第百十九話
夜になった。季節は真冬。骨身にしみるような寒さの中、うろうろとしている者など白菊を除いてどこにもいなかった。件の屋敷には今宵は門番さえいない。正直、その部分には拍子抜けしたが、楽に侵入できそうだ、とにやりとする。
白菊は辺りを見回してみたが、何もない。門から正面突破、というのはさすがの白菊でも気が引けた。もしかしたら門のすぐ内側に見張りがいるかもしれないと思ったからだ。仕方なく屋敷の裏手に回り、それほど高くはない塀を睨む。そして、えいっと飛び跳ねて手をかけた。腕の力だけで体を持ち上げるのはやはり難しく、数分かかってようやく塀に腰掛けることができた。あとは、持ち前のしなやかさで何とか地面へと飛び降りる。思っていたより簡単に侵入できたことに満足していると、人の声が聞こえてきた。
「何か物音がしなかった?」
「ねずみかしら」
「やだ、追い払わなきゃ」
どうやら門番ではなく、この屋敷に仕える女房たちのようだった。すっかり寝静まっていると思っていたがそうではなかったらしい。白菊は手頃な茂みを見つけると、そこで無為の時間を過ごすことにした。女房たちのささやかな足音がすっかり聞こえなくなるまで半刻ほど。ようやく白菊は活動を始めた。
体についた葉を払いながら立ち上がると、母屋の周囲を注意深く歩いてみる。結構な大きさの家だ。これではどこに緋童子がいるのかわからない。そう簡単にいくとは思っていなかったが、思うように進まない展開に唇を噛んでしまう。
しばらく様子を窺ってみたが、物音ひとつしない。緋雨、と声をあげるわけにもいかず、苛立ちだけが募っていく。
「かくなる上は」
母屋へと上がり込んだ。職業柄、物音を立てずに移動することは得意である。早いところ見つけ出して、ここから去るべきだ、と白菊は自分を奮い立たせて屋敷の中を探索し始めた。
「……奥かしら」
忍び足で廊下を歩く。灯りのついている部屋はない。辛うじて利く夜目をこらして、慎重に深部へと歩を進める。
「……そこで何をしてる」
背後から少女の声が聞こえた。一瞬、幽のものかと思ったが微妙に高さが違う。少し幼い印象を受ける。ならばこの屋敷の人物だな、と白菊は足を止め、小さくため息をつく。姿を見られているので逃げられない。声をあげられたらきっとすぐに捕まってしまう。白菊は仕方なくゆっくりと振り返った。
そこにいたのは夜着をまとった十ぐらいの少女だった。侵入者に対する怯えの表情はなく、どちらかというと不機嫌そうだった。起こしてしまったか、と内心舌打ちをする。しかし、年端のいかぬ少女を傷つけることはできないので、この場をどう切り抜けるか白菊は考えを巡らす。
「見ない顔だな、新入りか」
その不遜な物言いからして、彼女はこの家で主の一族に名を連ねる者に違いない。昼間、姫様と呼ばれていたのは彼女だろう、と確信した白菊は恭しく膝を折る。
「申し訳ありません、姫様」
すると少女は盛大に舌打ちをした。そして音も立てずに、しかし素早く白菊の目の前まで歩いてくる。そして白菊が床についた手をその小さな足で踏みつけた。
「教育がなってないようだな。僕のことを『姫』と呼ぶなと教えられなかったか?物覚えの悪い女だな」
だが、白菊は手を踏みつけられても声ひとつあげない。ただ、申し訳ありません、と落ち着いた声で返すだけだった。それを面白く思ったのか、少女は加虐心に満ちた笑みを浮かべて、白菊の顔を上げさせる。
「賊、だな。お前からはこの家の匂いがしない。それにこの家の女房はこんなに綺麗な顔をしていないからな……何が狙いだ?欲しいものがあれば何でもやるぞ」
「……なんだ、ばれてるじゃない」
白菊はようやくため息をつく。彼女の足の下から手を抜き去ると、垂れた前髪をかきあげる。
「賊と言われるのは心外だけど、確かにこの家に欲しいものがあるわ」
「ふーん……僕?僕を盗むか?」
「悪いけど姫様には興味はないの、ごめんなさいね」
