約束
あれはセリナが学園に入学する少し前の事。
いつものようにギルバートが子爵家にやってきて庭の散策をしながらオーラの汚れを取り除き…
その日はとても蒸し暑い日で。
ギルバートのオーラの汚れがなんだかいつもより多くて。そのせいなのかギルバートもいつもより口数が少なくて。
オーラに漂う黒っぽい靄は、セリナがオーラに触れると手に吸い付いてくるので、吸い付いてきた順に取り除いてゆくのだけれど
その日、最後まで残っていた大きめの靄がなかなか吸い付いてこなくて、靄の近くまで手を近付けてみたりしていた。
いつの間にか二人共無言で額から汗を流しながら歩いていて、吸い付いてこない靄に集中している時に汗が目に入って我にかえった。
「あ…」
こんなに暑いと散歩は不快だろうと遅まきながら気が付き「邸内に戻りましょう」と声を掛けながらギルバートを見て、セリナは声を失った。
ギルバートの顔から表情が抜け落ちていた。
虚ろな蒼い瞳はどこも見ておらず、セリナが声を掛けたのも聞こえていないようで、陽炎のようにユラユラと歩いている。
何があったのだろうと思いながらも、このまま歩き続ければ熱中症で倒れてしまうと思い、でも何となく邸内に戻るより外に居た方がいいような気がして
少し考えてから、そっとギルバートの手を取った。
裏庭にあるハーブ園は小高い丘のようになっていて、風の通りが良い。
木陰のベンチまで手を引いて歩いたが、ギルバートは心ここにあらずでセリナにされるがままに手を引かれていた。
ベンチに座らせてから「少し待っていて下さいね」と声を掛け、離れて付いてきていたメイに頼んで、冷たい飲み物と大判の手巾の用意と、園内にある井戸から水を汲んできて欲しいと頼んだ。
風はハーブの爽やかな薫りを含んで涼やかに抜けてゆき、先程までの汗が引いてゆく。
汲まれてきた井戸水は冷たく、その中に待っている間に摘んでおいたミントとラベンダーを細かく千切って入れた。そこへ手巾を浸して軽く絞る。
ぼんやりと放心しているようなギルバートの額に黄金の髪が貼り付いてしまっている。指で髪をそっと払い手巾を当てるとギルバートはビクリとして、それから漸く焦点の合った瞳でセリナを見た。
セリナよりもずっと身体の大きなギルバートが、何故だか幼い子供のように見えた。
「汗、お拭きしますね」
セリナが微笑んで言うと小さく頷くのでそのまま額と頬を拭い、再度ハーブ水に手巾を浸して絞り、首筋に──
ふいにギュッとセリナの手首を掴んだギルバートの手を払わなかったのは、まるでその手がセリナに縋っているように思えたから。
手巾はギルバートの首筋に当てられたまま、暫し無言の時が流れ
「母に──」
言い差して、セリナの瞳を窺うように見るので、セリナはこくんと頷いた。するとギルバートは安心したように身体の力を抜いた。それで初めて、今日のギルバートはずっと強張ったようになっていたのだと知った。
「3学年からの選択科目に、魔法科を入れなかったと両親に伝えたんだ。…俺は文官になり、王太子の側近になる。」
そう言い切った時の蒼の瞳は未来を見据えて強い光を放った。
学年はひとつ違うが、生徒会の活動などで王太子リカルドとは親交があり、信頼もして頂いているという自負がある。
何よりギルバートは政治に面白味を感じて関わりたいと思った。
ギルバートの父はそれを了承したが、母はギルバートを蔑んだ。
『スタンレイ公爵家を継ぐ者が魔法科を選択しないなど有り得ない』
ギルバートの母はそう言うとギルバートに侮蔑の視線を投げ
『側近だなんて…下らない』
そう吐き捨てられたのだと、ギルバートは無表情で淡々と話しているがその心の裡では深く傷付き悲しんでいるのは彼のオーラを見ればわかる。
ギルバートの煌めく青銀のオーラに今日はその煌めきが見えず、悲しみの灰色に沈んでいる。
セリナの手首を掴んでいたギルバートの手はいつの間にかセリナの手を手巾ごと握りこんでいた。
セリナはただ話を頷きながら聞き、ギルバートの手の甲を自身の握りこまれた手の親指で撫でていた。
