第七十四話
それは小さな教会だった。
歳老いたシスターと、数人の子供達が静かに暮らす場所。
町外れの寂れた教会は裕福な生活ではなかったが、子供達はいつも笑って暮らしていた。
エーファにはエレナと言う姉がいた。
厳しい時もあるが、普段はいつも優しく、よくエーファの面倒を見てくれた。
エーファにとっての憧れだった。
『………』
姉に手を引かれながらエーファは思う。
コレは夢だ。
今までに何度も見てきた夢。
エーファの人生で最も幸福だった日々の記憶。
しかしこの夢は、いつも悪夢で終わる。
『………』
その日は教会の皆でかくれんぼをしていた。
エーファは小柄な体格を利用してクローゼットの中に隠れていたのだが、前日に夜更かしをした為か、エーファはそこで眠ってしまっていた。
すっかり日が落ち、夕食の時間も過ぎた頃に目を覚ましたエーファは慌ててクローゼットの外を見た。
そこには、地獄が広がっていた。
いつも皆で食事をするテーブル、勉強する為の本が並べられた本棚。
普段見慣れたあらゆる物が破壊され、変わり果てた皆が転がっていた。
家族同然だった友達、優しかったシスター。
誰もが四肢を食い千切られ、人の形をしていなかった。
『キキキ…』
金属が擦れるような不快な音が聞こえた。
その正体が笑い声だと気付いたのは、月明かりに照らされた『それ』を見たから。
『キヒヒヒヒ…! 不味い、不味いなァ! 魔力の薄い肉は、いくら喰っても腹が満たされねえなァ!』
暗い闇の中に、六つの光があった。
三対の鈍い光。
ぐちゃぐちゃと水気を帯びた音を立てて肉を咀嚼する『それ』は三つの首を持つ怪物だった。
『だが、悲鳴は中々の物だったぜ。人間なんてどいつもこいつもクソ不味いんだから、せめてスパイスを効かせねえとなァ! キヒヒヒヒ!』
ドラゴンとて生物なのだから、生きる為の他の生き物を喰らう。
そのことを今のエーファは理解している。
納得はせずとも、生物として何の悪意も無い生命活動であると理解はしていた。
しかし、コレは違った。
そのドラゴンには悪意しか無かった。
何の魔力も無い老女と子供達だ。
貧しい生活で痩せこけた者達を、そのドラゴンは惨殺した。
何の意味も無く、ただ己の欲望を満たす為だけに。
『ああ?………生き残りがまだ居たか?』
その時、クローゼットの中で震えていたエーファは怪物と目が合ってしまった。
『だ、誰…?』
『…キキキ』
怪物は、再びギチギチと不快な音を立てて嗤った。
『俺はザッハーク…』
ぐちゃぐちゃと咀嚼していた肉を放り捨て、三つの首がエーファを見つめた。
『さあ、お前はどんな声を聞かせてくれるんだ?』
「む…ぐ…ぬぬぬ…!」
霧に包まれた王都。
その中にある小さなボロ小屋の中に、リンデは居た。
手足を縛られ、芋虫のような状態で床に転がされている。
傍らにネーベルの姿は無かった。
「あの人、何がしたいのですか…! 私を縛ったら、どこかに行っちゃったし…!」
リンデを拉致したネーベルだったが、危害を加えることは無かった。
レギンの報復を恐れている為か、非常時の人質に使う為か、リンデを縛った後に床に転がして去っていったのだ。
「ぬぬぬ…!」
リンデは両腕に力を込めるが、縄はびくともしない。
一応、魔力による強化は施しているのだが、思うように力が出ない。
体の痺れが解けず、本調子で無いからだろう。
「こんなことしている場合じゃ、ないのに…」
小屋の窓から王都の様子は見えていた。
王都は霧に覆い尽くされている。
シュトルツで見た霧だ。
(あの時と同じ霧なら、私の魔力流出で吹き飛ばすことも出来る筈…!)
