第八十五話
山に足が付いたかのような錯覚すら覚える巨大な体。
身動ぎ一つで大地を揺らしながら、ティアマトは未だ空に浮かぶレギン達へ目を向けた。
『………』
レギンだけを見ていた眼が、他の者達へも向けられる。
特に意識を向けているのは、レギンと共に大地を割り、ティアマトを引き摺り出したジークフリートだ。
その名前をティアマトは知っていた。
忘れもしない十三年前、ファフニールと戦った人間。
ファフニールを倒した、などと言う戯言は欠片も信じていなかったが、それでもその存在はティアマトの記憶に残っていた。
不愉快な人間だ。
何よりも不快なのは、そんな人間とファフニールが共に戦っている事実。
『ファフニール。我ら六天竜の王。千年を生きる私よりも古い、始まりの竜よ…』
ティアマトの眼にレギンだけが映る。
『この姿を晒しても尚、貴方は何も思い出さないのか? 人と共に戦うなどと言う愚行を続けるのか?』
「………」
ティアマトの静かな問いかけに、レギンは真剣な表情を浮かべる。
「…お前が以前の俺をどれだけ理解しているのかは知らん。だが、俺は俺だ」
レギンは己の心を素直に告げた。
「今の俺は、ここに居ることを愚行だとは思わん」
この先、記憶を取り戻した後にレギンは自分自身の行為を否定するかもしれない。
それでも今のレギンは、コレが正しいことだと心から思っている。
過去を持たないレギンに出来ることは、ただ己の心に従うことだけだ。
『………そうか』
短く呟き、ティアマトは瞼を閉じた。
『戯言、だと思っていたのだがな』
カタカタと大地が静かに揺れる。
山脈の如きティアマトの体が震え、大地を揺らす。
『人間よ、称賛を送ろう。お前は確かにファフニールを殺した。十三年前のあの時に! 私の知るファフニールは、既に死んだ!』
怒りが、憎しみが、ティアマトを包み込む。
ファフニールが記憶を失ったのは、誰のせいだ。
ファフニールがティアマトを忘れたのは、誰のせいだ。
『我が光は、失われた! ならば、その抜け殻に用など無い! 憎きドラゴンスレイヤー諸共に滅ぼしてくれよう!』
復讐に燃えるティアマトの眼に、レギン達が映る。
その怒りは、ドラゴンスレイヤーを全て殺し尽くすまで決して消えない。
今のティアマトにとってはレギンさえも憎悪の対象でしかない。
『消え失せろォ!』
ティアマトの口が大きく開き、鮫のような歯が剥き出しになる。
谷底のように深い暗闇に白銀の光が収束していく。
「ッ! ブレスを放つ気か!」
「急いで! とにかく出来るだけ距離を…!」
時と共に大きくなっていく光。
それはまるで、地上にも太陽が現れたような異様な光景。
魔力を知覚出来ないエーファ達でさえ、背筋が凍り付くような威圧感を覚えた。
翼を動かし、その光から逃れようとするレギン達。
しかし、攻撃の規模が強大過ぎる。
どれだけ離れようと逃れられる気がしない。
「なら…!」
「ジークフリート!」
突然ジークフリートはレギン達から離れ、地上へと降り立つ。
その行動に驚くレギン達を余所に、ティアマトを見据えて魔剣を構えた。
「『魔竜剣』」
地面を砕く程に強く踏み込み、魔剣を振り被るジークフリート。
「『伍式』」
長い溜めの後、水平に振るわれる大振りの一閃。
炎に包まれた刀身は斬撃をどこまでも伸ばし、ティアマトの下まで辿り着く。
巨人の振るう剣のような一撃は、塔の如きティアマトの足を斬り飛ばした。
『ブレス』
ぐらり、と崩れた体勢からティアマトはブレスを放つ。
足を失って体が傾いたことで、僅かに白銀の光の狙いが逸れる。
「ッ…!」
間一髪、それを躱したレギン達の背後で白銀の光が大地を焼く。
トラオア城跡に残った僅かな廃墟、大地を消し飛ばし、余波だけで地形を変貌させた。
(…嘘だろ)
勝てるとか勝てないとか言う次元の話では無い。
その一撃は山を消し、海を干上がらせる神の一撃だ。
(どいつもこいつも六天竜は化物ばかりか! 俺、本当に記憶失う前はこんな奴らの王だったのかよ!)
あまりに理不尽な力の差に、思わずレギンは嘆きたくなった。
これだけの質量、高い再生力を持ちながら、攻撃も桁外れだ。
「れ、レギン…」
「とにかくじっとするな! 掠りでもすれば、おしまいだぞ!」
恐怖に震えるリンデに対し、レギンは叫ぶ。
幸いにもレギン達には機動力がある。
リンデに与えられた翼は空中を自在に動き回ることが出来る。
(アイツは、恐らく飛べない)
レギンは絶望的な状況で何とか冷静に分析する。
ティアマトの背には水銀の翼が生えているが、その巨体を支えるには小さすぎる。
あの体では地上での動きも鈍いだろう。
レギン達が空に居る限り、攻撃を躱すことだけは不可能ではない。
『………』
そんなレギンの思考を読んだのか、ティアマトは鉛色の眼球をレギン達へ向けた。
『竜紋。起動』
「な…!」
血管のようにティアマトの全身に伸びる青い紋様。
六天竜の証である竜紋が不気味に輝いた。
『―――私は海の底に沈む水銀』
今までとは質が異なる魔力がティアマトから噴き出す。
『この身は重く、あの空は高く、私は空に焦がれるのみ』
その暗く重い魔力は周囲を包み込み、場を支配する。
『我が嘆きよ、天へと届け! 鈍色の雨よ、天空を覆え!』
天が、陰る。
暗い雲に隠され、太陽が消える。
『クラーゲン・レーゲン』
それは、空と翼ある者全てを呪う言葉。
自身が求めても得られない者を妬む呪詛。
暗く厚い雲から現れるのは、鈍色の雨。
地表を侵食する水銀の雨。
「何、だ…!」
「体が、重い…!」
その雨を浴びてしまったレギン達が苦悶の声を上げる。
ティアマトの竜紋『クラーゲン・レーゲン』の能力は、重圧。
空より降り注ぐ雨を浴びた者に重圧を与え続ける呪い。
『ははははははははは! 羽虫共が! 地に墜ち、首を垂れるが良いわ!』
込められた欲望は『何者も、自分の上を飛ぶことを許さない』
空を自由に飛べる者に見下される屈辱。その者達への強い嫉妬から生まれた能力だ。
ティアマトの前で、飛ぶことは認めない。
例え誰であろうと、自身を見下す者は許されない。
「ぐ…くそっ…!」
耐え兼ねて地上へ墜ちたレギンは顔を歪める。
空へ逃げることを封じられただけじゃない。
段々と強くなっていく重圧は、レギンの身を圧し潰さんばかりだ。
このままでは地上を走ることさえ困難になる。
『あとは踏み潰すだけだな。さて、誰から潰してやろうか!』
ティアマトは壮絶な笑みを浮かべ、そう告げた。




