第一王子は、第二王子の婚約者にご執心のようです。
「いい加減認めたらどうだ? 君がリリアーナを虐めたんだと」
「あら、してない事を如何して認めろと言うのです? 無茶を仰いますのね、殿下は」
「アマリアッ! 何時までしらばっくれる気だ! 此方には証拠だってあるんだぞ!」
「証拠、ねえ……それは破られた教科書や、落書きされた上履き、机の上に置かれていた花瓶などの事で御座いますか? であれば、それはわたくしが行ったという、絶対的な証拠にはなりえませんのよ。だって、何方でも出来ることですもの。お分かりいただけました?」
アマリアと呼ばれた少女――セルラント王国宰相ヴィンセント公が長子、アマリア・ヴィンセントは扇子で少し上がった口元を隠しながら、言う。目の前に対峙する男――アマリアの婚約者であり、セルラント王国第二王子のグリース・セルラントはぐっと押し黙った。明らかにアマリアの言う事が正しかったからだろう。
とはいえ、引くに引けない。そもそもグリースがこんな風に沢山の取り巻きと一人の女の子を連れて、婚約者であるアマリアを追求しているのはリリアーナと呼ばれた、集団の紅一点の為である。
リリアーナ・マルグス。男爵家の庶子で、元は平民として暮らしていたという淡いピンク色の髪に青い目を持つ、綺麗というより可愛いが似合う愛らしい少女。
グリースは婚約者があり、かつ王族という立場でありながらこの少女を、愛していた。数多の男と共に、リリアーナの取り巻きその一と化しても良いくらいには。
元より王族という立場が、グリースは嫌いであった。第一王子が侍女の子で後ろ盾のない王子であったから、正妃の子で第二王子であるグリースに王太子のお鉢が回ってきたのだけれども。それがグリースにとっては重荷だったのである。
何せグリースの上の兄――第一王子は、何処までも完璧な男で。後ろ盾さえあれば、と父王が嘆いていたのを此処耳で聞いた事さえある程。
もう一つ、グリースには重荷に感じている事がある。それが婚約者であり公爵家の娘、アマリア・ヴィンセントの存在。何故ならアマリアも第一王子のように、これまた完璧な存在であったから。
何をさせてもグリースより上に行き、学園の成績など常に満点或いはそれに近しい点数を叩き出す。政治、経済、領地統治、外交。どれ一つ取ってもグリースに勝てるものがない。
あるとすれば、剣術くらいなものだ。とはいえこの剣術だって兄である第一王子にはこてんぱんにされてしまうし、リリアーナの取り巻きの一人、騎士団長ギニュイ辺境伯の次男、ニーチェ・ギニュイにも負けてしまう程度。
とどのつまりグリース・セルラントという男は劣等心の塊だった。その心を優しく解してくれたのがリリアーナだった、という話。
無論アマリアとてそうしようとしなかった訳ではないのだが、劣等心の根本が何をしようと、むしろ頑なになってしまう。早々と気付いたアマリアは、なるべくグリースのそういった所に触れないように接してきた。
それが、この結果。思わずアマリアははしたないと分かっていながらも、溜息を吐き出さずにはいられなかった。グリースに飽きれたというのもあり、そして自分の不甲斐なさを嘆くものでもある。
けれどその溜息を聞いてリリアーナはぴくりと、怯えるように肩を揺らす。アマリアの目にはそれがとても演技掛かって見えたが、取り巻きの男たちにとっては違うらしい。
「リリアーナ……嗚呼、かわいそうにこんなに怯えて。でも、大丈夫、私がついてる。あの女は何も出来やしない。ね? 安心していいんだよ」
一番近くにいた栗色の髪の男――フーウェル侯の跡継ぎであるレイモンド・フーウェル――がリリアーナの肩をそっと抱き寄せて耳元で囁く。それを悔しそう に、幾人かの男たち――その中にグリースも混じっていた――は眺めながら歯軋りをする。レイモンドはといえば、ふふんとドヤ顔で鼻で笑っていた。
――嗚呼なんて馬鹿らしい。というのがアマリアの率直な感想。名のある貴族の将来有望な男たちが、こぞって一人の女を取り囲む。それはある種異様な光景であると同時に、国母になるものとしては国の未来を憂かざるを得ない。
勿論それだけリリアーナという少女に魅力があるのも分かる。庇護欲を唆る容姿に言動、そして巧みに男たちの欲しい言葉を与えるその手腕は見事とも言えるだろう。
けれど言ってしまえば、それだけだ。例え元が平民であったとしても、貴族の末端に位置する男爵家の庶子であったとしても。リリアーナがマルグス男爵家の家名を名乗るのであれば、やらねばならぬことを成していない。