この国では魔法を使える者は少ない。使える─魔力を保有しているのはほぼ、高位の貴族のみと言える。
そしてスタンレイ公爵家を始めとする魔力のある高位貴族の当主達は、国を護る結界魔法の為の魔石にその魔力を提供する。
一年のうち4回、季節の変わり目の定められた日に、魔石に魔力を込める儀式が行われる、それだけの役割だ。
学園で魔法科を選択すれば様々な魔法を学ぶ事になるが、それとてさほど難しい事ではなく、学園で習うような事はギルバートもジェームスも既に入学前に習得している。
学園で魔法科を選択するというのは、パフォーマンスだ。魔力保持の家なのだと知らしめる為だけの形式的なものに過ぎない。
けれど母はその“家の為の形式”を選択出来ない者が家を継ぐなど笑わせる
ギルバートにはそう言って
『魔法科を選択したジェームスは流石ねぇ』とジェームスを手放しで褒めていた。
「まぁ要するに…我が家は相変わらずだ、というだけの話だ。」
最後にギルバートはそう言うと、ふっと短く息を吐き
セリナを見てにこりと微笑んだ。
セリナは胸が痛んだ。ギルバートの感じている悲しみは、セリナも知っている。
仕方ないのだと諦め、無関心になっても、閉じ込めた心の裡には悲しみが溢れている。
理解出来るからこそ、セリナも微笑んだ。
「喉が乾きませんか? 冷たいハーブティーをどうぞ。」
差し出したそれをギルバートは笑って受け取り飲み干した。
最後まで残っていた靄は、いつの間にか消えていた。
その日の帰り、馬車に乗り込むギルバートを見送る為に玄関ポーチまで出ていたセリナに振り向き、ギルバートが言ったのだ。
「ここに通うようになった最初の日に“これから付き合って欲しい”と言ったが…」
そう言うと躊躇うように視線を彷徨わせ、セリナがこくんと頷くのを見て一旦口を噤んで視線を下げたギルバートが
再度顔を上げてセリナをひたと見て言った
「一生、付き合って欲しい……と…言ったら、どうする?」
セリナはにこりと笑んで答えた
「いいですよ。」
息を呑んで驚いたようにセリナを見つめるギルバートがなんだか可笑しくなって「ふふっ」と笑ったセリナが「あ、でも」と続ける
「学園を卒業してからになりますし、それまでの4年間で事情が変わる事もあるかも知れませんので…そうですね、私が卒業する辺りで、その時もまだそう思うのでしたら、父にお話して下さい。」
そう言うとひどく安心したように微笑んで「わかった」と言ってギルバートは帰っていった。
ギルバートの侍女になって、日々、この強くて繊細なお方のオーラのお掃除をする人生も、まぁ、良いではないか。
そう、思ったのだ。
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いつもセリナが乗っている子爵家の馬車と違い、揺れをほとんど感じない座り心地の良い座席に大人しく座り、向かいで長い足をゆったりと組み、窓の外を眺めている整った横顔を盗み見して、セリナはこっそりとため息を吐いた。
週に一度、ギルバートとダンスの練習をすると約束させられたセリナだったが試験も近い事だし、それを言い訳に有耶無耶にしてしまおうと思っていたのだが甘かった。
先週、マーガレット達とカフェテリアでランチをしている時にギルバートがやってきて─それだけでセリナは注目の的になり、未だに令嬢方から剣のある視線を向けられヒソヒソやられているのだが、そんな視線などお構いなしのギルバートに
「今日の放課後ダンスの練習をする」と言い渡された。
「でも試験が近いので」と断りを口にしようとすると「なら試験勉強も見てやろうか」と言われて、慌てて「いえ! それは大丈夫です!」と叫び
「ではダンスの練習だけでいいな」と言うギルバートに言い返せず
授業が終わったらセリナの教室まで迎えに来ると言うのを「それだけは勘弁してくれ」と頼み込んで
放課後になってしぶしぶ学園の馬車止めまで来ても
