12区を結ぶ川の運河化が行われた。
運河建設費用を全額三壁側が拠出し、食糧運搬を容易にしたのだ。
こうして三壁共和国は建国以来の危機を脱した。
しかし、これまで属州や南三壁から収奪してきた富は流出し、「世界最大にして唯一の国家」から、「世界最小にして最貧の国家」へと転落していった。
落日の北三壁を捨てて南三壁に移住する者が増え、北三壁は食糧調達のために更に重税を課し、そしてまた人口が減少する、といった連鎖に陥った。
更にこれには1つの問題があった。
東安は三壁に対し、「輸出量に応じた支払い」ではなく、「安定した供給に対する支払い」を求めていたのだ。
つまり、輸入量が減少しても支払額は減少しなかったのだ。
北三壁は次々と不動産を売り払い、首都繁栄の象徴とされた500戸建のマンションですら、東安に担保として取られたのだとか。
やがて北三壁の国民らは、外街10区の城である新街城周辺にスラムを形成した。
そこ以外に住む場所を失ったのだった。
新街城正門前屋敷にはかつて、三壁共和国の政庁が置かれていた。
しかし正門前屋敷も東安に奪われてしまい、今残るのは新街城の本丸くらいのものだった。
新街城の三の丸は食糧難の際に小麦畑化されていたが、やがてそこにもスラム街が発達した。
衣食住もやがてままならなくなった北三壁では、首都でクーデターが勃発した。
無能な共和政府に代わり、軍人皇帝を立てるよう要求し、首都から逃れようとした大統領は逮捕され、三壁帝国が成立した。
このクーデターに熱狂した一部の北三壁系の移民が北三壁に回帰し、その流れで北三壁の経済再建が行われ始めた。
手始めに東安に奪われた資産を取り戻すとして、外国資産の国有化を行った。
東安はこれに猛反発して侵攻するも、スラム街でのゲリラ戦法に苦戦し、補償金の支払いを条件に講和した。
三壁帝国の出現は脅威であった。
三壁の皇帝は新街城内を農地として開放し、雪原の農地化にも励んだ。
更に北石野侵攻を企図し、我々月都帝国に不干渉の密約を提案してきた。
これについては相互不可侵を条件に、条約を交わした。
月都からの融資の依頼も申し入れてきたが、それは不動産担保の没収の可能性があるため拒絶した。
南三壁の三壁公国の一部にもこの動きに期待する者が現れ、「分断された大国」三壁の再統一を掲げて南北会談が行われた。
石野戦争中、三壁帝国は三壁公国を併合する形での再統一を目論見、三壁公爵に自治を約束して併合承認を取り付けた。
形式上は月都からの買収であり、我々には金銭的損害がないためこれを承認した。
石野戦争の勝利後、三壁帝国は石野共和国を併合した。
こうして、かつての共和制三壁の南北国境線をわずか数ヶ月で回復してしまった。
残るは東西。
東には東安の奪った11区と12区、西には首都に隣接する西石野。
この対外戦争の準備中、宣戦布告を目前として、初代三壁皇帝が暗殺された。
暗殺とはいっても、すぐにリスポーンする筈だが、行方不明になったのだ。
暗殺はすぐに東安商人の差し金と断定された。
三壁は東安と開戦するも、優秀な前線指揮官でもあった皇帝が不在のため戦線は膠着し、両国ともに疲弊したため講和した。
更にその講和条約で三壁帝国政府が下街を放棄した事に不満が高まり、各地で講和反対の火が上がった。
また戦時の皇帝不在を口実に、臨時執政官が独裁を敷いた。
しかし執政官が独断で首都を南遷したために、北三壁は戦乱にこそ巻き込まれなかったものの荒廃が更に進み、外街10区の人口は遂に100人を下回った。
一方で南三壁では帝国政府が遷都して上に乗っかった事より自治権を奪われ、また北三壁の統治が困難となった事による重税に加え下街の放棄という「3大悪」を原因として、城を追い出された旧三壁公爵らが蜂起し、帝国政府の主要人物を牢に繋いだ。
下街では東安による開発が行われるも、殆どが資源目的のもので、採鉱が終了すると穴だらけの無人区となった。
北三壁では無政府状態となり、更に殆ど無人になったため、石野共和国が再独立を果たした。
南三壁では三壁公国が復活し、「中部三壁」とする外街6、7区周辺の調査を行った。
旧北三壁国民の多くは外街5区に移住したため、平屋しか無かった外街5区では再開発が始まった。
第2次三壁公国の許では外街7区への再居住が進められた。
月都領石野でも、三壁帝国による侵略未遂で停止していた西石野の開発が再開された。
彼等がついでに北三壁へ調査に向かわせると、数人程度の住民が残っていた。
住民はかつての住処に住んでいたが、市街は数度の混乱で荒れ果てていた。
とはいえまだ住める状況だったとか。
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