貴族としての義務――それはマナーであったり、淑女としての嗜みであったりと様々であるけれど――を放棄して、やっている事は将来有望な貴族の男たちに媚を売る事。これは全く褒められた事ではない。誰の目から見ても。
実際リリアーナの取り巻きである、彼らの婚約者からは白い目で見られていた。家同士の約束とはいえ、人の婚約者を誑かすなんて、と。
その他の貴族、教師、はては特待で入った平民たち。学園にいた生徒すべてがリリアーナを冷めた目で見ていた事に、目の前の男とリリアーナは気付いているのだろうかと、アマリアは思考してみた。
すぐさま答えは導き出される。――気付いている訳がないと。でなければ、こんな風に今アマリアの目の前に、いる訳がないのだから。
今度は隠すように息を吐き出して、目の前で茶番を繰り広げる男女につめたい視線を送る。
「お話は終わりで宜しいですか? 皆様と違い、わたくしは忙しいのですよ。三文芝居にお付き合いする時間など、御座いませんの」
「ッ待て、アマリア! お前は梃子でも認めないというのだな?」
「ええ。だって、やってませんもの。何度言わせる気で?」
引き止めるグリースに向かってにっこりと、綺麗に笑ってみせた。口元は上がっているが、目は笑っていない。一瞬グリースはその顔に怯えを見せたが、けれどすぐに我を取り戻すと「ニーチェ、ディルク!」と叫ぶ。
ディルクとは、サモンド公爵の三男で将来有望な騎士、ディルク・サモンドの事だろう。グリースとは相反する存在であったが、どうやらリリアーナという少女によって繋がりを得たらしい。
グリースが呼べば、二人とも短く返事をして、アマリアの左右を取り囲む。そして、ぐりっと思い切り腕を捻り上げて地面へ押し倒した。
突然の事に対応し切れず、おまけに俯せで倒されたせいで、アマリアの口の中に砂が入ってしまう。地面が石畳でなくて良かった、と思うと同時に口の中に感じる砂の感触に強い不快感を感じて、吐き出す。
それを見ていたグリースは何処か満足げに、アマリアを見下ろしていた。
「無様だな、君が認めていればこうはならなかっただろうに」
「……あら。どういう事でしょう。あの程度でしたら証拠にはなりませんと、申し上げた筈ですし、そもそもわたくしはやっておりませんと、何度……」
「見た奴がいる」
「……はい?」
「つい先日リリアーナが階段から落ちたのは知っているか? リリアーナは頑なに誰とは教えてくれなかったが、先程の様子を見て、確信した。それに今君を抑えているディルクが、リリアーナが落ちたところを見ていたらしくてね。きっと、誰がリリアーナを突き落としたのか、今から教えてくれる事だろう」
驚き瞠目させたアマリアに、グリースはしてやったりと笑う。きっと誰も見てないと思っていたに違いない、と言わんばかりである。
けれどアマリアの驚きはそこではなく、リリアーナが突き落とされたという事。今初めて聞いたそれに、知っている訳がないだろうと言ってやりたかった。けれど、先程よりも一層強く押さえられているせいか、上から抑えられる圧迫感で上手く言葉が発せない。
情けない声を出さないようにだけ精一杯気を付けながら、それでも気丈にグリースを見る。それは睨み付けるという類のものではなく、静観する、傍観者の目。
普段は見下ろされている気しか出来なかったアマリアを、今こうして物理的にも見下ろす事が出来た事にグリースは優越感を覚えていた。けれど、そのアマリアの目を見てぞっとする気持ち悪さを感じる。
――なんで、この状況でそんな目が出来るんだと。グリースは思わざるを得なかった。何か伏せている切り札でもあるのかと考えたのだが、然しそれはグリースも同じ事。
とっときの切り札を使う為に、こうしたのだ。だから大丈夫、と自分に言い聞かせて。
「今、君が自分から自白すればリリアーナへの謝罪だけで俺たちは許すつもりだ。――如何する? アマリア」
「ッ……だから、やっていないと、何度申し上げた、ら……」
押さえ付けられる強さで、息も絶え絶えだ。表情も少し苦しそうに見える。
流石に死なれては困るし、そこまで力を強くしろと頼んだ覚えはない。グリースは小さく二人におい、と声を掛けて力を緩めさせた。
圧迫されていた肺が解放されたおかげで、息が吸える。けれどもそれは一気にアマリアの中へ取り込まれ、思わず咳き込んでしまう。
