第百二十一話
はっきり言って、瑠璃子の琴の腕前はまあまあだった。特別うまいわけでも、下手なわけでもなかった。真面目に取り組んできたとは言えないだろう。相模の普段の苦労が目に浮かぶようで、白菊はますます彼女に同情を禁じ得なかった。
とはいえ、白菊はそのつたない瑠璃子の演奏に乗せてできる限りのことをした。服はすべて吉岡邸に置いてきたため、今着ているものしかない。多少、見栄えは悪いが仕方がない。これは白菊の今後を左右する戦いだ。もはやつべこべ言っている場合ではなかった。
「……綺麗ねぇ」
普段の瑠璃子ならば、ひとりでに琴を弾くことなどないのだろう。その音を珍しがって、部屋の前には女房たちの人だかりができていた。白菊はすぐに気がついたが、必死に音を探していた瑠璃子は気がつかなかったようだ。ある女房が呟いた言葉にぱっと顔を上げると、満足そうに笑む。
「ふふん、僕だってやるときはやるからね」
得意そうに胸を張る。音が止んだので白菊も動きを止め、女房たちを見やる。すると彼女たちは蜘蛛の子を散らすようにその場から去って行く。きっと白菊に見られたからだろう。想定内の反応だ。それに本当に用があるのは彼女たちではない。
「相模!!」
彼女は先ほどまでとは違ってにこにこしながら部屋に入ってくる。瑠璃子は機嫌の直った彼女に満面の笑顔で飛びつく。
「このように毎日お琴の練習をなさいませ。今に素敵な殿方が」
「殿方などいらぬ。そんなもの、基氏が嫌でも用意するであろうからな」
輝かんばかりの笑顔で毒を吐く。せっかくのお膳立てが台無しだ。何故いつも彼女はこうなのだろうか。白菊は頭が痛くなってくる。だが、そんな瑠璃子の慣れている相模は笑顔を崩さない。
「その殿方に気に入られるために練習するのですよ。お歌も、お琴も、御作法も、この相模がすべて教えて差し上げます。まずは着替えましょう。それから」
姫を預かる女房というのは、主が幸せになるためならば何でもするものだ。相模の喜びようも、はりきりようもすべて普通のこと。これが瑠璃子の策略だと知れば当然怒るだろうが、そんな無粋な真似は白菊にはできない。微笑ましいこの光景に、思わず笑ってしまいそうになるのを抑えるのに必死だった。
「……ところで、そなたは舞はうまいようだな」
急に矛先を向けられ、慌てて居ずまいを正す。
「ただの盗人ではないようだな。ここに来る前は何をしていた」
「白拍子です」
そう答えると相模は鼻で笑った。
「遊び女か。ここはそのような者のいる場所ではない。今なら姫様に免じて見逃してやろう。疾く失せよ」
「……基氏にも同じ事が言えるのか、相模」
瑠璃子の低い声に相模の表情が固まる。基氏の母親は名を阿古という。基氏の父が晩年に白拍子である阿古を見初め、そして生まれたのが基氏だった。彼の姉が皇子を産んだために高い位を持つ基氏だが、他の兄弟と比べると母親の身分が劣り、また人前でそれを言及されるのをひどく嫌う。早すぎる昇進は憎まれる。母の身分を引き合いに出して陰口をたたく者もいるのは確かだ。その者たちがどうなったかはさておき、藤原家に仕える者として相模は黙るしかなかった。
「遊び女でも何でも良い。僕はこの女が気に入っただけだ。いいじゃないか、こんな鬼の家に単身飛び込んでくるのだから……ね、相模」
「……ついて参れ。そのような格好で姫様のお側におれると思うな」
くるりときびすを返す。瑠璃子の勝ちだ。無垢な笑顔を浮かべる幼い少女に初めてそら恐ろしさを感じた。どんな策を講じても彼女には勝てないかもしれない。ごくりと唾を飲み込むと、早くしろと目で催促する相模におとなしくついていった。
ふと、白菊は視線を感じた。あたりを見回してみるが何もない。だが、確かに誰かがどこかから白菊たちを見ている。
「……緋雨?」
そう呟いてみたが返答はない。白菊は首を傾げる。途端、視線も感じなくなった。
「どういうことかしら」
何かおかしい。そう思ったが、相模は思った以上に足が速かった。考え事をしている暇などない。白菊は彼女に追いつくために急いで歩を進めた。
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「あかん、眠なってきた」
鴉はぼんやりと屋根から下の景色を見下ろしていた。千景の命で見張っているのだ。だが、変わり映えのしない日常の風景にすっかり退屈していた。小さくあくびを漏らしながら、それでもその与えられた仕事をこなしているのは、千景のためだった。千景がそうしろと言ったから、ただそれだけの理由しかないが、千景を敬愛している鴉にとってはそれだけで充分だった。
