第七十五話
「霧が…掻き消された…?」
ネーベルは王都を包んでいた自身の魔力が失われたことを感じ取った。
王都を包む霧は既に消え、囚われていた人々も全て解放されている。
「一体どうやって! ファフニールは『迷夢の森』に取り込んでいた筈…!」
用意周到に王都を襲撃したネーベルだったが、彼女は一つ勘違いをしていた。
シュトルツを包んでいた霧を突破された際、霧を掻き消したのはレギンだと思い込んでいたのだ。
だからレギンの弱点と成り得るリンデを捕らえた後、すぐに隙を突いて彼を霧に取り込んだ。
レギンさえ封じていれば、誰も邪魔することは出来ないと思っていたが故に。
「…リンデが上手くやったようだな」
幻覚から解放されたレギンは、晴れた空を見つつ呟いた。
「リンデ? まさか、あんな小娘如きが私の霧を…?」
「ハッ、そうやって人間を見下すから足下を掬われんだよ」
賢しいふりをしていたが、ネーベルの性根は馬鹿にしていたフェルスと然程変わらない。
傲慢でプライドが高く、他者を見下すことを好む悪辣なドラゴンだ。
「ぐっ…!」
ネーベルは悔し気に顔を歪め、自身の体を霧に変える。
王都全体に広げていた霧を失ったことで、ネーベルの魔力は殆ど残っていない。
竜化する魔力も無い以上、戦うことは不可能だ。
ここは一度退いて作戦を立て直す。
「おい。今更、逃げられると思っているのか?」
レギンは指先をネーベルへ向けた。
「無駄です。私の霧は、全てを透過…」
そう言ったネーベルの周囲に、ポツポツと小さな光が出現する。
虫の光のようなそれは、段々と大きくなっていく。
「『弾けろ』」
グッ、と何かを潰すようにレギンは拳を握った。
瞬間、光は炎となってネーベルの全身を包み込んだ。
「ぎ、ああああああああ!」
炎の熱に焼かれたネーベルが絶叫する。
霧となったネーベルに物理的な攻撃は一切通用しないが、霧の性質上熱には弱い。
炎で蒸発した霧は、ネーベルの血肉そのもの。
魔力を大きく失ったネーベルにはそれを再生する余裕すらない。
「な、何で…! あなたの属性は、黄金の、筈…!」
「今のは肉体の変換じゃねえよ。ただのブレスだ」
「ブレ、ス…?」
「口内に溜める魔力を圧縮して飛ばせばどうなるか、と思ってな」
それほど難しいことではない。
普段口内や腕に収束する魔力をそのまま圧縮し、それを放つ。
敵の傍に浮遊させた上で解放すれば、圧縮していたブレスを至近距離からぶつけることが可能と言う訳だ。
多少手間と時間は掛かるが、直線状で軌道が読まれ易いブレスの欠点を克服できる。
「魔力の遠隔操作ってのは、ハーゼの滅竜術を見て思い付いたんだがな」
直接触れずに相手を凍らせるハーゼと戦ったことで、レギンはその発想に至った。
エーファとの戦いでは本能的に戦う危険性を、フライハイトとの戦いでは武器の扱いを、
ドラゴンスレイヤーとの戦いは全てレギンの糧となっている。
「ッ…!」
ネーベルは苦い表情を浮かべて、レギンを睨んだ。
このドラゴンは何を言っている?
ドラゴンは絶対の強者だ。
天敵など存在しない自然の覇者だ。
ただ力を振るうだけで敵を殺せる存在だ。
そのドラゴンが人に学ぶだと?