噎せているアマリアに少しだけ申し訳なさを感じつつ、けれどもグリースはリリアーナの為に心を鬼にした。今グリースが守らねばならぬのは、この完璧な公爵家令嬢ではなく、はかなく可憐なリリアーナなのだから。
「そうか……残念だ。アマリア。非道な行いをしておきながら、認めないその精神は国母には相応しくない。たった今をもって、ヴィンセント公爵家令嬢アマリ アと、セルラント王国第二王子グリースとの婚約を破棄とする。……そしてリリアーナ・マルグスを我が婚約者と認め、アマリア・ヴィンセントをセルラントの 王太子であるグリース・セルラントが婚約者、リリアーナを侮辱し、亡き者にしようとした罪で、拘束させて貰う」
はっきりとした口調で、グリースは告げた。それがアマリアの死刑宣告であると言わんばかりに。
これでそう、もう何も恐れる事はない。幸せな未来が待っていると思ったグリースは、けれど不穏な笑い声を耳にして、眉間に皺を寄せる。
「……何がおかしい? ディルク」
そう。笑い声の発信者はアマリアを拘束しているうちの一人、リリアーナの取り巻きでもあるディルク。決してアマリアではない。
一体如何したんだと。この一瞬で何か可笑しくなるような事でもあった訳でもないのに、唐突に笑い出したディルクにグリースだけでなく、取り巻きもリリアーナも、そしてアマリアも不審そうな目を向ける。
当のディルクといえば、全く気にした様子もなく、必死に笑いを堪えていた。残念ながら、全くそれは意味を成していなかったけれど。
「いやあ、ねえ? まさかこんなにも上手く、事が運ぶとは思わなくって」
一頻り笑い終わった後。ディルクはそう言うが早いかアマリアを拘束していた自身の片割れであるニーチェを払い除け、ディルク自身もアマリアの拘束を解く。
それどころかアマリアを助け起こし、至る所についている土や土埃を払い落としアマリアの前に膝をついて騎士の礼を取る。
「フロイライン・ヴィンセント、此方の事情があったにせよ貴女様にご無礼を働いてしまった事、どうぞお許し下さい。これにはサモンド家は関わっておりません。ディルク個人としての行為ですのでどうぞ、処罰は俺一人にお願いしたく」
リリアーナの取り巻きであり、かつ今しがたグリースが婚約破棄を告げ、罪人としたアマリアに謝罪を請う。グリースとリリアーナ、そして取り巻きたちの間に動揺が走った。
口々に一体如何いう事だ、やら何をしている、だら言っているがディルクは気にした様子はない。アマリアが如何出るか、だけを静かに伺っている。
当のアマリアといえば、全く予想だにしてなかった展開に思わず目を瞬かせた。けれどすぐさま取り繕い、ヴィンセント公爵家令嬢の皮を被れば。
「……御説明下さる? でなければ、わたくしは何も判断する事が、出来ませんわ。情報が少なすぎるのですもの」
「嗚呼、それもそうですね。じゃあ、そろそろ出てきて頂きましょうか。――もういいですよ、ハーヴェイ殿下」
「遅いよ、ディルク。待ちくたびれた。それとお前は後で覚悟しておきなさい。あんなに強く、押さえつける必要はないでしょう」
「はっ……申し訳ありません。つい、うっかりと言いましょうか。手加減を間違えたと言いましょうか」
「お前は馬鹿力なんだから、いい加減それを自覚しなさい。でなければ、君の母上に今回の一件を伝えようかと思うのです。きっとそれが一番良い薬でしょう?」
「っ殿下頼みますからそれだけは……!」
呼ばれるや否や、アマリアの少し後ろにあった木ががさりと揺れて、砂埃が舞う。それはディルクが呼んだハーヴェイ――セルラント王国第一王子、ハーヴェイ・セルラントが木から降りてきた証拠。
腰まである銀色の髪は、首の辺りで一本に紐で結われている。薄い紫色の目は、何処までも力強い。一言で言えば――その存在感は、圧倒的だった。
レイモンドも、ニーチェも、その他リリアーナを取り巻きをつとめているものたち。そして王太子であるはずのグリースさえも。ハーヴェイには絶対的に敵わない。何が、ではなく、何もかもが。
権力争いを嫌い、極力その姿を見せない第一王子。ハーヴェイの姿を見るのは、兄弟であるグリースですら久し振りで、その他に至っては殆どが初めてその姿を見た、といったところか。
然し一人、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたもののすぐさま平素通りになり、つややかな笑みを浮かべるものがいた。――アマリア・ヴィンセント。その人である。