今日で三日目。今のところ特に動きはない。昼頃には屋敷の女房たちがばたばたとしていたが、それも姫君の世話のためだったようだ。お世辞にもうまいとは言えない琴の演奏を思い出してくすりと笑う。あれならば幽や玉由良のほうが格段にうまい。
「……そういえば、幽ちゃん大丈夫やろか」
女人を傷つけることはしてはならない、と千景は鴉に厳命している。それは鴉がある個人的な理由で女人が嫌いだから何をするかわからない、ということもあるようなのだが、本質はもっと別のところにあった。千景が、女人の外側が好きだからだ。その美醜はまったく問わず、小綺麗にしていれば何の問題もない。逆に中身にはあまり興味はないらしい。優しいとか嫉妬深いとか、そういう内側にはこだわらない。千景にとって重要なのは髪を綺麗にとかしているか、服をきちんと着崩さずに着ているか、といった外側のことらしい。だからだろうか、女人の肌に傷がつくことが許せないため手をあげることは絶対にしないし、鴉にもさせないのだ。以前、その理由を訊ねたことがある。
「まあね、色々あるのだよ」
それだけを言って、うっすらと笑った。それ以上答えることはなく、ただじっと月を見ているだけだった。
そんな千景が唯一例外として手をあげるのが、一番長く彼の側にいる幽だった。
先日、その場面を見てしまった。覗くつもりはなかったのだが、たまたま目にしてしまったのだ。思い切り平手打ちし、それでも抵抗しない幽を更に叩く。ぐっと涙を堪える彼女の姿が余計に千景を激高させるらしく、ひたすら罵倒するのだ。さすがの鴉も幽が気の毒になり、何度か止めに入ろうかと思ったものの、その空間に立ち入ることさえ許されない雰囲気で立ちすくんだのを覚えている。
しばらくして部屋から出てきた千景に声をかけたが、彼はいつものように優しく鴉に接してくれた。
「あんまり幽ちゃんをいじめたらあかんで」
そう言おうと決意していたのに、結局言い出せなかった。
「……悩みがあるんやったら僕が聞くけど」
さりげなく、何事にも気がついていないという風に代わりの言葉を言う。千景は無言で見つめると、不意に口角をあげる。
「じゃあ、ひとつ頼まれ事をしてくれるか。鴉にしか頼めない」
あの笑顔はひどく冷たかった。だがその言葉だけで、あの空っぽな言葉だけで鴉は簡単に満足してしまう。このときだけは自分が千景を独占できるのだから。
「……ええよ」
自分は間違いなくおかしい。あのとき千景を止めなかった理由も、あの言葉を言えなかった訳も本当はわかっているのだ。
自分は幽に――
「……お」
そのとき家の裏手に一台の車がついた。車から出てきた身なりの良い男と屋敷の女房が何か言葉を交わした後、男のほうは素早く車へと戻っていく。貴族の夜遊びか方違えかのどちらかだろうか。鴉が身を乗り出して見ていると、再び男が現れる。しかし、今度はもうひとりの人物を連れていた。頭から布を被いているためその性別はわからない。ふたりは隠れるようにして屋敷へと入ると、迷わず奥へと進んでいく。ここの姫はまだ子どものようだから夜遊びではないはずだ。ならば方違えか、と車に目をやるも、動く気配すらない。どういうことだ、といぶかしんでいると、にわかに屋敷が騒がしくなった。どうやら件の男を屋敷の女房たちが見送っているようだ。屋敷中の女房がいるのではないか、というほどの人数に、男がただ者ではないと鴉にもわかる。それにひとりだけが帰る、というのは方違えでもない。急いで簡単な文をしたためると近くにいた大烏の足にくくりつける。
「千景くんに」
そう言って烏を送り出すと、彼自身も屋根から飛び降りる。牛車を追うのではなく、どこに向かうのか、どこの誰なのかをはっきりと見極めるためである。だが、こんな夜更けに訪ねてくるほどの人物である。簡単にしっぽを掴ませるようなことはしなかった。何の特徴のない、普通の牛車。からからという乾いた車輪の音だけを残し、それはどこかへと行ってしまった。
「なんやぁ、あれ」
通りに出た鴉はその後ろ姿を見送る。考えてもわからない。考えることは千景のほうが得意だ。ならば彼に任せるしかない。鴉は首を傾げながら、定位置へと戻っていった。
次回は10月13日投稿です。次回もよろしくお願いします。