第6話~テンプレートから抜け出すのはホント魂的にきっついのぅ~
頬を優しい起毛が撫でる。右手はねじ上げられ、組み伏され、肩胛骨にはバッチリ弟の膝が乗っています。ああ、私はまたも、またもノコノコとこの世界に来てしまったようです。もう何度、苦しめばよいのでしょう。いい加減許して欲しいものです。ツーと涙が垂れました。
「おい、アルシオーネ。聞いているのか、この稀代の淫婦め!」
そう言えば、ここに戻る前、女神様が何かおっしゃっていました。アルシオーネとしては見知らぬ方です。私は敬虔なセーレム教徒のはずなのに、何故か死んだあとにたどり着いたのはその方の御許でした。
「お前はフィオナの優しさ、清廉さに嫉妬し、彼女のバレエシューズに画鋲を入れた」
「しかもサソリの毒まで塗りつけて、だ。この事に付き、なにか申し開きはあるか」
前世の私はそんなに悪い人だったのでしょうか。アルシオーネとして暮らした日々ももう遙か遠くに感じられます。今の私は八木澤克明(48)。だみ声で極道声のいかにも悪そうな親父です。現世ではきれいどころと称され、男を惑わす稀代の淫婦と罵られようとも、魂をあけてみたらオッサンが入っているのです。もう何もかも絶望しかありません。
「お前はフィオナの優しさ、清廉さに嫉妬し、彼女の水着のおへその部分を切り抜いた」「しかも魔法で小細工し、水に浸かってからはじけ飛ぶ様にした」
え?画鋲はともかく、サソリの毒なんて知りませんし、水着?なにをおっしゃってるの?ま、まぁいいでしょう。ぬれぎぬもすべてはわたくしの不徳の成すところです。原因はわたくしにあるのでしょう。たしかに画鋲は入れてあげました。その記憶はございますし。
「お前は学園の秩序を乱し、その根幹たる筆記試験を卑劣な手段によって改竄した」
「申し開きはあるか」
ここで私が申し開きをしようとすると、殿下の竜革の安全靴がわたくしの口につっこまれるのでしたね。もう何度も繰り返しておりますし、流石に学びました。そろそろ、その火酒を私に注ぐのでしょう。ハイハイ。わかっておりますとも。実は呪いの火酒でいちど火がついたら、相手を燃やし尽くすまで燃えさかる、謎の火酒なんでしょ。知っています。
「見よ。ここに悪徳嬢アルシオーネは伏した。もはや学園に災いを成すことは…」
ご丁寧にも、この王宮の大広間の床には高級絨毯がひかれ、その下にも複数枚の絨毯が敷かれております。その複数枚の絨毯に織り込まれた魔封じの魔法陣が立体構成され、多層的にこの大広間を魔法禁止空間としているとか。それも何度も聞きました。ええと。あとはなんでしたっけ。
「学園の風紀を乱し…」
「教師の業務を妨害…」
「静謐な学園に淫蕩な…」
いよいよ佳境です。殿下はサッと火酒を手に取ると素早くわたくしに振りかけました。「つめたっ」思わず声が出てしまいました。弟が私の後ろ頭にゴツンと膝を入れてくれました。
火酒を私の全身にふりかけ終わると殿下は、マッチを擦ります。でも魔道マッチはこの環境ではなかなか付きません。ケビンが男爵令嬢から何事か指示されています。ああ。テーブルの燭台を持ってきましたね。そうそう。この蝋燭で私に火をかけるのでした。
あーあ。あれって熱くて苦しくて本当に堪りません。なんでこんな酷いことをこの人たちは平気でできるのでしょう。あとなんでしたっけ。何かあの、見知らぬ女神様に念押しされたような、されなかったような…。
そうそう。この時、生活魔法「着火」を使わなかったのは、その絨毯の魔封じ効果のためでしたね。ここは細かいけれど、よくよくできています。このポイントに気がつくまでなんと女神様は30回も繰り返し動画をみたそうなのです。有り難いことです。
うーん。違うな。なんだったっけ。どうも何か重要な事を忘れているような…。気を強く持て、でしたっけ?ええと、おまじない?893。893。893。5910、5910、5910…数字のイメージが脳内に流れますが、なんなんでしょうね。これは。
(『おどれら、嘗めた真似しくさりおって。』)
(『儂を嘗めとったら、ただですまんけん、覚悟しぃや』)
あやふやな記憶を頼りに、よくわからないおまじないを唱えたら、心の奥底から、だみ声が聞こえてきました。腹のそこから威圧の籠もっただみ声です。極道声と言っても良いでしょう。ああ、これは私の中の人の声。うわー。悪そうな声。あー、くー。なんだか叫び出したくなってきました。おおっとだんだんと気持ちが高ぶってきました。わたくし、わたくしはアルシオーネ・リン・ドーネル。わたし、わたし、わし、ワシャアのう、おおよ。おおよ。おおおおよ。おおおおーーよ。うぉぉぉぉらぁ。
「オドレら、学生がヤクザモン相手になにさらしとんじゃぃ」
気合い一閃、男、八木澤、立ち上がると同時に、弟君の鼻面に蹴りを入れ、落ちていた火酒の角瓶を拾うやいなや、クルリと身体を回転させ、王子殿下のこめかみへと思い切り打ち据えたのでありました。