「まあ。ハーヴェイ殿下、御久しゅう御座います」
「久し振りですね、アマリア。君の美しさは何を持ってしても損なわせる事は出来ない――嗚呼、髪にまだ土が」
公爵家の令嬢であり王太子の婚約者といえども、早々簡単に王宮に出入りする事も、王族との謁見が叶う訳でもない。そう、例えアマリアの父が宰相であったとしてもそれは、変わらない事の筈。だと言うのに二人は随分と親しげで――それこそグリースとアマリアの関係を知らぬ者が見れば、恋仲と勘違いしても可笑しくない程度に――ハーヴェイは、先程の件のせいで汚れた、アマリアの金色の髪に手を伸ばして土埃を払う。
ひどく優しい手つきで、おまけにハーヴェイの目はしっぽりとしており、妙に色っぽさを醸し出している。アマリアの方は別段気にした様子はないけれど、誰が如何見てもそれは明白であった。――ハーヴェイ・セルラントがアマリア・ヴィンセントに惚れているだろう事が。
「なんで……? 断罪イベントこなしたら、その場にハーヴェイ様が出てきて、あたしのところにくる筈なのに……それにおかしいじゃない。ハーヴェイ様とアマリアは昔から確執があって、だからグリースとアマリアが婚約者になるって話だったのに……」
ハーヴェイとアマリアのやり取りに全員目を奪われている中、ぶつぶつと呟く人物が一人――リリアーナ・マルグスだ。完全に自分の世界に籠っており、周りの事など目に入っていない様子。だから気が付かなかった。ディルクとハーヴェイが揃ってそのリリアーナの呟きを聞いていたことも、薄らと口元に笑みを浮かべていた事も。
「おや。どうして最近まで平民だった君が、アマリアとグリースが婚約者になった経緯を知ってるのかな? ……まあ、かなり違うけれどね」
「ッハーヴェイ様! あなたはあの女狐に騙されてるんです! だって昔アマリアはハーヴェイ様とハーヴェイ様の母親に、毒を盛ったんですよ!? それで、その毒でハーヴェイ様の母親は亡くなって……そのことを知らないんですか!?」
「へえ、そうなんだ。知らなかった。母は今も健在だし、私も私の母も、一度として毒を盛られた事なんて、ないんだけれど」
「嘘ッ嘘よッ! ヴィンセント公爵が実権を握りたくて、有能なハーヴェイ様より無能なグリースの方が操りやすいからって、アマリアを使って……」
「……っふ、ふふ、あはは! ねえ聞きましたか? アマリア。ディルク。あの狸爺……おっとヴィンセント公がアマリアを使って、中央掌握をお考えだったんだそうですよ。似合わないですねえ。宰相すらとっとと辞したいって顔して、アマリアをグリースと婚約させるのも嫌がって渋りに渋りまくった、あのアマリアを溺愛してやまない、ヴィンセント公が! くっ……だめだお腹が捩れてしまう」
本当に面白くて仕方がないのだろう。ハーヴェイは隠す事なく、声を震えさせながらひたすら笑っていた。アマリアとディルはといえば、そんなハーヴェイを見てああまた始まった、と言わんばかりの表情を浮かべている。どうにもこうにも、このハーヴェイという男は一度壷に入ったら止まらないらしい。
ピンクの髪を振り乱し、ハーヴェイに取りすがろうとするリリアーナをディルクは片手で押さえつけ、ハーヴェイに近づけぬようにする。それでもなおハーヴェイの傍に行こうとするリリアーナを見て、グリースたちは呆然としていた。
だってそうだろう。有りもしない事を並べ立てているその姿は、凶器染みているとしか言いようがない。おまけに、自分たちの知る可憐で、たおやかなリリアーナの面影が全くないのだから。目の前の光景が信じられなくても、仕方がないと言える。
とりわけグリースなど兄と比較する事のなかった、否比較されなかったリリアーナから出てきた”無能なグリース”という台詞に、頭を鈍器で打ち付けられた気分だった。それがまるで嘘であると言って欲しいと、縋るような目線をリリアーナに向けている。だって、リリアーナはグリースに「グリース様はグリース様ですから」と、やさしい声で、語りかけてくれた。だから、だからリリアーナと共に生きて行きたいと思ったというのに。
「リリアーナ……」
取り巻きのうちの誰かが小さく呟く。まるで呼び掛けるように。けれど当のリリアーナは気が付かない。ハーヴェイしか目に入っていないようだ。それが全員の胃にずん、と重たいものを落とす。
取り巻きたちの中であればああいう風に執着するのは、多少嫉妬すれども、許せた。だって皆お互いにコンプレックスを抱いている事を知っていたから。それをリリアーナに、解してもらった事も。
