第八十六話
ドラゴンにとって翼とは『誇り』だ。
醜いワームとして生まれ落ち、生存闘争を生き抜き、その果てに得られる翼。
この空を自由に飛ぶこと。
それは人にとって自身の足で立つくらいに当然のこと。
より長い年月を生き、より高い実力を付けた者ほど、空の果てまで飛ぶことが出来る。
『………』
だからティアマトもまた、それを求めた。
多くの人間を喰らい、多くの竜を殺し、ただひたすらに力を求めた。
しかし、その果てにティアマトに待っていたのは『失墜』だった。
誰よりも長く、誰よりも強い筈のティアマトは、ある日飛べなくなった。
貪欲に強さを求め続けた結果、その強大で鈍重な体では飛ぶことは出来なくなってしまった。
竜達は、それを嘲笑した。
欲をかき過ぎた愚か者だと。
空も飛べない出来損ないだと。
『…ッ』
ティアマトは、自身を嗤った全ての者を虐殺した。
自身を見下す者達を一つの例外も無く皆殺しにした。
だが、どれだけ殺しても、心は晴れない。
その強さに恐怖した竜達が媚びへつらう光景も見ても、心は晴れない。
醜い、醜いのだ。
誰よりもティアマト自身が理解している。
この鈍重な体はこの世の何よりも醜い。
やがて、ティアマトは身を隠して生きるようになる。
誰かに見られることにすら、耐えられなくなったのだ。
そして十年、百年、と時間が過ぎていった。
『お前が、ティアマトか?』
何の変化も無い日々を送る中、ティアマトはある竜に出会った。
それは黄金の竜。
陽光を反射する美しき鱗を持つドラゴン。
その姿を見ただけで、ティアマトは不快な気分となった。
『何者だ?………いや、何者であろうと構わんか』
どちらにせよ、自分を見た者は殺す。
身を隠しようになってからずっとそうしてきた。
今まで通りに、ただ殺すだけだ。
『―――』
そうして、二体の竜は殺し合った。
ティアマトは己の力全てを使って、目の前のドラゴンに襲い掛かった。
黄金の竜は、ただ全てを見下すような傲慢な目でティアマトを見ていた。
その戦いは、三日三晩続いた。
『………馬鹿な』
長い戦いの果て、ティアマトは敗北した。
信じられなかった。
この世に生まれてから一度も、ティアマトは負けたことが無かった。
全ての生命は己より弱いのだと、信じて疑わなかった。
『ふむ。俺とは比べるまでも無いが、今まで見た竜の中ではマシな方か』
その圧倒的な力に相応しい傲岸不遜な物言いをしながら、黄金の竜はティアマトを見る。
『お前、竜紋を受ける気は無いか?』
『…何?』
『俺の竜血の一部をお前に授ける。そうすれば、お前は新たな力を得られる筈だ』
ティアマトは訳が分からなかった。
このまま殺されると思っていたが、黄金の竜はティアマトの傷を癒して手を差し伸べたのだ。
『言うなれば、俺の部下や子になるような物だ。どうする? お前にもメリットはあると思うが?』
『何故…』
思わず、ティアマトは疑問を口にしていた。
目の前の竜が言いたいことは分かる。
力を与える代わりに、自身の命令を聞けと言うのだ。
力など欲しくは無いが、ティアマトはこの竜の言葉に興味を持った。
『何故、私を…?』
そう、何故それを自分に言うのか。
こんなにも醜く、忌み嫌われる自分に対して。
それがティアマトには疑問だった。
『…おかしなことを言う奴だ』
心底不思議そうに黄金の竜は言う。
『今まで百年ほど竜紋を授ける竜を探して来た。多くの竜を見てきたが、お前が最も強い』
『…私が』
『そうだ。誇るが良い、お前は選ばれた』
黄金の竜は口元を歪めて告げる。
『俺が出会った百の竜、千の竜の中でお前が最も強く、美しいのだ』
『―――』
それは、衝撃だった。
恐らく世界の誰よりも強い竜が、自分を認めてくれた。
今まで誰もが醜いと否定した自身の価値を認めた。
暗い、暗い、海の底に届く光。
醜い自分を照らしてくれる希望。
『貴方の、お名前は…?』
感動に震えながらティアマトは尋ねた。
『ファフニール。黄金竜ファフニールだ』
『潰れろ! 人間共ォ!』
鈍色の雨が降り注ぐ中、ティアマトは前足を振るう。
天に伸びる塔のようなそれは、大地を削りながら地上のレギン達を襲った。
「くそッ! 黄金よ、身を護る壁となれ!」
咄嗟にレギンが黄金の壁を作り出すが、スケールが違う。
振るわれた前足は容易く壁を砕き、大地に大穴を空けた。
「黄金よ、無数の刃となれ!」
辛うじてそれを躱したレギンが反撃とばかりに黄金の剣を放つ。
矢のように飛ぶ無数の剣はティアマトの身を貫くが、ダメージは無い。
