第九十四話
夏目は沙羅の手をふりほどき、ふらふらと立ち上がる。沙羅が慌ててすがりつこうとしたが、それを睨んで制止した。
「なんだよそれ」
芳乃は顔をしかめると、夏目も更に険しい顔をする。暗い部屋の中で、ただ爛々と光る目が印象的だった。いつものようなきらきらとした金色ではない。赤みの混じった、まるで千景の目ような色だった。
夏目は芳乃の胸ぐらを掴むと、自分より少し背の高い芳乃をきつく睨みつけた。
「いつか、私と同じ目に遭わせてやる。覚悟していろ」
それだけを言うと夏目はその場にくずおれた。すぐに、沙羅が飛んでくる。今度こそ夏目は意識を失っていた。沙羅や椿の呼び掛けにも反応せず、ただ沙羅の腕のなかでぐったりとしているだけだった。
「……親父を呼んできてくれないか」
芳乃は隣で凍りついている澪に言う。彼女は呆然と夏目たちを見ていた。芳乃がとんとんと、肩を叩くとはっとした表情で彼を見上げた。その顔はすっかり怯えている。それもそうだろう。芳乃とて内心動揺しているぐらいだ。何の事情も知らない澪など、困惑を通り越して恐怖しているかもしれない。
澪に、旭の部屋への行き方を教えると芳乃は彼女を見送った。そして夏目の介抱のために部屋の中に入っていく。
「ひどい熱だな」
「……この寒いなか、しばらく外にいらしたのです。お風邪を召したのでしょうか」
沙羅が泣きそうになりながら訊ねたが、芳乃は首を振った。おもむろに、夏目の右掌を見る。依然巻かれたままの包帯は真っ赤になっていた。それを見て、沙羅は小さく悲鳴を上げる。
「多分これだ」
「これは……」
澪がつけた傷だ。沙羅と芳乃は顔を見合わせる。
そのことが彼女に知られたら、きっとまた澪は動揺するに違いない。困ったことになったな、と芳乃は再び眉根を寄せる。
ちょうどそのとき、部屋に旭と時氏が入ってきた。その後ろに小さくなった澪がおどおどとこちらを見ている。どうやら騒ぎを聞き付けて、澪が行くよりも早くこちらへ向かっていたようだ。
時氏は夏目を見ると、険しい顔をした。
「何故夏目がここに」
時氏は、澪と夏目のやりとりを知らないらしい。夏目はとうの昔に帰宅したと思っていたようだ。それに、ここは澪にあてがわれた部屋だ。女人の部屋に男がいることは普通のことではない。
事態を知っている沙羅が口を開く前に澪がその疑問に答えた。
「私がお願いしたことです。帰ろうとしていた相楽様を……その、心細くて」
「……まぁ、何もないならいいです。そういうことにしておきましょう」
「とりあえず芳乃と椿はここに残れ。他は出てくれ」
旭は例になく厳しい声で告げた。その静かな迫力に沙羅も何も言えず、代わりに寄り添った椿に夏目を任せると、部屋を出た。同じく閉め出された澪と目が合う。何が何やらわからない澪は怯えたような表情をしていた。
「少し……話をしましょうか」
沙羅がそう言うと澪はゆっくりと頷いた。
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「夏目はどうですか」
夏目を介抱する旭を後ろで見守りながら時氏は訊ねる。その声音はいつもより緊張したものだった。するといつの間にそこにいたのか、山吹が夏目の右手を持ち上げる。
「これじゃないかしら。ここから強い気を感じるわ」
「これは……」
どうやら旭たちも芳乃と同じ結論に至ったらしい。旭は時氏を振り返り、ひとつ頷く。それに時氏も応え、芳乃の前に座った。
「本来ならば、夏目とふたりでやってもらおうと思っていたのですが」
時氏はひとつため息をついた。
白菊のこと、澪のこと。もうすぐ年も明けるというこの時期に色々な事件が重なっている。心労もたまるというものだ。それに加えて夏目まで倒れてしまっては、ため息のひとつやふたつぐらいつきたくなるものだ。芳乃は主の心情をおもんぱかり、ただ黙って時氏を見つめ返した。
「君には太宰府に行ってもらいます」
「だ、太宰府……?」
筑前国、大宰府。