けれどどうだ。ハーヴェイはまさに"理想の王子様"を絵に描いたような、存在。王太子である筈のグリースよりも、もっと遠い存在のように彼らには思えるのだ。だから、だから――嗚呼、結局そういうのがいいのかと。皆一様に思ったのだろう。
本当ならばこの辺りで冷めてしまって当然なのだが、そうはならないのは一度はリリアーナに救って貰ったからか。或いは、一過性のものですぐに自分たちの元に戻ってきてくれると、そう考えているのかもしれない。
「は、あ……よく笑った。参加して良かったですよ、ディルク。さて、それじゃあ喜劇も此処までにして、幕を下ろそう」
「っやっぱりハーヴェイ様はあたしの……!」
「おっと、ディルク、その勘違い女の口を封じておいてください。些か不愉快なんですよね。その女の口から、私の名を呼ばれるのは」
「承知致しました」
「そんな……っ! ハーヴェ……むぐっ」
命じられるが早いか、ディルクは未だ突進せんばかりのリリアーナから手を離す。そのせいで支えを失ったリリアーナは、勢い余って地面に激突した。
取り巻きたちが口々にリリアーナの名を呼び、心配そうに駆け寄ろうとしたのをハーヴェイが制す。その間にディルクが先程アマリアにしたように、然し今度は一人で地面に押さえ付けてリリアーナを拘束した。一つアマリアと違う点があるとすれば、その口に猿轡を咬まされているところだろう。
「兄上、ディルク……! どういう事だ! 王太子の婚約者に手を挙げるなどと、反逆罪だぞ⁉︎」
「随分と頭が弱くなりましたね、グリース。男爵家の庶子を正妃になど出来る筈がありませんし、そもそも婚約というのは家と家同士の取り決め。君が一方的に破棄出来るものではないんですよ。とりわけ、グリース。君とアマリアの結婚は私たち王族側が無理を言って、お願いした立場なんですからね」
「……そんな、ばかな。だってアマリアが俺に惚れて、それで無理矢理……」
「はあ……誰からそんな話を聞いたんですか」
「リリアーナが、それで、だからリリアーナをアマリアがいじめてるって……」
「馬鹿ですねえ。そんな訳ないでしょう。アマリアは君の事を近所の手の掛かる子供程度にしか、見てませんよ。ねえ、アマリア?」
「……此処でわたくしに話を振るのですか、ハーヴェイ殿下」
「ええ、まあ。直接その口からグリースの勘違いを正して頂こうかと」
「……分かりました」
突然呼ばれた名にアマリアは一瞬渋い顔をする。どうせ話を付けるならそっちで勝手にやってくれ、と言わんばかりの巻き込まれ顔だ。けれどハーヴェイは気にした様子なく、にこにこと笑っている。
こうなれば嫌だと言ったところで如何にもならないと知っているアマリアは小さく息を吐き、承諾の意を零す。とはいえ、随分と渋々といった様子ではあったが。
「わたくしとグリース殿下の婚約は、グリース殿下を王太子にする為と、わたくしは聞いてきました。婚約するまでわたくしはグリース殿下の存在すら存じ上げませんでしたわ。……ちなみにわたくし、好きなタイプは年上の落ち着いた男性です。落ち着いた男性、ですよ。ハーヴェイ殿下」
とはいえ何を言えば良いのか分からなかったアマリアは、要約するとお前は眼中にないと。遠回しにグリースに伝える事にした。けれど好みを言ったところでハーヴェイが何故か至極嬉しそうに笑うので、お前も違うぞ、と念を押す。
然しハーヴェイは気にした様子もなく、笑顔で何度か頷いていた。多分これは何を言っても無意味だろうと思って、早々に諦めてハーヴェイから視線を外した。
「まあ、そういう事ですよグリース。間違ってもアマリアが君に惚れる事はない。なんといっても、アマリアの初恋は父――」
「ああああ、殿下! ハーヴェイ殿下! 何故此処でわたくしの初恋をバラす必要が御座いますの!」
「他意はありませんが、これを言った方が効力が上がるかと思いまして」
「……あのーお二人とも。茶番はそこまでにしてくれませんかね。予想以上にこのお嬢さんお転婆で疲れるんですけど」
「嗚呼、ディルク。すみませんね、すっかり忘れてまして。……さて、じゃあ仕切り直しましょう。ともかくアマリアが君に惚れていない以上、このお嬢さんをいじめる理由がない。おまけにアマリアがそんな事をする筈がないんですよ」
どうだ、と言わんばかりにハーヴェイは首を傾げてみせる。グリースたちの反応を待つが、皆一様に呆然としたまま。反応がないのは存外詰まらない。さて、どうしたものかとハーヴェイが顎に手を当てて頭を悩ませ始めたところで、小さく誰かが呟く声が聞こえる。
