第百十二話
「香月……!!」
千景の一味だったか、と芳乃は唇を噛む。そうなれば、丹羽と呼ばれたあの大男もそうであるに違いない。道忠と桜桃は戦力にならないとして、ななりはほぼ戦闘不能。椿も香月の『宿』と交戦し、負傷した風早も丹羽と対峙している。今動くことができるのは自分だけだった。無意識のうちに舌打ちをしてしまう。
「わざわざ俺たちを追いかけてきたってことかよ。『牙』は諦めたのか」
「諦めたというか……千景は鴉を『牙』の所有者にしたかったようだが失敗したし、丞がついているならわざわざ火の中に飛び込むことはない。我々とて命は惜しいからね。それに、どこに行ったかわからないものを探すよりも確実なところを攻めた方が良いだろう?」
芳乃はもう一度舌打ちをした。まるで、千景はこちらの戦力が二分されるところまで想定していたかのようだ。夏目が倒れる原因となった傷は千景たちがつけたもので、結局それがもとで芳乃とななりは太宰府まで来ることになった。あの橘屋敷でのことも、六波羅が譲り受けた『龍の鱗』を奪取する作戦の一部だったならば本当に嫌な奴だと顔をしかめる。あの一件で自分たちがどう転んだとしても、自分たちだけが痛い思いをしないで済むようにと入念に糸を張っていたのかと思うと、今すぐにでも京へと返って千景を殴りたいし、それに気づかなかった自分にも腹が立つ。今更どうしようもないことだが、悔しさがこみ上げてくる。
「……確実、とはなめられたものだ。確かに俺たちには力はないが、そこまで簡単に落とされるとは思っていない」
道忠は、怒りのこもった目で香月を睨む。
「欲しいというなら問おう。何故だ。何を望んでいる。返答次第では考えてやらなくもない」
「道忠!!」
思ってもみなかった彼の言葉に芳乃は目をむく。それもそうだろう。少し前までは『鱗』を守ってくれとななりに託したのだ。六波羅という、外敵の手の届かないところで、もし仮に手を出されても守ってもらえる場所で保管しておいてほしいと言ったその口で、敵に対して芳乃たちに最初に言ったことと同じ事を訊ねているのだ。何としても千景たちの手に『鱗』を渡らせたくない芳乃は焦って道忠の腕を掴む。
「何言っているかわかってるのか!?そいつらはまともじゃない!!お前の望むような形には」
「勘違いするな。俺が一言だって六波羅につくと言ったか?利用するだけだ。お前たちだって俺を利用しようとしただろう?」
「なっ」
「自分たちだけが絶対的な善だと思っているから西国は未だ幕府に膝を折らないんだ。六波羅、鎌倉……そういう言葉はここでは、そして俺の前では何の免罪符にはならない。この女が、俺の納得がいくような答えを出したときには……返してもらう」
そう言い切った道忠の目は実に冷たいものだった。いつものような冷めた目とは違う。どこか千景の目に似ているそれは、普段隠していることが出来ない好奇心や底にある優しさを失っていた。それに芳乃は思わずぞくりとした。そして無意識のうちに桜桃を見やる。彼女もまた、目を丸くはしていたものの、特には変わった様子はなかった。唖然とする芳乃の横で、香月はくすくすと笑う。
「随分とものわかりがいいじゃないか」
「兄さん!!」
悲鳴じみた声の主は、丹羽と刃を交えている風早だった。風早は迫る丹羽を避けつつ、道忠に向かって叫ぶ。
「兄さんはお嬢をだましたって言うのか!?お嬢まで利用しようとしていただけだなんて……俺は許さないぞ!!」
その言葉にややばつが悪そうな顔をしたのを彼は見逃さなかった。あの、芳乃とは決して交わろうとしなかった頑固者の道忠とななりが交流を持っているのは知っていた。何だかほっとけないのよね、と彼女が漏らしたのを聞いたことがある。そのことをななりの親代わりである風早は寂しくもあったが、やはり嬉しく思っていたほどだ。桜桃も彼女のことを気に入っている様子であったし、道忠も彼女のことを信頼して『鱗』を託したのだと、ならばその信頼に応えなければと考えていた。それを裏切るような発言に、風早が憤るのも無理なかった。
「よそ見とは良い度胸だな」
「ちっ」
