前世の話し6
葉山さんは私が牛乳を飲み干すのを満足気に見守ると、空になったコップをシンクに戻した。
こうなってくると、一体自分が何を飲まされたのか不安が高まり、ただただ私は椅子に座って硬直していた。
味は変ではなかった。学校で飲むパック牛乳と同じような味だった。
普通の味だったはずだ、変な物は入っていないはず、と私は何度も何度も味の記憶を掘り返しては、自分自身に言い聞かせていた。
葉山さんは戻ってくるなり、縮こまっている私を見てくすりと笑んだ。
「一つ言っておくけど、別に変な物とか入れてないから。普通のホットミルクだよ」
安心させるためか、葉山さんはそう言って私を慰めたけれど、私はその言葉をどうしても信じることが出来なかった。
彼の言っていることの何が本当で、何が嘘なのか今の私は・・・いや、今までの私ですら、分からなかったのだから。
「ま、いいけどね」
不信感をつのらせてぐるぐると考え込む私を眺めて、葉山さんはキザったらしく肩を竦めた。
「今から言うことを信じられないなら、別に信じなくて良いよ。・・・・・・君みたいな不細工で、ガリガリに痩せて貧相なガキに性的興奮を抱くはずないだろってこと」
ハッキリと明言して、彼は自分のコップに口をつけた。
私は、信じられない心地で彼を見つめた。完全に疑心暗鬼にかかっていた。
けれど、彼の言うとおり私は貧相で、みっともない、見るに堪えない人間であることは曲げようのない真実であった。
私はそのことに若干肩の力を抜いて、それでも警戒心を解くことなく彼に問いかけた。
「・・・・・・ならどうして・・・、私に声かけたんですか・・・」
テーブルに肩肘をついて彼は、明後日の方向に顔を向けて考えをまとめると口を開いた。
「言ったろう?僕は人の心の機微が分からないと。ちょうど、今書いている小説に君のような登場人物がいてね。多感な年頃の少女が「一体何を考え、何を見て生きているのか」知りたいと思っていたんだ。だから君に近寄った。まあ、歳が離れているし生物学上僕は男で、君は女だ。距離を詰めるのは中々に難しかった、と言って良いだろうさ」
そう言い放って葉山さんは、一度席を立つとスマホを片手に戻ってきた。
私は彼の一挙手一投足を見逃すまいと目で追い続けた。
性的興奮をしないということを信じたとしても、いつ気持ちが変わって殴られたり蹴られたりするかだけは分からなかった。
「ま、二年の歳月のおかげか、なんとわなしに君の考えもある程度理解できるけどね。でも、なんとなくでは意味が無いんだ。僕は詳しく知りたいんだ。でないと今までの茶番が水の泡だしね。さて、次の段階に移ろうかと思っていた矢先に、君がこうして自ら此処に来てくれた」
私は言葉を飲み込んだ。
目的を達成する為、あまりにも時間と手間のかかる間怠い手段を選択したことに驚いた。そして同時に、それを本気で実行に移した彼が正気とは思えず恐怖した。
私は彼に選ばれたのだ。
生贄というのではなく、実験動物に近いソレに。
選ばれ、それと気づかずのこのこと着いてきた。けれど、私にはもう葉山さんしかいなかった。助けを求める先が彼しかいなかった・・・これこそが最たる不運なのだと、遅れて悲しみが湧く。
「だから話してよ。今まで君が何をされて何を感じて生きてきたのか。ちょうど君も僕に話したくて仕方ないんだろう?」
そうして、葉山さんはスマホで録音表示をタップした。
その行為が、本当に情を向ける相手に対するものでは無いと心で理解した瞬間、私は見苦しくも涙を零した。
ぽたぽたとテーブルに涙が散っていく。
顔を伏せた私が泣いていると気が付いた葉山さんは、ことさらに優しい口調で促した。
「さあ・・・僕に相談したいことがあったんだろう?何があったんだい?」
私は、涙と共に吐き出した。
もう、彼が望む通りに終わらせようと思ったのだ。
