第百二十八話
その男の人生は、英雄とは程遠いものだった。
英雄ジークムントの息子として生まれた。
生まれてすぐに母を失ったが、厳しくも優しい父と共に二人で暮らして来た。
だが、それは二十年前。
ジークフリートが九歳の時に終わりを告げた。
『………』
邪竜襲来。
ファフニールから王都を護る為、ジークムントは命を落とした。
一人残されたジークフリートは復讐を誓った。
父の形見である魔剣バルムンクを握り、血の滲むような訓練を続けた。
父の仇を討つ為に。
父のような英雄になる為に。
ただただ魔剣を振るい続けた。
『…ッ』
しかし、どれだけ努力してもジークフリートは魔剣を使いこなすことが出来なかった。
何がいけないのか。
何が足りないのか。
自分では、父のようにはなれないのか。
『あなたは、誰?』
そんな時のことだった。
ある日、王城の庭で訓練をしていたジークフリートは声をかけられた。
庭に存在する巨大な石の塔。
そこに空いた小さな穴から少女の目が覗いていた。
『………』
『え? な、何で無視するのですか? 聞こえているんでしょう? ねえってば!』
『………』
『あ、今ちょっと反応したでしょ? 無視するなんて酷い! 兄様に言いつけますよ!』
『…うるさいな』
騒々しい娘だった。
余程甘やかされて育ったのか、我儘で世間知らず。
七歳と言う年齢を考えても幼く、好奇心の塊のような少女だった。
『私はクリームヒルトと言います。あなたのお名前は?』
『…ジークフリート』
『ジークフリート。ジークフリート様ですね! 覚えました!』
クリームヒルトはよく笑った。
不自由を強いられながらも、日々を楽しそうに生きていた。
『………』
その生き方を、少しだけ羨ましいと思った。
自分も父が死ななければ、そんな風に生きられたのだろうか。
この世界にドラゴンが居なければ、あんな風に笑えたのだろうか。
もう自分は笑うことが出来ない。
『ジークフリート様、この本を読んだことありますか? 無ければお貸ししますので、どうぞ!』
『今日はメイドの方から美味しいお菓子を貰ったんです! 一緒に食べましょう!』
『私、前にトカゲを飼っていたことがあるんですよ? ジークフリート様は何かペットを飼っていたことはありますか?』
この胸を埋め尽くすのは邪竜に対する憎悪のみ。
そう思っていた。
そう思っていた筈なのに。
『…ふふ』
『あ! 今笑いました! 笑いましたよね!』
『…笑ってない』
『絶対に笑いましたって! 初めて見ました! ジークフリート様が笑った所!』
クリームヒルトと接する内に、段々とジークフリートの中で何かが変わっていった。
煮え滾るような憎悪は少しずつ薄れていき、代わりにそれよりも強い感情が大きくなっていった。
『………』
それと同時に、あれほど重かった魔剣が手に馴染むようになった。
『そうか。そう、だったのか』
憎しみで剣を振るう者にバルムンクは手を貸さない。
誰よりも強く、誰よりも優しかった父が、憎悪に囚われた者を認める筈がない。
その強さは、人を愛する力。
人の平和を守る為に、竜と戦う力だ。
『………』
だからこそ、ジークフリートは魔剣を取った。
石の塔は破壊され、クリームヒルトは連れ去られた。
抵抗したドラゴンスレイヤーは全て殺された。
それでもジークフリートは諦めることなく、魔剣を手にファフニールの下へ向かった。
道中襲い掛かる竜達を屠り、遂にその場所へ辿り着いた。
『クリームヒルトはどこだ?』
『安心しろ、死んではいない。我が竜血の呪いで眠っているだけだ』
黄金の竜は嘲るように笑った。
その身体から感じられる魔力は、ここに来るまでに滅ぼした竜とは比べ物にならない。
自然災害そのものが形を持って目の前に立っているような威圧感だった。
『…ッ!』
恐怖を抑えるようにジークフリートは魔剣を握り締める。
負ける訳にはいかない。
必ず、必ずクリームヒルトを救って見せると。
『魔竜剣!』
そして、戦いが始まった。
バルムンクを完全に使いこなしたジークフリートは、歴代全てのドラゴンスレイヤーよりも強かった。
ファフニールのブレスを掻い潜り、その身に刃を突き立てた。
黄金の鱗を断ち切り、竜血を浴びる。
段々と鮮血に染まるファフニールと同じように、ジークフリートの身体も返り血で紅く染まっていった。
『俺の勝ちだ! ファフニール!』
ファフニールの動きが僅かに鈍った隙を見抜き、ジークフリートは魔剣を振るう。
狙うのは心臓。
ドラゴンの急所である心臓を破壊すれば、ファフニールに止めをさせる。
『ククク…クハハハハハハ!』
それを見て、ファフニールは狂ったように笑いだした。
『赤き黄金よ。災厄を齎せ』
ファフニールの全身に刻まれた竜紋が光を放つ。
その光はファフニールのみならず、ジークフリートの身体からも放たれている。
『愚か者め! 塵如きが、この俺に傷を付けられると思ったか!』
『返り血が…』
ジークフリートの身体を紅く染める返り血。
ファフニールの血が蠢き、ジークフリートの身に竜紋を刻む。
『我が身は血の一滴に至るまで、災厄そのもの。それを浴びたお前の肉体は、既に俺の支配下にある』
『が、ああああああああ…!』
『丁度、人間の器が欲しいと思っていた所だ』
ファフニールの傷が瞬く間に修復されていく。
初めから罠だったのだ。
わざとジークフリートの攻撃を受け、血を流し、それをジークフリートに浴びせた。
全てはその肉体を奪い取る為に。
『クリーム、ヒルト…』
それが、最後の言葉だった。
その意識は塗り潰され、記憶は闇に沈んだ。
ジークフリートの自我は消え、その肉体はファフニールが手に入れることになる…
「あれから十三年、か。随分と長い眠りだった」
肉体を取り戻したジークフリートは静かに呟いた。
この身に戻ったことで、全ての記憶を取り戻した。
後悔、絶望、憎悪、様々な感情が頭を巡る。
それでも取り乱さないのは、レギンとしての記憶も残っているから。
今の自分にも守るべき物があり、全てを失った訳では無いと知っているから。
「レギン…いや、ジークフリート…?」
「ジークフリートだ。リンデ」
魔剣バルムンクを握り、ジークフリートは笑みを浮かべる。
「あ、れ…?」
その笑みを見つめるリンデの眼からポロポロと涙が零れた。
リンデ自身も理由は分からない。
しかし、何故かジークフリートの顔を見ていると悲しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。
「…お前の中に、クリームヒルトの記憶が残っているんだろうな」
そう言うと、ジークフリートは優し気な笑みを浮かべ、リンデの頭に手を置いた。
「あの時は悪かった。今度こそ、護って見せるから」
「ッ…」
感極まったように泣き崩れるリンデ。
それに背を向け、ジークフリートは邪竜へ目を向ける。
『ジークフリート。ジークフリート…!』
ファフニールは憎悪の眼で仇敵を睨んだ。
世界を呪うような殺意を込めて、ジークフリートの名を呼ぶ。
「俺とお前の因縁もこれまでだ」
肉体と精神が本来の形に戻ったことで、互いに不死を失った。
今のファフニールは心臓を貫かれれば死ぬ、一体のドラゴンに過ぎない。
「俺はジークフリート」
魔剣バルムンクを邪竜ファフニールへ突き付ける。
「『黄金』のドラゴンスレイヤー。ジークフリートだ!」