一旦思考を止めて、誰が発信源かと確認する為にぐうるりと辺りを見渡せば、じっとハーヴェイを睨むものが一人。――グリースだ。
言いたい事があるなら言えばいい、と言いたげにハーヴェイは顎でグリースに話すよう促す。
「ディルクが、見たと言った。リリアーナが階段から落ちた原因を。それに、俺に思い入れがなくとも、王妃の座に興味があって、それで、リリアーナに――」
「ないですね、それは」「ありえませんわ」
アマリアとハーヴェイの声がハモる。何せヴィンセント公爵家といえば、権力に興味がない連中の集まりとして貴族間では大変有名な事。アマリアとて例に漏れず、その座に興味がない。
ただ家柄や血筋など、諸々の兼ね合わせでアマリアが最も適している事を自覚しているが故。王妃教育を黙って受け入れ、王太子の婚約者に収まっていたのである。
「嗚呼、でもディルクが見たという、階段から落ちた原因は気になりますね。聞いても?」
「聞くほどのものでもないですよ。勝手にこの女が一人で落ちた。それだけです。嗚呼、俺以外にも証人はいますよ。確かカーディ子爵令嬢、ターナー伯爵令息、ルウェイン侯爵令嬢が俺と一緒にいましたんで。それになにより、アマリア様がこの女を突き落とすなんて事出来ないんですよ。だってその日、アマリア様はハーヴェイ殿下とお茶会してましたし」
すらすらとディルクは聞かれた事に答えていく。その事実に驚愕の色を見せたのはグリースだけではない。他の取り巻きたちも、そしてリリアーナ本人ですらも驚いていた。
聞いた本人であるハーヴェイは至極満足そうに頷き、だよねえと同意の言葉を漏らす。どうやら全て織り込み済みであったらしい。
「ということだそうですよ。ねえ、マルグス男爵令嬢。何か反論は……って猿轡咬ましてたね。それ、外してあげて下さい」
「っは……! 嘘よ、全部ディルクが嘘ついてるに決まってるわ! だってあたし本当にアマリアに落とされて――」
「だからありえないんですってば。アマリアがその日私と一緒にいたんですから。私と、それと私の母と父、王宮中の皆が証人になってくれますよ。……誰がどっちを信じるか、明白、ですよねえ?」
にっこりと笑っているが、然しその目は笑っていなかった。ひっ、と小さく悲鳴をあげてリリアーナは押し黙る。カチカチと歯を鳴らして、恐怖でその身を震わせていた。
「ああでも、良かった。君からその証言が取れて。ディルクから聞いていましたけど、誰に落とされたとか、誰に意地悪されたとかってちゃんと明言してなかったらしいでしょう。馬鹿たちが勝手に暴走しただけ、私は関係ありません、なんて君に逃げられたらどうしようかと思ってたところだったんですよ」
リリアーナの取り巻きをしていた全員を眺めながら、楽しげに声を漏らす。けれど誰一人として、言葉を発する事が出来やしない。
まさしくハーヴェイの独断場だった。そしてそれは、これからも続く。
「で、グリースはアマリアと婚約破棄したいんですってね。それでこの女を婚約者にすると。うん。良いんじゃないですか? その代わり可愛い可愛いアマリアは、私が貰うとしますよ。その事についての承諾は、もう父からもヴィンセント公からも実は頂いていてね。ああいや良かった良かった。私は長年の夢が叶ってとても嬉しいし、君たちも幸せでしょう。ありがとう。名も知らぬ少女と、我が弟よ。罪人同士、とてもお似合いですよ」
「ざい、にん……? 一体誰が罪人だと言うのですか、兄上」
嫌な予感が、グリースの中を駆け巡る。どくどくと煩い心臓を無視して、どうか違いますようにと必死に願いながら何とか口を開いて問い掛ける。
けれど願い届かず。ハーヴェイの口から齎されたのは絶望とも呼べる、それであった。
「誰って……君ですよ、グリース。グリース・セルラントとマルグス男爵令嬢。嗚呼、それとこの場にいるディルクと私、アマリア以外の全員でしたか。だってそうでしょう? 公爵家の御令嬢に無実の罪を着せ、あまつさえ地面に押さえ付け、勝手に家同士の取り決めを破棄しようとしたんですから。他の者は軽い罪で済むかも知れませんが、そこの御令嬢とグリース――君たちは重罪に値します」
「ッそんな馬鹿なっ……! だって俺は王太子で――」
「ああそうそう、それなんですけどね。実は父……否、国王陛下から勅旨を預かってきてたんでしたよ。忘れていました」