葉山さんが私に優しくしてくれたのは、嘘だったと分かった。でも、この二年間その嘘に救われていたのも本当だった。
欺瞞だ、彼の存在そのものが。
けれど、本当に、私は・・・、図書館でのたわいないやり取りにどれだけ救われる思いだったか、きっと彼は知らない。
だからこんなにも、惨いことができるのだ。
学校でも家でも無い者として扱われ、まるで透明人間だった私が、好きな本だとか、数学で躓いたところだとか、そんな当たり前の会話を、日常を味わえたのは貴方がいたからだった。葉山さんといる時だけ、私は色付いてほんの少しだけ人になれた。
貴方の前で、私は私になれたのに。
こんな時、馬鹿だったら良かったと後悔した。
葉山さんは、私との関係を終わらせようとしていた。
彼は私への関心がなくて、ささやかな興味があった。
きっと、ここで私が全て話し終えたら、私への興味はもう終わり。
明日から私は、本当の透明人間になるんだ。
「私・・・・・・、家でも学校でも居場所が無くて・・・」
「うん、それで?君はどう感じた?」
つまりながら話し出した私に反して、彼は淡々と事務的に相槌をうった。
「ずっと・・・寂しかったです。誰も私のことを見てくれなくて・・・、お母さんに・・・愛して欲しかった・・・。お姉ちゃんのお下がりの服じゃなくて、お母さんが私の為に用意してくれた服を着てみたかった。お父さんやお母さん、お姉ちゃんや弟と同じ席で皆と同じ食事をとってみたかった」
リビングでテレビを観ながら皆で笑ったり、一緒の部屋で寝たり、起きたら「おはよう」って言ってくれたり、私が好きな食べ物を作ってくれたり皆で旅行に行ったり、お姉ちゃんと弟と手を繋いで登校したり・・・・・・、いつか普通の家族になれると信じて・・・私は今日まで生きてきた。
「・・・うん、もういいよ。データとしては物足りないけれど、もう時間も時間だしね」
時計の針はとっくに10時を過ぎていた。30分以上は長く話していたらしい私は、喉がカラカラだった。
葉山さんはコップに水を注ぐと、私に差し出した。私は抵抗なくそれを飲み干した。
「気を付けて帰ってね、さよなら」
コップを返すと、葉山さんに背を押され外に出た。雨は変わらず激しく降り続け、やむ気配がない。返却不要を前提に、葉山さんから黒の折り畳み傘を貰って私はマンションの外にいた。
ーーそうですね、さようなら葉山さん。
私は彼の折り畳み傘をマンションの郵便受けの下に置いて歩き出した。
「疲れたなあ・・・」
激しい雨に打たれながら、光を落とした世界で私は一人歩き続けた。
私の家とは言えない家に辿り着いた頃には、身体的にも精神的にも疲労が強くて何も考えられなかった。
玄関のドアノブを回した時、ガチャリと音がして開けることができなかった。
鍵がかかっていた。
「・・・ふ、ふふ、・・・・・・あは、あはははは」
滑稽だ。
まるで道化ではないか。
悲劇のヒロインぶっているくせに帰る場所としてここを選択している自分自身が、なんと愚かでしょうもないことか。
『家』ではない、私はこの家の鍵をもらったことがなかった。
もう何もかもが可笑しくて、私は図書館に向かった。
敷地の進入禁止チェーンを跨いで、私は建物の入口に座り込んだ。軒先では完全に雨を防ぎきることができず、体温は刻一刻と下がっていった。
「やっぱり、私の居場所はここだけ・・・」
本のある場所が私の居場所。
もう人なんて信じられない。信じてはいけない、人を見定める目も何もかもが無いのだから。
壁に寄りかかって、瞼を閉じ葉山さんの姿を思い浮かべた。
彼は残酷だ。それでも、残酷な行動のその裏で彼の優しさを感じなかった日はなかった。
貴方の優しい笑顔が好きだった。
あぁ、でも絶対にこれだけは言わない。
だって、それを認めてしまったら、私があまりにも可哀想じゃないか・・・・・・。
翌朝、冷たくなった少女を職員が発見した。