丹羽の薙刀が風早の眼前をかすめる。慌てて飛び退ったが、限界が近く膝をついてしまう。風早自身は足を負傷しているため相手の薙刀を避けるのが精一杯。そもそも風早の武器は動きやすさと軽さを重視したもので、脇差ほどの長さしかないのだ。体格の差も相まって、攻撃が届く範囲が違いすぎるのだ。風早は思うように動くことが出来ず、防戦の一方だった。
ちらりとななりを見ると、彼女はようやく体を起こそうとしているところだった。大事には至ってないようだ。風早は安心すると、再び丹羽を見据える。
「芳乃の兄さん!!ななりのこと頼みます!!」
「か、風早……!!」
風早は立ち上がると、再び二本の刀を構える。今度こそ彼はやる気だった。それを感じ、芳乃は息を呑む。
「芳乃!!ななりちゃんを!!」
朱に捕らわれている椿が叫ぶと、そのまま芳乃は走り出した。
「―――!!」
どこからともなく声とも言えない音が聞こえてきて、芳乃の体は硬直する。それは朱が発したものだった。彼女はまともに話すことは出来ない。だが、その呪が武器だった。
香月は満足げに微笑むと、中断された話の続きを始めた。
「我々が望むのはただ生き残ること」
「ほぅ」
依然、道忠の眼光は鋭い。だが、それを泰然と香月は受け止めていた。
「我々は平家の流れを汲む一族だが……執拗な狩りで散り散りになってしまった。仲間を守るには力がいる。しかし友のために暴力的な力を求めることはない。私は在俗とは言え尼だ。私は人を救う力が欲しい。友も、全国に散ったまだ見ぬ仲間のために」
そう言いながら彼女はゆっくりとななりに近づく。道忠はいぶかしげにその動きを注視していた。
ようやく地面から状態を起こしたななりは、きっと香月を睨むが効果はない。逆に、前髪をむんずと掴まれる。
「どうして我々は救われてはならぬのだ」
「そんなの……いつまでも言ってれば良いわ。ええ、だってあなたたちは自分たちが救われることで頭がいっぱいなんでしょ。前なんか見てないんだわ」
ななりはそう吐き捨てる。さすがにこれは頭に来たらしく、香月はななりの頬をぶって、地面に転がす。
「お嬢!!」
盛り返しつつあった風早だったが、一瞬ななりと香月に気を取られる。
そしてその隙をつかれた。
「――取った」
無情な一閃だった。
風早は肩から腹のあたりまで切り裂かれた。悲鳴をあげることもできずに、その場に仰向けに倒れる。
「か、風早……!!」
地に転がりながらも、手を伸ばすななり。だが、香月は容赦なかった。自身の小刀で、ななりの手を地面に縫い付ける。
「私たちだって救われたいさ。夢を見たっていいじゃないか」
「……どうして」
いつもなら助けに来てくれる風早は傷を抑えて呻くだけだった。彼は人ではない。それ故簡単に死ぬこともないが、それはそれだけ苦しみが長く続くことを意味していた。ななりは自分のふがいなさに改めて涙が出てくる。
「千景が言ってたろ。私たちはお前たちのように綺麗に生きられないんだ。夢を見ることも叶わないなら……自分でやるしかないだろ」
「……おい」
道忠の顔は恐怖と不安で歪んでいた。
「わかった。あんたたちが話の通じない相手だってことはよくわかった……桜桃」
呼ばれた桜桃はこくりと頷くと、ななりの持ち物から『鱗』の入った箱を取り出す。ななりは抵抗するように身をよじったが、それで引き下がる桜桃ではなかった。箱を桜桃から受け取ると、道忠は香月に向かって投げた。
「やれるものならやってみろ。人を救うのは生半可なことではない……何なら俺が手本を見せてやるよ」
そして道忠は丹羽を指さす。
「お前の傷を俺が治してやるよ。それで証明が出来るだろ」
確かに丹羽は風早による軽い傷を負っていた。普段ならば気にすることのない程度のものだが、『龍の鱗』の効能を証明するには良い機会だと思ったのだ。
「傷も治るのかい。なんとまぁ、便利なものだね」
香月は言われた通りの分量を取り出すと、丹羽に手渡す。丹羽はもの珍しそうに『鱗』を太陽に透かして眺めていた。それはほんのひとかけらだが、きらきらと陽光を反射し、美しくきらめいていた。だが、すぐに飽きるとぽいっと口の中に放り込む。
「――朽ちろ」
そう道忠が呟いた瞬間、突然、丹羽が泡をふいて倒れこんだ。
次回から2週間ほどお休みさせていただきます。次回は8月4日の予定です。次回もよろしくお願いします。