懐をがさごそと漁り、一枚の封書を取り出す。全員に見えるように掲げられたそれは、真っ赤な印鑑の印――御璽がしっかりと押されている。
間違いなくセルラント王国の国王が書いたものであるという証拠であり、かつそれは絶対的な命であるという証。この場にいる全員がごくり、と思わず唾を飲み込んだ。笑っているのは、ハーヴェイただ一人。
ゆったりとした動作で、封を切っていく。その一つ一つの動作が焦らしているようで、どうしようもなくもどかしい。
「さて。読ませて貰いましょうか――グリース・セルラントは廃嫡」
「何故、何故、如何してッ!」
「あー……少し静かにしてて欲しいんですけれども。色々省いた私も悪いですが。ちゃんと説明しますよ、これから」
「ッそれを渡せ!」
信じられなかった。だってそんな、廃嫡だなんて――だからグリースはどうせハーヴェイがグリースを騙しているだけだと思って、ハーヴェイが手にしていた書状に手を伸ばす。
存外あっさり、拍子抜けしてしまうほど簡単に手に入れられた勅旨を見て、ああほら違うじゃないか。と笑おうとしたグリースは――悲痛な声を上げる。
そこには予想に反し、ハーヴェイが口にした通り"グリース・セルラント 廃嫡"の文字が並んでいたから。何故、如何して。そればかりがグリースの頭の中を駆け巡る。ちゃんとその書状に、理由も書いてあるというのに。
「まあ、簡単に言えば父上は早々と貴方を見限っていました。正妃殿を説得するのに随分と時間が掛かったようですが……まああの方は腐っても国母。学園での振る舞いをみて、矯正不可と判別されたようで。最初は王太子の座から下ろす程度だったのですけれど、今回の計画をディルク経由で私から聞いたお二人はこう決めたんですよ――実行したら廃嫡、と」
「でも、理由としては、弱すぎるだろう……だって、俺は、俺は、アマリアを……」
「そうですか? 王族としてはあってはならない振る舞いですから、当然でしょう。勿論今回の一件だけではなく、学園での振る舞いも考慮されていますが。さて、グリースは置いておいて、次ですね。リリアーナ・マルグス。マルグスの家名を取り上げ、かつ聖スメルナ教会にて終身献身に務める事」
「……まあ、ハーヴェイ殿下。お言葉ですけれど、それは余りにも過酷ではありませんか? 聖スメルナ教会と言えば……」
「そう、そうだね。彼の地は重い罪を犯した女たちが行く場所。別名生き地獄なんだから。でも公爵家の令嬢であるアマリアを陥れようとし、かつ王族や名家の婚約者を持つ男たちに色目を使っていたんですから。自業自得、というべきかな。それに、ねえ――男たちを落としたのは、私に会う為、でしょう? マルグス男爵令嬢」
「ッ……!」
「真実そのものを愛していたのならば、或いは許されたかもしれませんが、この反応ですしねえ。野放しにしておいても良い事なんて、一つもないと思いませんか? 最後にその他取り巻きたちですけれど。これはあなたたち婚約者とその家、またご実家からの願いであるという事。先に御伝えしておきますね。――さて。ではギニュイ辺境伯令息、フーウェル侯爵令息、トゥルゼン伯爵令息、シルベル侯爵令息、ナダル子爵令息。君たちは、その家名を取り上げ、二度と家の敷居を跨ぐこと許さず。これが今回の処遇です」
「そんなッ……!」「何故だ!?」「僕たちが何をしたって言うんですか!」
リリアーナとグリースよりも軽いと聞いていた五人は口々にざわめく。それは全員が自分のしでかした事を分かっていない、ということに他ならない。思わずハーヴェイは苦笑を零す。これらが将来の国をもしかしたら担っていたかも、と思えば恐怖しか浮かばなかったからだ。
「……スルー子爵令嬢、ベネディクト侯爵令嬢、エインズワース伯爵令嬢、リドゲート伯爵令嬢、ストレイス男爵令嬢。みんなあなたたちの婚約者だったご令嬢たちです。分かりますか。あなたたちは婚約者をほったらかしにし、一人の女性の取り巻きになった。それだけならまだしも、マグルス男爵令嬢に言ったそうではありませんか。婚約者がいるのでしょう、といった彼女に対し『嗚呼、どうせ家同士の取り決め出し、深窓の令嬢である彼女よりも君の方がずっと素敵だ。君を正妻にしたい。……婚約者の君には悪いけど、妾で我慢してくれるようお願いしてみようか』と。これは確か……フーウェル侯爵令息様でしたわね。勿論他のお方も、似たような事を囁いていたと。わたくしは聞いております。この耳で直接聞いた事もありました。これを侮辱と呼ばず、何と言いますか。ご令嬢方は悲しみ、両家は大層お怒りです。むしろ、当然の処遇ですわ」
