第八十八話
『リンドブルム様』
『うん?』
まだリンドブルムがレギンに倒される前。
ティアマトにレギンを発見した事実を告げに来た帰りのこと。
トラオア城跡を出ようとしていたリンドブルムは、ザッハークに呼び止められた。
『君か。怪我は大丈夫かい?』
『ええ、まあ。ティアマト様に仕置きされるのはいつものことなので』
つい先程、失言からティアマトに痛めつけられたザッハークは苦笑を浮かべる。
『君も災難だな』
『…それよりも、これからリンドブルム様はどちらに?』
『私かい? ティアマトに頼まれたように彼に会いに行くつもりだけど?』
リンドブルムは小首を傾げながら答えた。
ティアマトはリンドブルムに一つ頼みごとをしていた。
それはレギンと言うドラゴンが本当にファフニールかどうか確かめること。
『危険では、無いですか? あの黄金と戦うなど』
『そうでもないさ。別に殺したり殺されたり、って話じゃない。少し実力を見るだけさ』
実力さえ見極めることが出来れば、命までは奪わないつもりだ。
仮にレギンがファフニールで無かったとしても、同胞であるドラゴンを殺すのは気が引ける。
『…あなたくらいでしょうね。我の強い六天竜でありながら、他者を気に掛ける心があるのは』
『君だって同じ六天竜じゃないか。いつもティアマトに従っているようだが、本来なら立場は対等である筈だろう?』
『いえいえ、俺が竜紋を得たのは何かの間違いなんですよ。五百年生きても野良のドラゴンよりも魔力が低いこんな俺など…』
自虐するようにザッハークは呟いた。
『君は本当に謙虚だね』
変わり者と言うなら、それはザッハークの方だとリンドブルムは思う。
いつも卑屈で同じ六天竜に対してすら、低姿勢のままだ。
『…ああ、ところで』
作り笑みを浮かべながらザッハークは呟く。
『やはりあなたは、人間の子など愛してはいなかったのですね』
『…今、何て言った?』
リンドブルムの顔から笑みが消える。
それは聞き捨てならない言葉だった。
『いえ、どうやらあなたはファフニールを赦しているようだったので』
ザッハークは嘘臭い笑みを浮かべて言葉を続ける。
『あなたの縄張りを焼き払い、子供達を殺したドラゴンを、あなたは殺す気が無いと言いましたよね?』
悪意に満ちた言葉が、リンドブルムの押し殺した感情を暴き出す。
『つまり、あなたが人間の子に抱く思いなどその程度だったと言うことでしょう?』
『それ、は…』
『ああ、いえ。別に責めている訳ではありませんよ? 我々にとって人間なんてそんな物です』
言葉を聞く度にリンドブルムの心がざわつく。
一度は理性で抑え付けた怒りが、再燃する。
『どうせ、放っておいても数十年で死ぬ命だったのですから』
『ッ!』
それは、その言葉は、リンドブルムにとって致命的な言葉だった。
人と竜の寿命の違いに苦しむリンドブルムには、絶対に認められない言葉だった。
『………』
『おや? もう行かれるのですか?』
『…ああ』
リンドブルムはザッハークに背を向けたまま言った。
『ファフニールと会ってくる。もし、彼が本当にファフニールだと言うのなら、私程度に殺される筈がないだろう』
平静を装っていたが、リンドブルムの眼には怒りが浮かんでいた。
先程までの穏やかな雰囲気はどこにも無い。
ファフニールが少しでも隙を見せれば、リンドブルムは躊躇なく殺すだろう。
『そうですか。では、お元気で』
ザッハークは、ほくそ笑みながらそれを見送った。
「苦労したぜェ。全くよォ」
右腕でティアマトの胸を貫いたまま、ザッハークは世間話でもするように呟く。
「十三年前からずっと、屈辱に耐えながら機会を窺っていたんだよ。アンタをこうして殺すことを夢見ながらずっとなァ!」
『お、のれ…!』
「そうそう! その顔! その顔だよ! ああ、感動のあまり涙が出そうだァ! キヒヒヒヒヒヒ!」
嘲笑しながらザッハークはティアマトの体から腕を引き抜く。
乱暴に地面に叩き付けられたティアマトを見下ろし、口元を吊り上げた。
「はぁ、十分に堪能した。つーわけで、もう終わりにするわ」
そう呟くザッハークの両肩から二つの首が伸びる。
大きく口を開けたそれは、眼を爛々と輝かせてティアマトの体に喰らい付いた。
『!』
グチャグチャ、と水っぽい音を立てて咀嚼を続ける。
致命傷を負ったティアマトは悲鳴すら上げない。
(同じドラゴンを、喰らっている…?)