かつては『遠の朝廷』と呼ばれた地。その立地から、外交と西国の防衛を主な任務とした。
現在では朝廷と幕府の両方の機関が置かれており、昔と変わらず政治的要所であり続けている。しかし貿易を重視した平氏政権期には、より交易が盛んな博多へと外交・貿易の中心が移されており、また、政治的要所でありながら京から遠いということで、宮中の官僚の左遷先としてもよく知られている。
とはいえ、大宰府など芳乃にとっては初めての地であるし、そもそも京都以西には行ったことすらない。わけがわからないのももっともだ。
「大宰府には『龍』がいるのは知っているな」
「そ、それと夏目に何が関係あるんだよ」
ますます困惑して眉根を寄せる。だが、旭はいたって落ち着いていて、芳乃をなだめる。
「まぁ、話は最後まで聞け。そこにひとりの『司』がいてな。そいつが持っているのは『龍の鱗』と呼ばれるものだ。これは『万病を癒す薬であり、万病をもたらす毒である』と言われている……言いたいことはわかるな?」
つまり、大宰府にある『龍の鱗』を使って夏目を治癒しようという話だった。
夏目が受けた傷は『龍の牙』によってつけられたものだ。今も治らないことからもうかがえるように、あれは普通では治せないのだ。『龍の牙』は自衛のために過剰な呪いを身につけた、まさしく呪われた剣。澪には適性があったとはいえ、彼女自身も傷ついている。そんな『龍』の力によって受けた傷は『龍』の力をもって治すのが妥当。それが旭と時氏の判断だった。
芳乃はというと、少し迷った様子だったがしばらくすると意を決したようだ。
「ここから太宰府までどれくらいかかる」
「山陽道を使っても十日ほどかかるでしょう……しかし、移動に時間を割いてる暇はない、ですよね」
時氏の言葉に旭は頷く。
十日かかるのはある意味仕方がないことだ。鎌倉幕府が開いて以降、朝廷の存在する京都と幕府の本拠地である鎌倉を結ぶ東海道は整備されていた。しかし博多が元寇に襲われたことがきっかけで急造された筑紫大道が出来るまでは山陽道は積極的に整備されているわけではなかった。それに山陽道と西海道は陸続きにはなっていないため、その分時間もかかる。
それは芳乃もわかっていたが、夏目のことを考えると往復で二十日以上もかけるわけにはいかなかった。そう訴えると、旭は苦笑した。この状況、何もおかしいことはないので、芳乃はかちんときたが、彼が怒る前に旭が口を開いた。
「移動は風早に助けてもらえ。多少は移動時間も減るはずだ。だが、本当の難関は……『司』のほうだ。下手すりゃ一ヶ月以上かかるかもしれない」
「……ま、まぁ、自分が任されたものを貸してくれ、と言うわけだし、普通だったら抵抗するだろ。何とか説得してみるけど」
「説得、ねぇ」
その口ぶりは、初めから芳乃の説得などあてにしてないかのようだった。
「今の『龍の鱗』は菅公が大宰府に持ち込んだもの、と言われている。それを守っている男は俺が知っている中でもかなりの頑固者だ」
菅公とは昌泰四(九〇一)年で大宰府へと左遷された菅原道真のことだ。旭曰く、左遷されるときに彼をもっとも信頼していたと言われる宇多上皇から託されたものが『龍の鱗』だ。当時、藤原家が力をつけてきており、いくつかの遺物が都に集まっていた。それを憂慮した上皇は大宰府へと赴かんとしていた道真にひそかに渡し、道真は苦しく惨めな生活を強いられつつも藤原の手から『龍の鱗』を守り抜いたという。
「今の『司』は元々京に住んでいた貴族の子息だ。だが、都での暮らしに嫌気がさして家を飛び出したらしい。行きついた先が、自分が慕う菅公の左遷された地、大宰府というわけだ。そこで彼は『司』になった」
「こちらでも夏目を助ける策がないかを考えてみます。しかし今一番有効だと思えるのは『龍の鱗』です。桜庭君、行ってくれますね?」
芳乃は頷くしかなかった。いや、時氏から命じられなくてもそうするつもりだった。
「もちろんですとも」
そう言って、にっと笑った。
次回は2月24日午後8時投稿です。次回もよろしくお願いします。