この霧は何か嫌な感じがする。
リンデは何故か他の者と違って記憶に呑み込まれることは無かったが、それでも霧が人に害を与える物であることは何となく感じ取っていた。
とにかく、早く自由になって魔力流出を…
「何か気配を感じると思えば…」
その時、ボロ小屋の中から声が聞こえた。
「一人で縛りプレイ? 人間の考えることは分かりませんわー」
呆れたように肩を竦める黒フードを被った男。
纏ったポンチョから覗く皮膚や、身に宿す魔力がその男が人間で無いことを告げている。
「あなたは…?」
「俺? 俺は…」
自身を見ても悲鳴を上げず、名前を尋ねられたことに首を傾げながら黒フードの男は名乗った。
「ミーメ。見て分からないかもしれないが、ドラゴンだ」
黒フードの男、ミーメはそう言ってフードを取る。
その下にあったのは、人の顔では無かった。
肉体は人間に近いが、頭部が竜の形をしている。
半人半竜。
翼が無い為かドラゴンと言うよりは、トカゲか蛇が人間になったような印象を受ける男だった。
「見ての通り、人化もまともに出来ない半端者ですよー。お陰で街に入る時なんかはいつもコレを被っているんです」
自虐的に笑いながら再び目深にフードを被るミーメ。
「ドラゴン…? もしかして、王都を襲っているドラゴンの仲間…?」
「まあ、仲間と言えば仲間ですかね。同じ主に仕える先輩後輩、みたいな?」
ネーベル達の態度を思い出しているのか、曖昧な顔で肯定するミーメ。
「ですが、仲間が味方かと言えば、また別の問題なんですよねー」
「?」
「あら、分かりません? お子様にはまだ早かったですかね?」
のらりくらりとした言い回しをしながらミーメは笑みを浮かべる。
「率直に言って、俺はファフニールに記憶を取り戻してもらいたくないんですよ」
「え…?」
「えって、何です? まさかとは思いますが、オタクってファフニールの記憶を戻そうとしてくれちゃったりしてます?」
キョトンとした表情のリンデを見て、ミーメは顔を引き攣らせた。
ファフニールに心酔しているティアマトはともかく、人間であるリンデまでファフニールの記憶を戻そうとしているとは夢にも思わなかった。
「馬鹿ですか? 馬鹿なんですか? どうして人間ってやつは、そんなに自滅が好きなんですか?」
「え、えっと、何でレギンの記憶が戻ったらいけないの、ですか…?」
「レギン?…ああ、今のファフニールのことですか」
ふと首を傾げたミーメだが、すぐに納得して頷く。
「あのですね。あなたの知る『レギン』と、記憶を取り戻した『ファフニール』は別の存在です。もし奴が記憶を取り戻せば、真っ先に死ぬのはあなた方ですよ?」
警告するようにミーメは告げる。
その言葉には、絶対の確信があった。
「ファフニールが復活すればヤバいんですよ! 主に世界と俺が! ティアマト様は元のファフニールに戻そうと躍起になっていますが、本気でファフニールの復活を望んでいるのは六天竜でもティアマト様くらいなものですよ」
ファフニールを恐れるのは人間だけでは無い。
ミーメのような弱いドラゴンにとって、ファフニールは悪夢そのものだ。
復活すれば、滅ぼされるのは人間だけでは済まないだろう。
「そんなこと…」
「無い、と言い切れますか? あなたは元のファフニールを知らないのに?」
呆れたようにミーメは息を吐いた。
そして視線を小屋の外に向ける。
「…とにかく、この霧を早く消さないと今日で人類終了ですよ?」
「霧を…?」
「俺は知っての通り弱小ドラゴンなのでどうにも出来ませんが、オタクには何か手があるのでは?」
言いながらミーメはリンデを縛っていた縄を解く。
指先の鋭い爪を使って縄を全て切り裂くと、ミーメは近くの椅子に座った。
「あなたは、誰の味方なんですか?」
「俺は俺の平穏の味方ですよ」
「………」
釈然としない物を感じながらも、リンデは祈る様に手を組んで瞼を閉じた。
「『魔力流出』」
リンデの背から群青の翼が生える。
青い風は、どこまでも吹き荒れ、王都の霧を掻き消していく。
リンデの魔力は王都中に行き渡り、数分後には霧はどこにも残っていなかった。
「今、のは…」
椅子に座ってそれを興味深そうに眺めていたミーメは顔色を変える。
思案するような顔をしながら、恐る恐る口を開く。
「オタク、もしかして『ラインの乙女』ですかい?」
「ライン…? 何ですか、それは?」
聞き覚えの無い単語にリンデは首を傾げた。
「………」
しばらく無言で考え込んだ後、ミーメは小さく息を吐く。
「…詳しく説明したい所ですが、そろそろ行きますわ」
霧の晴れた空を見上げてミーメは言う。
もう間もなく、ネーベルは討伐されるだろう。
そうすれば次に狙われるのはミーメだ。
ドラゴンスレイヤーが何人もいる王都から抜け出すチャンスは今しかない。
「一つだけ忠告しておきますよ。あなたがラインの乙女であることは、他のドラゴンに言わない方が良いでしょう」
ボロ小屋の戸に手を掛けながらミーメは言う。
「ファフニールには特にね」
最後にそう言い残し、ミーメは去っていった。