第十九話
「はぁ…はぁ…はぁ…!」
滝のような汗を流しながら、呼吸を荒げるエーファ。
視線の先には地面に倒れたリンデが居た。
その身体には、幸いなことに傷一つ無い。
「本当に、もう、この子は…!」
額の汗を拭い、エーファは気絶したリンデを睨んだ。
一度放たれた弾丸は止まらない。
エーファの魔弾は、レギンを庇って前に出たリンデに当たってしまう筈だった。
だが、ギリギリでエーファは間に合った。
磁力を操ることでスティレットの標的を変更し、狙いを逸らしたのだ。
「何の躊躇いも無く飛び出してきて、当たっても居ないのに気絶するとか、肝が据わっているのかいないのか分からないわね…」
いや、きっとリンデは臆病なのだろう。
飛んでくる魔弾の前に飛び出すなんて、怖くて怖くて仕方が無かった筈だ。
それでも勇気を振り絞って、前に出た。
今にも殺されそうだったレギンを守る為に。
「あなたは、どうしてそこまで…」
「レギンを、殺さないで…」
瞼を閉じたまま、魘されるようにリンデは呟く。
「レギンは一度も、人間を食べなかった。レギンはきっと、私達と、同じ…」
「………」
あまりにも幼い願いだ、とエーファは思った。
ほんの少し会話しただけで、相手を理解したつもりでいる。
人食い竜を心から信じている。
言葉が通じたから、何だと言うのか。
会話が出来たから、何だと言うのか。
ドラゴンは人間の敵だ。
それをリンデは理解していないのだ。
(私は間違っていない)
そう心の中で呟き、エーファはレギンの方を向いた。
『……………』
レギンはただぼんやりと、気絶したリンデを眺めていた。
「意外ね。今の隙に、逃げたと思っていたのに」
『…ああ、そうだな』
短くそう言うと、レギンは肉体を変化させた。
思わず警戒するエーファの前で、人間体へ戻る。
「何の真似? 今更その姿に戻ってどうする気?」
「どうもしないさ」
レギンは手にしていた黄金の槍を地に捨てた。
そして何も握っていない両手を上げる。
「降参だ」
「…何を言っているの?」
「見ての通り、もう抵抗しない。煮るなり焼くなり好きにしろ」
無抵抗、と言うように両手を上げたままレギンはそう言った。
エーファはますます困惑する。
何かの作戦か、とも思ったが、どう考えても人化したことはデメリットしかない。
このままエーファが魔弾を一発放てば、それだけでレギンは死ぬ。
それをレギンが理解していないとは思えない。
「まさかとは思うけど、今更罪の意識が芽生えたのかしら?」
「まさか。覚えのない罪で殺されるなど、理不尽極まりない。顔も知らない人間に対して、罪悪感など湧く訳がないだろう」
レギンはあっさりと本心を告げた。
どれだけ言葉を投げかけられた所で、自分の知らぬ罪で裁かれるなど納得がいく筈が無い。
「記憶が取り戻せなかったことは無念だが、まあ、良いだろう」
「どうして…?」
「記憶も無く、自分でも自身が何者か分からん俺を庇って、命を懸けた者が居る。とんでもない大悪党かも知れん俺を、善人と信じた者が居る」
フッと笑みを浮かべ、レギンは眠ったままのリンデを見る。
「それで十分だ。俺の正体は、コイツが保証してくれた。なら、もう心残りは無い」
「―――ッ」
ギリッ、とエーファの口から音が聞こえた。
どうして、ドラゴンがそんなことを言う。
どうして、そんな優しい眼で人間を見る。
ドラゴンは敵だ。
エーファの目の前で、姉を嬲るように殺した悪魔だ。
「ふざけるな…!」
エーファは激高して、レギンを睨んだ。
「悪竜が人間のふりなんてするな! そんな顔を浮かべるな! お前達はもっと醜い筈だ! お前達はもっと汚い筈だ!」
感情のままにエーファはレギンに掴み掛る。
「本心では私達を嘲笑っているんでしょう! ほら、私を殺して逃げて見なさいよ!」
そうであって欲しい、と言うようにエーファは叫んだ。
そんなエーファを真っ直ぐ見つめてレギンは口を開く。
「…俺はドラゴンだが、命懸けで自分を護った奴を、見捨てて逃げる外道にはなりたくない」
「ッ!」
エーファは掴んでいたレギンの服から手を離した。
がっくりと肩を落として膝をつく。
「本当に、ドラゴンに心があるのなら、どうして…」
ポタ、と地面に涙が落ちる。
「どうして、お姉ちゃんに、あんな酷いことを…!」
ボロボロと涙を零しながら、エーファはレギンを見つめた。
その眼には憎しみは無く、ただ深い悲しみだけが浮かんでいた。
「………」
レギンは何も答えなかった。