そんなのはまるで、人間のようでは無いか。
「認めない! 六天竜が! 世界の頂点に立つドラゴンが! 人間如きの真似事なんて!」
それはネーベルのドラゴンとしてのプライドだった。
ドラゴンに負けるのは良い。
だが、自身より強いドラゴンが人間の真似事をすることは堪えられない。
「私が読み取った記憶の中のあなたは! 人間なんて歯牙にもかけない強大なドラゴンだった!」
「………」
ネーベルはレギンが見た物と同じ物を見ていた。
レギンの記憶の中にあった黄金の竜。
王都の人々を虐殺した邪竜は、ネーベルの言う通りの存在だった。
恐ろしくも本能で従うことを選んでしまうような怪物だった。
今のレギンとは違う。
「私が、取り戻してあげる…!」
「な…」
一瞬、レギンが動揺した隙をついてネーベルは手を伸ばした。
既に魔力は尽きかけているが、まだ足掻くだけの力は残っている。
直接レギンの核に触れ、記憶を全て引き摺り出す。
そうすればレギンはかつてのファフニールに戻り、形勢逆転だ。
「もらった…!」
霧化したネーベルの手が、レギンの胸に触れる。
皮も肉も透過して、心臓に直接干渉する。
その時だった。
「『バルムンク』」
キィン、と金属が震えるような音が聞こえた。
ネーベルの動きが止まる。
「あ…え…?」
意味も無い声を上げながら、ネーベルは自身の体を見下ろす。
途端、ずるりとネーベルの上半身が地に落ちた。
斬られている。
霧化して実体のないネーベルの体が、胴体から両断されていた。
「…あ」
胴体と共に心臓も斬られていたのか、その体が崩れ落ちる。
そして最期の瞬間まで疑問を浮かべたまま、ネーベルは絶命したのだった。
「危ない所だった、かな?」
ジークフリートはレギンの顔を見ながらそう言った。
その手には、ネーベルに止めを刺した『魔剣』を握っている。
それは竜の骨を用いて作られているのか、剣と呼ぶには野性的過ぎる形状をしていた。
刀身は削られた骨がそのまま、柄の部分は黒く塗られて僅かに装飾が施されている。
しかし、その剣が纏う魔力は尋常では無かった。
本来魔剣とはあくまで魔力を通し易い物体であって、それ自体が強い魔力を放っているわけでは無いと言うのに、剣から感じられる魔力は人間を遥かに凌駕する力を秘めていた。
正に、伝説で語られる魔剣そのもの。
王都最強のドラゴンスレイヤーが振るうに相応しい武器だ。
「救援が遅れてすまないね。霧のせいでこっちに来るのにも苦労してさ」
「問題ねえよ。俺だけでも倒せていたさ」
「そうかい。それでこそ、だ」
ジークフリートは納得したように頷いた。
強がりだとは思わない。
ジークフリートの手助けが無くとも、レギンはネーベルを返り討ちにしていただろう。
最後の悪足掻きも、問題なく防いでいた筈だ。
そんな確信があった。
「…なあ」
「何だい?」
「前にも聞いたとは思うが…」
レギンはジークフリートの眼を見つめながら尋ねた。
記憶を見たことで再び己の内に湧いた疑問を。
「俺は本当に、ファフニールじゃないのか?」
以前他でもないジークフリートに否定された言葉。
レギンもそうでないと思っていたが、段々とその自信も薄れてきた。
全てのドラゴンがレギンをファフニールだと確信を以て告げ、僅かに蘇った記憶もその疑念を増す物ばかりだった。
だからこそ改めて問う。
十三年前にファフニールを討伐したドラゴンスレイヤーであるジークフリートに。
「ああ、勿論だ。君はファフニールでは無い」
「だったら、俺は何なんだ?」
ファフニールに近しい記憶ばかり持つ自分は一体誰なのか。
ファフニールと同一の姿形を持ちながら、ファフニールでは無い自分は。
「…失った物を取り戻したい。そんな願望は生物として当然の物だ。その気持ちは、分かるよ」
ジークフリートは真剣な表情で頷く。
「だけど、世の中には思い出さない方が良い記憶。知らない方が幸せなことなんて沢山ある」
「………」
「君はどうして、今の自分では満足できないんだい?」
ジークフリートは今までのレギンの行動を否定するように、そう告げた。