「あの、きょ、今日は、ダンスシューズも持ってきていませんので」
とやんわりお断りしようとした往生際の悪いセリナに
「ならば途中で買っていこう」とアッサリ断り文句を封じられ
連れて行かれた高級そうな靴屋でもいつの間にか支払いが済まされていたのに焦って「自分で支払います」と言うのを
「誕生日が近いのだから、プレゼントする」と押し切られ…
そしてまた今週もこうして拉致られるように公爵家の馬車に乗せられているセリナだった。
迎えに来ていた子爵家の馬車に事情を話して、このまま帰るよう伝えた時に、馬車と一緒に迎えに来ていたメイに何故か満面の笑顔で「かしこまりました」と返事をされたのも恨めしい。
それでも、セリナの為にわざわざダンスの先生まで用意してみっちりと練習に付き合ってくれているギルバートには感謝している。
申し訳なさと、後から何かお礼をしなければと考えると胃が痛くなってきそうで(こんな事ならお父様に“デビュタントの為のダンスレッスンをさせて欲しい”と、自分から頼んでおけばよかった)と山のように後悔していても。
高位貴族家でのマナーやしきたりを学ばせてくれる家庭教師については、レイモンドになんだか疲れた顔で
「それは…家によってしきたりが違う事もあるし、ギルバート様に直接お話して全てお任せするのがいいと思うよ」
と言われて「それもそうか」と思ったものの、まだ言えていない。
試験もあるし、ダンスレッスンもあるし、年明けのデビュタントが終わってからでいいか、と思っている。
「もっと背筋を伸ばして!」「姿勢が悪いですよ!」「足元を見ない!」「笑顔! 忘れていますよ!」
公爵家のダンスの教師はスパルタだった。
先週はギルバートにホールドされた時に、あまりの近さに(ひぃぃ)と焦って挙動不審になり、散々ダメ出しをされてしごかれた。
距離が近いギルバートからは爽やかで甘いシトラス系のなんだか良い香りがして、パニックになったセリナは脳内で何故か(ごめんなさい、ごめんなさい)を繰り返しながら涙目になっていた。
ダンス教師はスパルタだが始まりと終わりの挨拶の際はとても優しく優雅で、今日もヘトヘトになったセリナに
「筋は悪くありません。上達していますよ」
と優しく微笑み「ではまた来週。がんばりましょう」と言って帰っていった。
飴と鞭の使い分けの達人でもあるのだろう。
「疲れただろう。お茶でも、とも思ったが今日は少し遅くなった。」
帰りに送って頂いている馬車の中でギルバートに言われ、疲れて呆けていたセリナは慌てて姿勢を正す
「い、いえ、私の方こそ、試験前の貴重なお時間を頂き」
「試験だからといってわざわざ勉強しなくても俺は大丈夫だから気にするな」
セリナの言葉に被せるように言われ、頭を下げた。
「─明日」
馬車の窓から暗くなった街並みを眺めていると、向かいからギルバートの声が降ってきて
セリナが顔を向けて視線を合わせると
「放課後にまた少し、時間を貰えないだろうか」
そう言われて2日連続でダンスレッスンかと心の中で(うぇ…)と思っていると
「ああ、ダンスではなくて…少し、付き合って貰いたい所があるのだが」
セリナは思案し、首を横に振った
「今、父が領地から戻ってきておりまして。明日は早めに帰宅するよう言われていますので」
明日はセリナの誕生日だ。一緒に祝いの晩餐を取る為、父は一時的に領地から王都に戻ってきている。
「そう…か、そうだな。悪かった。」
それきり黙ってしまい、セリナも─本当に疲れていたので─黙って窓の外を眺めているうちに子爵家に到着した。
「じゃあ…また明日、学園で」と言うギルバートに「はい。ありがとうございました」と返事をするも、何か言いたげな表情をして立ち去らないので黙って待っていたが
ギルバートはふるりと首を振り「ではな」と帰っていった。
いつもなら言いたい事ははっきり言うのに
(なんだったんだろ?)
首を傾げながら宵闇の空を見上げると冬の夜空に星が瞬いていた。
──明日は15歳の誕生日だ。