第百十話
信じられない、と顔全体で訴えるななりに舌打ちをすると、道忠は自分の頭をぐしゃぐしゃとかく。
「これがのめないなら渡すことは絶対にできない」
「なんだっていきなりそんなことを言うんだ?一体どういう心境の変化だよ」
芳乃の疑問ももっともである。それでも道忠は渋面を崩さない。彼は少しでも早く用件を伝え終えたいのだろうが、芳乃とななりにしてみればさっぱり意味がわからないので、いちいち話を止めざるを得ない。察せと言わんばかりのをする道忠を桜桃が後ろから小突く。
「覚の妖怪じゃないんだからわかるわけないでしょ。きちんと話なさい。それが人にものを頼む態度ですか」
ちょっとした母親のようなものである。ぐぅと一言漏らすと、道忠は渋々口を開いた。
「新たな賊が出た……今度は女ひとりだ」
「女ひとり?」
素っ頓狂な声を芳乃があげると、彼はうるさそうにひらひらと手を振る。そして桜桃から聞いた通りのことを芳乃とななりに伝える。道忠と桜桃が今まで秘匿してきた『龍の鱗』をひとりの尼姿の女が暴こうとしていたという事実はふたりを戸惑わせるには充分だった。視線を交わす。芳乃の顔は見事に引きつっていた。考えたくはないが、芳乃かななりのどちらかについてきたのだ――それが橘か藤原かはわからないが、どちらかの家の者だと容易に想像がついた。
「つまり……『龍の鱗』を守れ、ってことか」
芳乃の言葉に道忠は頷いた。
「船は俺が手配しておく。夜のうちに出発し、ただちに六波羅へと持ち込んでほしい」
「……え、持って帰っていいの?」
今まで何を言われようとも渡そうとしなかった男の変わりように、ななりはただただ驚くだけだった。
「俺だってこんなことは本意ではない。ほとぼりが冷めたら、またこっちに戻してほしい……要するに一時六波羅で預かっててほしいってことだ」
「事情はわかったが……六波羅に『鱗』があったほうが危ないんじゃないか。狙ってるのはその女だけじゃない……というより、その女が何者なのかわからないが多分そいつの仲間は京にいる。『鱗』が六波羅にあると知られれば誰に何をされるか」
先の事件のあと、千景たちの噂は全く聞かない。どこにいるのか、何をしているのかもわからないのだ。だが、依然として六波羅のことを虎視眈々と狙っているに違いない。それに六波羅に『龍の鱗』が持ち込まれたと藤原側に知られれば彼らは黙っていないだろう。特に基氏の存在はやっかいだ。里桜の『牙』を狙って、橘屋敷に現れるほどの執着ぶりだ。さすがに六波羅にまで乗り込んでは来ないだろうが、千景たち以上に何をしでかすかわからない。
「それでもここにあるよりは幾分かはマシだ。ここには俺と桜桃しかいないが、六波羅はたくさんの武士を抱えてるだろ。それに少なくとも芳乃もななりもいる。それに夏目とかいうやつも回復するだろうから単純に考えても戦力は倍以上だ。ここにあるよりははるかに安全だ」
道忠の話も一理ある。
桜桃は本当のところはどうかわからないが、どう見ても道忠は非力だ。ここを襲われたらひとたまりもないかもしれない。それならば数で勝る六波羅に『鱗』を置いておいたほうがいいかもしれない。朝廷にもまだ力があるとはいえ、六波羅は幕府の出張機関にして朝廷の監視役。何らかのことをしかけてくるにしても、下手な手はうってこないだろう。
それに、と道忠は続ける。
「例え手を出されたとしても、俺と桜桃しか『鱗』の使い方はわからないはずだ。下手すれば、死ぬ」
この言葉はある意味六波羅を牽制するものでもあった。手出しをするな、ということだ。
「……今夜?」
おそるおそるななりが訊ねると、道忠はしっかりと頷いた。
「できるだけ早い方がいい」
「帰ってもいいの?」
その問いには道忠は答えなかった。微妙な顔つきで芳乃を見る。
「この中で一番足が速いのはななりだ。俺よりよっぽど頼りになると思うけど」