そう言うと先ほどまでは上機嫌だった彼女の顔が、急に不愉快そうに歪んだ。本当に姫様扱いが気にくわないらしい。
「次言ったら必ず殺す」
「そんな言葉を女の子が使ってはなりませんよ。もっとお上品にしてなきゃ」
更に険悪な表情になる。白菊としては軽い嫌がらせのつもりだったが、どうやら彼女の逆鱗に触れたらしい。自分自身のやりすぎを反省しつつ、何をされてもいいように身構えていたが、急に苦しそうな声を漏らして、少女はお腹を押さえながらうずくまった。この機会に退散しようかと思ったが、何か様子がおかしい。
「る、瑠璃子さまぁ」
泣きそうな顔をした少年がいつの間にか彼女の側にいた。その少年を少女――瑠璃子が睨みつける。
「僕に構うな!!」
「で、でも」
「うるさい!!男のくせに……うっ」
瑠璃子は何かを言いかけてから、口元を押さえて吐き気を堪える。その様子を見て白菊はようやく事態を察した。
「……月の障り、か」
彼女の年齢ならあり得ない話でもないな、と白菊はひとりごちる。おそらく初めてかそれに近いのだろうと思うと、放っておくこともできない。自分はつくづくお人好しだなぁ、と白菊は逃げるのをやめ、彼女を介抱しようとした。だが、伸ばした手は少年のものと同様、激しく払いのけられる。
「僕に触るなと言っただろ!!人を呼ぶぞ。捕らえられたくなければ疾く失せろ」
「……なに意地張ってるのよ。部屋まで連れて行ってあげるわよ。こんな子どもを捨ててどこかに行くほど落ちぶれたわけじゃないのよ。部屋まで連れて行ったら忠告通り今日は逃げるわよ……探し物も見つかりそうにないし」
ぺろっと舌を出す。そんな白菊を瑠璃子は憎らしげに睨むが、それを無視して彼女の軽い体をひょいと持ち上げる。そして主の側でおろおろとしている少年に声をかける。
「この子の部屋はどこ?」
少年がいきなり現れたことを考えると、彼はおそらく『宿』だ。そして白菊が今抱いている瑠璃子は『守人』のひとり。幼気な少女がそんな役割を負っていることに、同業とはいえ少なからず心を痛めてしまう。少年のほうも、椿や沙羅とはまとう雰囲気が異なる。どちらかというと緋童子に似ている。つまり瑠璃子は
記録者の立場か。
ここまで考えると白菊にはひとつのことが思い出された。
「……あなた、まさか美濃でうちの者たちと会ってない?」
美濃で子どもの記録者に会った、と芳乃と夏目が言っていた。彼女の名前は瑠璃子。そして少年の『宿』が彼女に仕えていたという。これは偶然ではないはずだ。
白菊の問いに、はじめは怪訝な顔をしていた瑠璃子だったが、思い当たる節があったのか、やがて青白い顔でにっと笑う。
「もしかしてお姉さんは六波羅の記録者?お兄さんたちは元気にしてるの?」
「……やっぱり」
先導する少年について行き、瑠璃子を寝かせる。別に彼女が美濃で何をしたかなど、今更問い詰めることもない。もう終わったことだ。それにもう六波羅のことは白菊には関係ない。離れる決意をしたのだから。互いにそれ以上は美濃の話をせず、白菊は瑠璃子の忠告通り立ち去ろうとする。
「……お姉さんさぁ、探し物があるんでしょ。見つかるまでここにいていいよ」
瑠璃子は天井を見つめながらそう言った。白菊が真意をはかりかねて振り向くが、彼女はじっと一点を見つめている。
「どうせしばらくはここにうちの男衆は来ないからね。それまでは僕がこの家の主だもん。僕がいいと言えば何でもいいことになるから女房たちにも言っておいてやるよ」
そこまで言うと瑠璃子はぎゅっと顔を歪める。
「僕はこれからどんどん女になっていく。面白いこともできないまま穢れていくんだ。これが最後……基氏が来れば僕は二度と外に出られない」
ようやく瑠璃子は白菊と目を合わせた。
「僕の命令だ。ここにいろ。最後に僕を楽しませるんだ」
「……なんて生意気なの、この姫君は」
だが、その好機に白菊は微笑むことしかできなかった。
次回は9月29日投稿予定です。次回もよろしくお願いします。