答える言葉が見つからなかった。
その悲しみを、レギンは理解できない。
しかし、エーファがこうなったきっかけがレギンと同じドラゴンの仕業であることだけは分かった。
ドラゴンによって運命を狂わされ、全てのドラゴンに対して憎しみを抱いていることを。
「コレは、何だ?」
レギンは首元に付けられた『ロザリオ』に触れながら呟く。
シンプルな銀の十字架は、月明かりを反射して光を放っていた。
「そのロザリオには魔力を抑える力があるわ。それを付けている限り、あなたは竜化出来ない」
泣いて少し赤く染まった目でエーファは言った。
「一度も人間を食べなかったと言ったリンデの言葉を信じるわ。あなたがそれを付けて、人を襲わずに生きている内は、見逃します」
エーファによって特殊な方法で付けられたこのロザリオは決して解くことが出来ない。
無理に解こうとすれば、壊れてしまうだろう。
「ロザリオを付けている間は魔力同様に竜の気配も薄れる。人間のふりをするには役に立つ筈よ」
「なるほど。人間のように生きるには便利で、竜のように生きるには不便。ドラゴンとしての姿を完全に封じられた訳だ」
チャリ、とロザリオに触れてレギンは言った。
力を封じられたことに思う所が無い訳でも無いが、命を見逃して貰えるのだから受け入れるべきだろう。
レギン自身も意味も無く人間と争う気は無い。
エーファの時のようにドラゴンと見破られ難くなったと考えれば良いだろう。
「ちなみに、今度会った時にその首にロザリオが無ければ、問答無用で処刑するから…そのつもりで」
冷ややかな殺意と共に、エーファはそう告げた。
エーファの心情もそうだが、ドラゴンスレイヤーと言う立場も含めて、コレが最低限のケジメだ。
「…それでは、私はもう王都へ帰るわ。リンデには脅かして悪かったと謝っておいて」
「待て。一つ聞きたい」
「何か?」
ぴたり、と歩いていた足を止めてエーファは振り返る。
「お前は俺の正体について何か知っているんじゃないのか?」
エーファは戦いの中、レギンについて含みのある言い方をしていた。
何かレギンの知らないことを知っている風に見えた。
「あなた自身のことは何も知らないわ。本当よ」
そう前置きをした後、エーファは言葉を続ける。
「だけど、あなたの紋様…『竜紋』については知っているわ」
「竜紋?」
「そう。その紋様は、私達ドラゴンスレイヤーの間では特別な意味を持つ」
言われてレギンはシュピーゲルがこの紋様を見て怯えていたことを思い出す。
ドラゴンスレイヤーのみならず、ドラゴンにとっても意味のある物のようだ。
「この世界には『六天竜』と呼ばれる六体のドラゴンがいるの」
僅かに顔を歪めてエーファは告げる。
「最低でも五百年。長い個体では千年以上生き続ける伝説のドラゴン達よ。個体によっては最早実在すら疑われている者もいるけど、彼らは確かに存在する」
「………」
ドラゴンは成体になるまで百年掛かる長命な生き物だが、それでも千年は長すぎる。
太古の昔からドラゴンは地上に居たと言われるが、そんな神話の時代から生き続けているのかも知れない。
「能力も姿もまるで違う六体なのだけど、一つだけ共通点があるの」
「…それは?」
「『竜紋』よ」
「!」
「竜紋が、普通のドラゴンと六天竜を見分ける最大の特徴なのよ」
それはつまり、レギンの正体とは。
レギンの失った記憶とは。
六天竜として、遥か昔から何百、何千と言う人間を喰い殺して来た過去。
「………」
「私はもう、何も言わないわ。過去を忘れ、心を入れ替えて生きると言うなら、応援してあげる」
過去は過去だ。
罪は消えないが、レギンが見せた善性が失われない限りは、エーファは何もしない。
もし、レギンが全ての記憶を取り戻し、再び悪竜へ戻ることがあれば、その時は容赦しない。
「あ、それなら私からも一つだけ。記憶喪失のあなたに聞くことでも無いけど…」
「…?」
「『三つ首のドラゴン』について、何か知っていることは無い?」
エーファの眼が、再び殺意と憎悪に満ちた物に戻る。
冷たい殺気を浴びながら、レギンは首を振った。
「いや、聞いたことも無いな」
「そう。もし見つけることがあれば、私に教えてね」
言葉こそ軽いが、その声にはドロドロとした暗い感情が宿っていた。
恐らく、そのドラゴンがそうなのだろう。
三つ首のドラゴン。
それが、エーファの姉を惨殺し、彼女を復讐者に変えたドラゴンなのだ。
「ああ、必ず」
「…ありがとう」
最後にそう言葉を交わし、二人は別れた。