第百十八話
「……で、そのまま帰したのか」
芳乃が、信じられないというような、呆れた表情で夏目を見ていた。それに彼はむっとする。
「『白龍』様がそう仰るのだから仕方ないだろ」
「せめてどこに行くのかぐらい訊けば良かったのに……」
渋い顔をする芳乃に、更に渋い顔をする夏目。その間で沙羅はおろおろとしていた。
「で、でも相楽様がお元気になられたことは良かったではありませんか。あれだけ頑なだった丞様もここまで連れてきてくださったことですし」
それは主の『白龍』直々の命があったからだ。その実、『白龍』が六波羅から去った後、夏目が話しかけても無視するし、『白龍』と去った白服の童男童女を探し回って帰ってきた沙羅がぎょっとして悲鳴をあげても眉ひとつ動かさなかった。仕方なくここにいる、という気配を隠さず、少しでも近づこうものならこれでもかというほど威嚇してきた。丞の相変わらずの態度に笑うしかなかった。
そして、任務を終えた丞はさっさと『白龍』のもとへと帰ってしまった。だが、先日の戦闘においての、任務外の仕事であるはずの加勢は、沙羅が言うように六波羅への態度が軟化していることの証拠なのかもしれない。
「その……『白龍』様からの忠告、時氏くんには伝えたの?」
深刻そうな声音だった。椿の顔色はいつになく暗い。つられて夏目の気分も重くなった。
それは時氏の死を予感させるようなものだった。しかし、あれは『白龍』から時氏へ向けた唯一の言葉だ。夏目自身も迷ったが、結局伝えることにした。夏目が時氏の知らぬうちに『白龍』と会っていたこと、そして里桜の頼みとは言え、『白龍』が夏目の治療に一役買っていたことに時氏はかなり驚いていたが、その伝言自体には特に反応を示さなかった。
「あの方がそう言うなら私は無茶をしているし、その結果死ぬのでしょう。結構なことです」
ただその一言だけだった。どうしてそんなに達観しているのか、と思ったがあまりの静謐さに何も言うことができなかった。
「何故『白龍』様はそのようなことを……」
沙羅が呟くと、道忠がため息をついた。
「『白龍』様は時氏様を大事に思っているからだろ。北条家にはひとつの伝承がある。北条家が家紋にしている三ツ鱗は大蛇の鱗で子孫繁栄の願いがあるが、蛇の天敵である龍には決して勝つことができない、というものだ。力を持たない時氏様はこれ以上首を突っ込むな、ということだろう。そして……これは『白龍』様自身の願望でもあるのだろうが、自分のことを求めるな、とも言いたいんだろうな」
龍には勝つことができない蛇の北条。道忠の言葉に背筋が凍る。今の六波羅には夏目も芳乃もいない。もちろん、他の武士のことを信頼していないわけではないが、それでもやはり自分がいない間に時氏に何かがあったら夏目は後悔してしまうだろう。そんな不安が顔に出ていたのか、沙羅がそっと手を握ってくる。彼女の顔も同じように曇ってはいたが、そんな様子を見るとしっかりしなくては、と少し気を落ち着かせることができた。
「とにかく、なるべく早く帰ろう」
そう言うと芳乃も頷く。ただ、ななりは風早が治るまでは帰ることはできないと言った。
「その代わり、ななりには新たに作った『龍の鱗』を持たせる」
先日、香月に奪われた『龍の鱗』は今、新しく桜桃が作り直しているところらしい。ただ、丹羽に仕掛けた毒の鱗のような粗悪なものではなく、純度の高い、優れたものを生成しているため時間がかかるとのことだった。風早が寛解するまでにはできあがるとのことだった。
「俺たちに預けてもいいのか」
芳乃の問いに、道忠は仕方なさそうにため息をつく。
「礼と言っては何だが……もう必要ないかもしれないが、『鱗』があれば何かと安心だろ。それに万が一のことが時氏様に起きても、死んでいない限りは『鱗』が使える。お守りみたいなものだ。だからといってむやみやたらに使おうとするなよ」
「すまない」
夏目と芳乃は居ずまいを正し、頭を下げる。道忠は一瞬、むずがゆそうな顔をしたが、満更でもないようだ。すぐに口元をほころばせた。
●○●○●○●○●○
すっかりふさぎ込んでいる白菊のもとに、ひとつの文が届いた。
――緋童子は以下の屋敷に在る
そこに描かれていたのは地図だった。流れるような字で書かれたそれは、ある貴族の家を示しているようだった。差出人の名はないが、緋童子を捕らえているのはあの橘、もとい平千景だ。きっと彼からだろう。だとすれば、また何かの罠かもしれない。馬鹿にされていると感じた白菊は文をくしゃくしゃにしてた。
白菊の旦那である葉月との関係は急激に悪くなっていた。いや、悪くなっているのではない。心配した葉月が時折様子を見にやってくるのだが、一方的に白菊が拒絶しているのだ。何もやる気が起きない。誰にも会いたくない。そういう状態が続いている。澪も拉致されて以降、ここには戻ってきていない。早くこの状況を打破したいが、未だに六波羅からの助け船も出ない。吉岡邸で完全に白菊はひとりだった。
「……だまされてみるのも一興かもしれないわね」
しばらくすると、ここから逃げ出したいがそのきっかけがなかった彼女にとって、この手紙はある意味助け船のようなものかもしれないと思い始めた。どうせ居場所のないここに未練はない。葉月は本気で白菊のことを好いてくれているようだが、白菊自身は葉月のことを好ましくは思うもののそれは友情のようなものだ。なので、出て行くことは簡単だ。この手紙に従って、何か万が一のことが起きたとしても、今の白菊には受け入れることができる。何もなければ緋童子に会えるかもしれないし、罠などなく、無事帰ることができれば、暇を乞うことにすればよい。そうして緋童子とふたり、田舎へと帰るのだ。自分にも落ち度があるため千景への報復など考えてはいない。もうこりごりだった。
数日後、白菊の姿は指定された家の前にあった。市女笠を被った彼女を見とがめるものはいない。虫の垂衣で隠れた表情を窺うことはできない。
門の向こう側からはかすかに声が漏れてきていた。その中に混じる衣擦れの音や軽快な足音。姫様、と慌てたような声も聞こえてくる。その日常の音に白菊は久しぶりに和やかな気持ちになった。
「ここに緋雨がいるかもしれないのね」
どういう状態なのかはわからないが、もし無事であるならば、このような穏やかな場所にいられることは彼にとっても良いことなのかもしれない。少し安心してその場を離れた。
日中に屋敷に侵入するなど考えられない。事情を話したところで怪訝な顔をされるのが関の山だ。運が悪ければ通報されるかもしれない。夜間、ここの者たちが寝静まっているうちに事を決行するのだ。
「緋雨、あともう少し辛抱してね」
白菊はそっと手を合わせ、神仏へと無事を祈った。
次回は9月22日投稿です。次回もよろしくお願いします。