レギンは目の前の光景に言葉を失った。
異形のドラゴンが同胞であるドラゴンを生きたまま喰らう。
異様な雰囲気に呑まれ、レギン達は言葉を発することすら出来ない。
ほんの数秒の内に、ティアマトの体は完全に喰らい尽くされてしまった。
「キヒヒ! ああ、力が漲る! 最ッ高の気分だァ!」
歓喜の声を上げるザッハークの背中の肉が盛り上がる。
ミチミチと肉を破りながら現れたのは、黒い翼。
ドラゴンである証でありながら、今までザッハークの背には無かった物。
「コレで六天竜も二体目! 名実共に! 俺が最強のドラゴンだァ!」
新たに生えた翼を動かしながら、ザッハークは宣言した。
(二体目、だと? コイツ、まさかリンドブルムを…)
リンドブルムの遺体は馬車ごと行方不明になっていた。
ザッハークがドラゴンを喰らうことで力を奪うことが出来ると言うなら、リンドブルムの遺体を奪ったのもこの男だろう。
元々六天竜に選ばれるドラゴンでありながら、同じ六天竜を既に二体取り込んでいる。
それはもしかするとティアマトよりも…
「ザッハーク!」
レギンの思考を遮るように叫び声が聞こえた。
怒りと憎しみに満ちた声。
黒い雷を纏いながらザッハークへ襲い掛かったのは、エーファだった。
「やっと、やっと見つけた! 皆の、仇!」
エーファは黒塗りのスティレットを振るう。
かつて自分から全てを奪った仇敵の心臓を穿つ為に。
「仇? 俺が?」
「忘れたとは言わせないわよ! 十五年前、教会を襲ってそこに居た私の家族を殺したでしょう!」
「十五年前、教会…あー」
エーファの振るうスティレットを黒い翼で防ぎながら、ザッハークは己の記憶を探る。
ザッハークの口元が三日月のように弧を描いた。
「悪い。心当たりがあり過ぎて、誰だか分からねえや。キヒヒヒヒヒヒ!」
「お前…!」
激高するエーファを眺めながら、ザッハークは心底愉快そうに嗤う。
次々と繰り出されるエーファの猛攻をその翼で全て防ぎ続ける
「人間にしては速えな。俺を殺す為に努力したんだろう? 十年? 十五年? それくらいか?」
パキッ、と言う軽い音と共にエーファの持っていたスティレットが砕ける。
「だが所詮は、たかが十年の努力、たかが十五年の憎悪…」
ザッハークは冷ややかな目でエーファを見下す。
「その程度で、五百年を生きる俺に勝てると思ってんのか、クソガキィ!」
大きく開いたザッハークの口に、暗い色の光が収束する。
ザッハーク自身の首だけでなく、その両肩から伸びる二つの首も同様に暗色の光を放つ。
「『ブレス・ドライファッハ』」
同時に放たれる三つのブレスは混ざり合い、より大きな光となって敵を滅ぼす。
至近距離から放たれたそれを、エーファは躱せない。
「…黄金よ、身を護る壁となれ!」
しかし、その暗色のブレスはエーファに触れる直前で黄金の壁に阻まれた。
衝撃で砕けた黄金が降る中、レギンはエーファを守るように前に出る。
「気持ちは分かるが、突出するな」
「…ごめんなさい」
助けられて少し頭が冷えたエーファは素直に謝った。
正面からの力圧しなど、エーファの戦闘スタイルじゃない。
仇を前に、冷静さを完全に失っていた。
「…ファフニール、か」
レギンを見て、ザッハークは呟く。
その顔には凶暴な獸のような笑みが浮かんでいた。