第百十七話
芳乃の要請で、ななりが太宰府へと旅立った後。夏目は相変わらず高熱にうなされていた。すっかり体力を消耗してしまったらしく、もうひとりの夏目も宣言通り姿を現さなくなっていた。時折、澪が世話をしに部屋を訪ねてくるが以前のように言葉を交わすこともなくなった。その様子を見ながら、沙羅は芳乃と椿、そして旅立ったばかりのななりが少しでも早く帰ってくることを祈るばかりであった。
その夜はひときわ静かな日であった。憐れむような月明かりが夏目のいる部屋へと射し込んでいた。
世話係の澪は夜には休む。彼女の代わりに夜間に夏目の側にいるのは、『宿』である沙羅だ。人ではない彼女は、人のように疲れることはない。そのため、夜間は彼女が看病することになっていた。
だが、この日は珍しく彼女の姿も夏目の側になかった。
というのも、庭先で白い服を着た童男童女を見かけたからだ。じっと見つめてくる彼らをいぶかしみ、沙羅は少しの間だけ、と席を外したのだった。
「私も若い頃に疱瘡にかかりましてね。それはまぁ随分と周りは慌てふためいていましたよ。私が死ぬ前に後継の話を会議するぐらいにはね」
その機会を狙っていたかのように、不意に耳元でそんな声が聞こえた。やけにはっきりと、頭に直接響くように聞こえた声に、夏目もうっすらと目を開く。そして、声の主を探すべく、目だけをうろうろと動かした。
「目が覚めましたね」
声の主はすぐ隣に座っていた。まるで元から自分の席だったように、堂々としている。まだ若い男だった。薄藍の狩衣に淡く光る銀の髪。白い頬には小指ほどの傷跡が走っている。糖蜜色の目をした男は夏目を穏やかに見守っていた。
「……あ」
熱でぼうっとする頭で何気なく彼の姿を眺めていたが、ようやくその正体を悟った。
総銀髪の青年は人差し指を唇に当て、静かにするように夏目に命じた。
「みなが起きてしまう。じっとしていなさい」
優しいが有無を言わせぬような声音に、さすがの夏目も素直にそれに従う。というより、抵抗する力もなかった。青年はふっと笑うと、ぐったりとしている夏目の右手を取った。
「あなたは、まさか」
それだけを絞り出す。夏目の言いたいことはわかっていると言うように、青年――『白龍』は静かに頷いた。
「人の命数は定まっています。それを調整することはしたくありませんが……じゃじゃ馬姫がどうしても、と言うので。あなたを助けないと私には絶対に従わないと言うのですよ。仕方ありません」
じゃじゃ馬姫、というのはおそらく里桜のことだ。彼女は橘屋敷での一件の際、急に現れた丞によってどこかへと連れ去られたはずだ。だが、丞の主は『白龍』。里桜が『白龍』の元へと行ったのは少し考えればわかることだった。
『白龍』に握られた右手から、次第に痛みが取れていくのを感じた。同時に、全身を支配していた倦怠感も薄れていき、頭も霧が晴れたようになっていく。相変わらず『白龍』は淡く光ったように見えるが、それは夏目のために力を使っているからだった。つまり、『龍の牙』によって受けた傷と呪いを治しているのだ。この傷を治癒することができるのは、芳乃たちが赴いた太宰府にある『龍の鱗』だけではない。再生を司る『白龍』にも為せることだった。
「さて、こんなものですか」
そう言うと、『白龍』はそっと手を離した。包帯を外してみると、掌に走った真一文字の傷はどこにも見当たらない。赤くなっているわけでもなく、綺麗に消えていた。間近でその業を目の当たりにし愕然としていると、『白龍』はやれやれというように立ち上がった。
「お待ち下さい!!」
夏目はとっさに袖を引っ張る。『白龍』は睨むでもなく、その行為に憐れむような視線を送った。
「里桜君との約束は果たしました。その手を離しなさい」
「しかし……」
『白龍』は嘆息すると、夏目に向き直り、再びその場に腰を下ろした。
「時氏君には捕まりたくないんだよ」