まるで沼に入れた腕のように、ズルズルと水銀の中に沈んでいく。
「…駄目だ! あの体、ただデカいだけじゃなくて水銀の性質も持ってやがる…!」
ティアマトの体は巨大な水銀の塊。
削っても切り裂いても、水銀はすぐに元の形に戻ってしまう。
「ジークフリート! 炎で焼き払うことは出来ないの…!」
「流石にあの質量はキツイ、かな」
エーファの言葉にジークフリートは苦い顔を浮かべる。
足を一本二本斬り落とすならまだしも、あの巨体全てを焼き払うのは不可能だ。
「く…う…ッ!」
「…あまり時間は掛けていられないぞ」
苦し気なリンデを見て、レギンは呟く。
辛そうに顔を歪めるリンデを襲っているのは、重圧。
レギン達も浴びてしまった呪いの雨だ。
それは時と共に強くなっていき、今では背に巨石を乗せているような感覚だ。
元々非力なリンデは特に辛いだろう。
「…ジークフリート、時間稼げるか?」
「何か作戦が?」
「作戦と呼べるかどうかも分からねえ賭けだがな」
そう言ってレギンは自身の肉体を黄金に変える。
体から生えるように次々と黄金の武具が形成された。
「狙うのは心臓だ。アイツを倒すにはそれしかない」
「でも、どうやって…?」
「それは―――」
『………』
ティアマトは無駄な抵抗を続けるレギン達を見下ろす。
この期に及んで竜体にすらならない。
やはり、あのファフニールは、ティアマトの知る彼では無いらしい。
ティアマトの光である彼は、強かった。
大地すら歪めるティアマトの力が足下にも及ばなかった。
そのファフニールが、こんなにも弱い筈がない。
「黄金よ、武具の雨となれ!」
ジークフリート達の援護を受けたレギンが、全身から数多の武具を放つ。
剣や槍、斧や鎚、ありとあらゆる武具がティアマトに浴びせられる。
『…こんな物か』
ティアマトはそれを防ぎすらしなかった。
水銀の肉体に触れた黄金の武具は、一つ残らずその身に取り込まれていった。
何やら作戦を考えていたようだが、この浅知恵がそうか。
失望と絶望がティアマトを支配する。
ファフニールは死んだ。
その亡骸は、今ここで醜態を晒し続けている。
見るに堪えない。
『…もういい。お前は消えろ』
大地から伸びる無数の触手がレギンを捉えた。
先程とは比べ物にならない数の触手を前に、レギンは全身を貫かれ、宙吊りになる。
「レギン…!」
『さらば、我が未練』
ティアマトの口からブレスが放たれた。
磔となったレギンは白銀の光に呑まれ、跡形も無く消滅する。
あれほど執着した存在だったと言うのに、終わりはあまりにも呆気ない。
残った苛立ちは、目の前の人間達を虐殺することで晴らすとしよう。
「『魔竜剣・肆式』」
声と共にジークフリートが魔剣を振り下ろす。
炎を纏った一撃は、ティアマトの足を砕き、一部を蒸発させた。
「まだだ! まだ、手を止めるな!」
ジークフリートが声を張り上げる。
本人はまだ勝機があると思っているのか。
それとも絶望しそうな自分自身を奮い立たせているだけなのか。
『どちらにせよ、無駄なことだ』
ティアマトはもう一度口を開く。
地上へとブレスを放つつもりだ。
重圧で満足に動けないジークフリート達では、躱すことが出来ない。
「ッ! 『魔竜剣…」
『遅い』
それに気付いたジークフリートが何かしようとしたが、ティアマトの方が速かった。
溜めが短い分、多少威力は落ちるが人を消し飛ばすには十分だ。
絶望の光が放たれる。
その筈だった。
『ドラゴンの急所は心臓だ。他の部位は、魔力が続く限り再生できる』
どこからか、死んだ筈のレギンの声が聞こえた。
思わずティアマトは攻撃を止め、周囲に目を向ける。
『極端な話、心臓だけ摘出してもドラゴンは生きていけるんだ』
『どこだ…! どこに居る!』
『でも、その場合、心臓を摘出した残りの部分はどうなるんだろうな?』
錯乱したようにレギンの姿を探すティアマトに、レギンは淡々と言葉を続ける。
『例えば、取り除いた心臓と、心臓だけ失った肉体がそこに在ったとして、傍から見てどっちが本体か何て分からねえよな?』
『!』
ティアマトはようやくレギンの居場所に気付いた。
体内だ。
レギンの声は、ティアマトの体の中から聞こえている。
『ま、さか…』
『お前が殺したのは、俺の抜け殻だ。心臓は武具の中に混ぜて、お前に放った」
武具の一つに埋め込まれた心臓は、ティアマトの水銀の肉体に取り込まれた。
しかし他の武具と違って意思を持つそれは、そのままティアマトの内部を進み、深部へと到達する。
『俺の勝ちだ、ティアマト』
黄金の槍が、ティアマトの心臓を穿った。