ななりには風早がいる。彼が本気を出せば誰も追い付くことはできない。まさに風だ。そしてそんな風早を制御できるのはななりだけだ。その点で、彼女は自分よりもこの任務には適任だと芳乃は推薦したのだった。
「なんだよ」
その間合いに芳乃は首を傾げる。
「俺は後からついていくのじゃだめか」
「いや、別に……ふたりのいいようにしてくれ」
「帰って欲しくないならそう言わなきゃ」
「違う!!」
明らかに様子がおかしい。芳乃は隣のななりを小突く。そこでななりは事のあらましを話した。賊の処遇はそもそもななりが始めたことだ。とりあえずの成果を見届けることなく、途中でどこかに行ってしまうのか、とこの間言われてしまったのだ。それにななり自身も、賊との取引がある。彼らの面倒を道忠ひとりで見ることは出来ない、ということだった。
「ななりがまたこっちに戻しに来たら問題はなくないか?」
「そっか」
六波羅に『鱗』が預けられる期間はまだわからない。一月、二月、もしかすると一年かかるかもしれない。そのときに再びななりが太宰府を訪れれば問題はないはずだ。
「それは……あいつらが納得するかどうか」
「俺たちは構わないぜ」
その声は件の賊のものだった。
「こんな片田舎にわざわざ中央のやつらが来るなんて何かあるんだろうな、とは思っていたが、仕事があるなら帰ればいいだろ」
「聞いていたのか」
道忠はそのことに気がついて渋い顔をするが、当の男はどこ吹く風だ。
「俺たちに大口叩くぐらいだ。さぞかし立派な仕事をしてるんだろ。なら俺たちの手前、やることはやらにゃならんだろ。別にあんたの監督がなくたって構いやしないさ」
ただ、と男は不敵に笑う。
「約束は約束だからな。あんたの言う通りこの坊ちゃんの手伝いはしてやるが何も実にならないようなら本当に売り飛ばす。京に逃げたってダメだぞ。京の方がここと比べて金目のものはたくさんありそうだしな」
「何にもなくて悪かったな」
そんな小声の嫌味は彼の耳には届かない。わけがわからない芳乃は賊とななりのふたりを見比べるだけだった。
「……ありがと」
「傷だけはつけるなよ。値段が下がるからな」
それだけを言うと男はその場をあとにした。ななりは少し戸惑ったようだが、遠ざかる彼の背を見て柔らかく微笑んだ。
「ごめんください」
表の方で女の声がした。いつものように自分を頼って誰かが訪ねてきたと思った道忠はおもむろに立ち上がった。
「……待って」
桜桃は道忠の袖を引っ張る。
「この声は……尼様?」
その言葉に芳乃とななりも立ち上がる。場の空気が一変する。明らかに緊張し、温度が一気に下がったようだった。
道忠は桜桃に素早く耳打ちをする。彼女はその意を察し、すぐに部屋から出て行った。それを見送ると、道忠は依然床の上に置かれたままだった小箱をななりに押しつける。
「このまま飲ませるだけでいい。頼んだぞ」
「待って!!」
「今、桜桃に残りの『鱗』を用意させている。風早を読んで準備しておけ」
「今から行くの!?」
急な展開にななりは当然混乱する。今夜、と言われたことだって急すぎてできるかどうか自信がなかったのに、今からなんてとてもじゃないができる気がしない。その重責に泣き出しそうになるななりの手をそっと道忠は握った。
「どうか守ってくれよな」
「風早!!」
芳乃の呼びかけに風早は音も立てずに現れる。
「今の話、聞いていたか」
あぁ、と頷く。
「お嬢なら俺に任せておけ。なんとしても六波羅まで連れて帰ってやるよ。それまで足止めよろしくな、兄さんたち」
風早はにっと笑って、ななりの腕を取る。そのときようやく、桜桃も戻ってきた。念のために場所を元のところから移していたようだ。余程急いでいたのか、大きく息をしていた。
「誰か、いますよね」
再び尼姿の女の声が響いた。
次回は7月7日午後8時投稿です。次回もよろしくお願いします。