『白龍』はちろっと赤い舌を出す。確かに時氏に一度会えば、少なからず拘束はされるだろう。長年捜していた人がようやく現れたのだ。捕まえる以外に道はないだろう。そうされたくない、という気持ちはわかる。だが、ここで『白龍』が去っていくのを黙って見ているのでは時氏の苦労が浮かばれない。夏目は必死に食い下がる。
「何故ですか?時氏様は、いえ、時氏様だけではなく、みながあなたのことを」
「知っているよ、そんなこと」
拍子抜けしてしまうほど、実にあっけらかんとした物言いだった。夏目が困惑しきった様子で二の句を告げられずにいると、彼は何故か面白そうに笑った。
「好きとか嫌いとかそういう次元の話じゃないんだよ。私は生きているはずがない人間なのだから」
「……わかりかねます」
『白龍』の言いたいことは何一つ夏目にはわからなかった。ただ、目の前にいる『白龍』と時氏に何らかの因縁があるのだろう、ということだけは察することができた。それが何なのかは全く見当がつかない。そもそも時氏自身は当代の『白龍』とは会ったことがないはずなのだ。彼の不思議な言動に夏目は首を傾げるしかなかった。
「ではね、単刀直入に言おう。会いたくないんだ。ただそれだけだよ」
「それだけ……ですか?」
ぽかんとしていると、『白龍』は更に笑みを深める。
「私は言わば過去の亡霊なのだよ。亡霊は今を乱すことはできない。『白龍』として事が進んでいくのを黙って見ていることが一番正しい在り方だからね。だから積極的には君たちに味方することもできないし、それは君たちの敵にも同じことが言える」
「……わかりません」
苦い顔で『白龍』を見つめると、彼は声をあげて笑った。
「わからないかぁ。いいよ、素直な子は好きだ。時氏君にも君みたいな可愛いげがあれば良かったのになぁ」
そして、時氏のことは好きか、と訊ねた。夏目が頷くと『白龍』は満足そうな顔をした。
「それでいいんだ。君は時氏君によく仕えなさい。あの子ひとりではできないことがたくさんある。だけど、君のような若い子が側にいれば心配ないさ」
そして、彼は今度こそ退去するために立ち上がった。
「君は人の死を恐れているんだろう?その優しさを忘れてはいけないよ。さもなくば私のようになってしまう。私は――」
『白龍』は何かを言いかけたが、結局途中でやめてしまった。あらぬほうをみてふっと笑ったのだ。その目は何かを懐かしむようで、同時に誰かを憐れむようなものだった。
「じゃ」
「……また、会えますでしょうか」
部屋を出て行こうとする『白龍』に、夏目は声をかける。夏目としては、彼を引き留めたかった。何としても時氏に会ってもらいたかった。しつこさに気が変わらないか、と一縷の望みをかけたが、それはあっさりと打ち破られた。
「会いたくないね。でも、遠からずまた会うことになるだろうね。もうそろそろ、私に与えられた仕事の時間、な気がするから」
じゃ、と『白龍』は手を振った。そのまますたすたと歩き去ろうとしたが、途中で立ち止まる。そして、くるりと振り返った。
「その忠義心に免じて、時氏君にひとつだけ言葉を残そうかな。伝言を頼まれてくれるかい?」
そう言うと、それまでの穏やかな笑みが嘘のように冷たい表情になった。
「あんまり身に余ることをしていれば、死ぬよ。君は普通の人間だ。無茶をしていると龍に食われてしまうぞ」
不吉な予言めいた言葉に夏目はぞっとする。どこからともなく現れた白服の童男童女に柔らかい笑みで声をかける『白龍』をもはや止めることもできず、夏目は自分の不甲斐なさ、そしてこれから起こるかもしれないことに不安を感じていた。
「あ、忘れてた。君にはこの子を貸してあげるよ。体力が戻ったら太宰府に連れていってもらいなさい」
満面の笑みの『白龍』の後ろには渋い顔をした丞が立っていた。夏目と目が合うと盛大に舌打ちをする。
急な事の展開に夏目は目を白黒させるしかなかった。
次回は9月15日投稿です。次回もよろしくお願いします。