しずかに、騒ぐ男たちを鎮めるように語り出したのはアマリア。その顔には色という色がなく、無機質なもの。自分の事ではなく他人の事でひっそりと怒るその姿にハーヴェイは流石、と内心で賞賛する。彼女こそ国母に相応しい、と。
アマリアの言葉に男たちは言葉を詰まらせた。二人きりだと思っていたが故に囁いた言葉が、まさか誰かに聞かれているなんて全く思わなかったのだろう。口々に違う、とそんなつもりじゃ、とぶつぶつと呟いているが然しアマリアもハーヴェイも、ディルクも聞いていなかった。
「さて、これで終わりですか。じゃあ衛兵。すみませんけれども彼らを宜しく御願い致します。――ああ、ディルク。君は説明の為を同行を御願いします」
「御意」
ぱんぱん、とハーヴェイが手を叩けばぞろぞろと木陰から出てくる衛兵。男たちは砂音を立てながら後退るが、あっという間に連行されて行く。然し事の重大さと覆らない事を知っているのか、抵抗はない。
対しリリアーナはディルクに拘束されたまま立ち上がらされ、引きずられていくのだけれども。その間も「こんな、ゲームのシナリオ通りじゃない。あたしがヒロインなのに。なんでハーヴェイ様とアマリアの関係がこじれてないなんて」と気味の悪い呟きを続けていた。
「……さて、静かになりましたね。アマリア」
「そうですね。ハーヴェイ殿下。ところで、わたくしもお暇させて頂いても構いませんでしょうか」
「冷たいですねえ。少しくらい話を聞いて下さっても良いと思うんですよ。何せ私は、あなたの為にこんなにも頑張ったのですから」
「……ご自身の為、の間違いでしょう?」
「まあそうともいいます」
リリアーナの呟きなど聞こえなかったのだろう。否、聞く気がなかったとでも言う方が正しいかもしれない。適当に連れて行かれる彼らを見送れば、ハーヴェイは視線をアマリアに向けてうっとりとした声を出す。
慣れたものなのだろう。アマリアはさして気にした様子も見せることなく、ばっさりと切り捨て、ハーヴェイのその言い分に思わず苦笑いを零した。
とはいえ、話を聞く気はあるらしい。立ち去る事なくハーヴェイの方に視線を向けている。けれどその目は話す事があるなら、早く話せと言いた気で。
「アマリア。私の可愛いアマリア。あなたが手に入るというのならば、私はこの国の王にでもなりましょう。必要なら、なんだってします。だからどうか、私と結婚して下さい。私はあなたに一目逢ったその瞬間から、あなたに心惹かれてやまないのです」
「――……昔から思っていたのですけれど、わたくしなどの何処が良いのですか」
「全てですよ、アマリア。その日の光を浴びれば輝く金色の髪も、ペリドットのような瞳も、白い陶器のようなこの肌も。国母たらんと努力するその姿、完璧で見えるように振る舞いながら実はとてもおっちょこちょいな一面も。全部ひっくるめて、アマリア・ヴィンセントという女性が、私は好きなんです」
騎士の礼を取り、そっとアマリアの手をハーヴェイは自分の掌に乗せる。そして空いている方の手で真っ白な、日に焼ける事なく育っただろうアマリアの手を優しく撫ぜながら、アマリアの目を確りと見つめて思いの丈をぶつけた。
普通の令嬢であれば頬の一つでも染める場面だろう。けれどそこはアマリアである。ハーヴェイが触っていない方の手を自らの頬に手を当て、小さく息を吐き出す。
「変わったお人……わたくしは今、殿下の事が好きではありません。ああいえ、好きですし尊敬しておりますけれど、殿下と同じ意味では好きではありません。それでも、良ければ。そのお話お受け致しましょう」
「勿論ですよ。ええ、だってこんな風にお願いに弱いアマリアに無理をしいているのは私ですからね。そんなアマリアも愛していますし、これから時間はたっぷりとあるのです。何れは私の事を愛していると、言わせてみせます。その自信はありますからね」
口端をつり上げて、にやりと笑ってみせる。それからアマリアの指先に口づけを一つ、落として。
ただ王太子になりたくなくて弟にぶん投げた第一王子が、好きな子の為に王太子になる決意をして婚約者ごと乗っ取る断罪シーンを書きたかっただけなんですが、180度違う話になった気がしてならない今日この頃。
2015/8/21
誤字報告ありがとうございます。修正済。
2015/8/22
ご指摘有り難う御座います。コンクリート→石畳に変更。