第七十一話
それは酷い雨の夜のことだった。
男は、ずぶ濡れになりながらとある村の民家を訪ねた。
『この子を、頼む』
出てきた老人に対し、男は顔を隠したまま告げた。
その腕の中には、毛布に包まれた少女が眠っている。
『何じゃ、唐突に』
『…不躾な願いだとは、分かっている』
そう言って男は懐から金貨の入った袋を取り出した。
『この子の為に使ってくれ。残りは、好きにしてくれて構わない』
『金の問題じゃない。その子は、アンタの家族じゃないのか?』
老人は無責任な男に腹を立てたように言った。
『アンタの事情は知らん。だが、どんな事情があろうと、家族は共に在るべきだ』
男を窘めるように老人は告げる。
何故なら、先程から男は腕の中で眠る少女を雨から庇っているからだ。
男は決して少女が不要となったから手放すのではない。
恐らくは、やむを得ない深い事情があるのだろう。
しかし、それを理解した上でも家族は共に在るべきだと老人は考えた。
どんな事情があろうと、子は親に捨てられた事実に少なからず傷付く筈だ、と。
『…私には、この子に触れる資格すらない』
『何?』
『………』
暗い夜闇の中に見える男の眼に、深い悲しみが宿る。
悲痛、苦悩、そして罪悪感。
男は本気で自分が少女を不幸にすると思っているようだった。
そんな確信と、それだけは何としても避けなければならない、と言う強い決意が男にはあった。
『…分かった。その子を預かろう』
『感謝する…』
重々しく呟き、男は老人に少女を手渡した。
老人は抱いた少女の軽さに少し驚き、男へ目を向ける。
『…名前は?』
『名前…』
『お前の名前じゃない。この子の名前くらいは教えてくれても良いじゃろう』
『………』
老人の言葉に男は少し考え込むように黙り込んだ。
『ヴォークリンデ………いや』
男は静かに眠る少女の顔を見つめ、告げた。
『リンデ。この子の名前は、リンデだ』
「え? まだ痺れが治っていないのですか?」
「はい…」
ハーゼがリンデ達を診察した翌日、リンデは再び研究所を訪れていた。
宿に戻った後、自主的にマッサージなどもしてみたリンデだったが、変化はなかった。
未だリンデの手足には原因不明の痺れが残り、体を動かす度に違和感を覚える。
「………」
(あの男はこうなることを見越していたのかしら? それとも偶然?)
昨日、グンテルに言われた言葉を思い出し、ハーゼは難しい顔を浮かべた。
それを見て、リンデは不安そうな顔をした。
「あの、やっぱり私が何か…?」
「いや、あなたのことじゃなくて…」
笑みを浮かべて誤魔化しながら、ハーゼは考え込む。
グンテルの言う通りにした方が良いだろうか。
何を考えているか分からない男の下に、何も知らない娘を送ることを躊躇しているのではない。
リンデがグンテルに害された時のレギンの反応が恐ろしいのだ。
一度酷い目に遭わされているハーゼからすれば、レギンもグンテル同様に怒らせたくない相手である。
考えているのは、リンデの安否では無く、単なる保身だった。
「…ところで、あのドラゴンさんはどうしたのですか?」
「レギンのことですか? 今日は私だけの用事だったから宿に置いてきましたけど」
「………」
それなら万が一、リンデがグンテルに何かされてもハーゼまでは累が及ばないだろうか。
「…少し時間を貰えますか? 会わせたい人がいるんです」
「ええ、構いませんが…?」
「では、こちらに」
そう言ってハーゼが研究所の奥へ案内した。
あまり顔を出さないとは言え、仮にもグンテルはこの研究所の所長だ。
その身分に相応しい部屋を与えられている。
きっと彼が居るのはそこだろう。
「…ハーゼです。リンデをお連れしました」
所長室に着き、ハーゼはドアをノックする。
ドアを開けながら自分は入らず、リンデを中へ促した。
「さあ、中へどうぞ」
「お、お邪魔します…」
リンデが入ったその部屋は、随分と殺風景な空間だった。
薬品の入った棚や書類が置かれた机が一つ置いてあるが、それだけだ。
掃除は頻繁にされているのか清潔だが、とにかく物が少ない。
「…来たか」
「あなたは…!」
机に座り、何かの書類を書いていたグンテルはリンデに目を向けた。
リンデもその声で部屋の主に気付く。
あまり良い印象は抱いていない相手だ。
グンテルは以前、レギンに疑いをかけて討伐しようとしたことがある。
「ふう。お前が私に怒りを抱いているのも無理からぬことだが、そう顔に出すのは感心せんな」
「ッ…」
「前にも言ったがな、娘。この世は欺瞞に満ちている。それは嘆くべきことだが、正直に生き過ぎるのも考えものだぞ」
呆れたようにそう言うと、グンテルは座っていた椅子から立ち上がった。
かつん、と銀の杖を突きながらリンデの下へ歩み寄る。
「聞く所によると、つい先日はファウストと共にドラゴンを討伐したらしいじゃないか。ドラゴンスレイヤー同士、仲良くやれているのか?」
「い、いえ、どちらかと言えばファウストさんはレギンと仲が良いみたいです」
「………」
「あ、エーファさんには良くしてもらってます。フライハイトさんもこの間は通信で…」
「ん。そうか」
表情の読めない顔で、グンテルは小さく頷いた。
どこか満足そうにしているように見える。
「…でも、あの人達に比べて、私は役に立てているのか、不安に思います…」
フェルスとの戦いでも、殆どリンデは何も出来なかった。
それどころか敵の攻撃を受けて足を引っ張ってしまった。
「では、何故ドラゴンスレイヤーになろうと思ったのだ」
どう考えてもリンデは戦いに向いていない。
能力的な意味では無く、性格的な意味で。
そんなことはグンテルに言われるまでも無く、リンデ自身も自覚していた筈だ。
それなのに、彼女がドラゴンスレイヤーに拘っていた理由は…
「父親を、探す為です」
リンデは真剣な表情で告げた。
それこそがリンデが騎士を、ドラゴンスレイヤーを目指した理由。
「名前も顔も分かりません。だから私、立派になって有名になって…」
「………」
「いつか父が、私を見つけてくれたらって…」
からん、と軽い音が聞こえた。
グンテルの手から銀の杖が床に落ちた音だった。
「―――」
呆然とした表情で、グンテルはリンデの顔を見つめている。
杖を落としたことにも気付かず、ただリンデを見ていた。
「…私が」
グンテルはゆっくりと口を開く。
「私が、お前の父親だ」
「え…」
その言葉にリンデの思考が止まる。
「ええええええええええ!?」
目を最大まで見開き、リンデは声を上げた。
「あ、あの、えっと、それってどう言う? た、確かに私、グンテルさんの妹さんに似ているって…!」
「………」
混乱するリンデをグンテルは静かに見た。
そして、その口元に小さな笑みが浮かぶ。
「…と言ったら、信じるか?」
「じょ、冗談だったのですか!?」
「ふっ」
珍しく穏やかな表情を浮かべながら、グンテルは机の引き出しに入っていた小瓶を取る。
中に幾つかの錠剤が入ったそれを、リンデに手渡した。
「コレを、寝る前に一錠ずつ飲め。きっと手足の痺れが取れる筈だ」
「えっと、コレは…?」
「私の作った薬だ。恐らく、お前には良く効くだろう」
「あ、ありがとう、ございます…?」
訝し気な顔を浮かべながらリンデは頭を下げた。
「ではもう戻れ。その薬のことは、人に話すな」