第九十三話
「私はこれからどうなるのでしょう」
澪はぽつりと呟いたが、夏目は何とも答えられなかった。すぐに白菊のところへ帰ることができるわけではない。彼女自身も怪我を負っているからだ。ただひとつ言えることは、彼女の望む罰は与えられないということぐらいだ。
既に澪に与えられた小さな部屋へと戻ってきている。寝かされた澪の横に座る夏目がそう言うと、彼女は力なく微笑んだ。
「死を免れることができるのならそれに越したことはありません。私はただ、自分の行いに責任を持てないような中途半端なことをしたくないだけなのです。今回のことは完全に私に落ち度がありました。他にどう償えばよいのかわからなかったから……」
「いや、落ち度など」
鴉、と言っただろうか。
あの者の仕業なのだと夏目は確信している。吉岡邸の女中の証言からそう思っただけなのだが、芳乃の発言からも、鴉は千景の言うことなら何でもするだろうし、小柄な澪ひとりぐらいは拐かすこともできるだろう。本来、糾弾されるべきは鴉であり、千景であるのだ。澪が責任を感じることは何もない。彼らの行為が彼女を追い詰めたことにも怒りを感じていた。
澪だけではない。千景は初瀬にまで近づいていたのだ。初瀬の、あんなに嬉しそうな顔は見たことがない。異性が苦手な初瀬にも心を許せる人ができたのは喜ばしいことだが、それが千景であるということは大問題だ。これだけ対立しているのだ。当然、あの男を許せるはずもない。正直なところ、この問題の方が夏目の頭を悩ませている。
「……必ず私たちがそなたを守る。だからもう、変な気を起こさないように」
澪は小さく頷いた。どこまで彼女が気持ちを落ち着けたかわからないが、とりあえず今日のところは外に見張りでもつけていればいいか、と夏目は退出しようとした。
「……あの」
夏目が障子に手をかけたとき、澪が声をかけた。
「……ひとつ、お願いがあります」
振り返ると、澪は起き上がり、恥ずかしそうにこちらを見ていた。
「今日だけ……一緒にいてはくれませんか」
「……え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。だが、澪は顔を掌で覆い、顔を伏せる。
「お、お忙しいのは存じておりますが……ひとりでは心細く……き、今日だけでよいのです。わがままだとはわかっております。でも」
「……」
こういう経験は初めてだからどうすればいいか戸惑いを覚える。椿なら、この手のことは得意だろう。だが、ろくでもないことを言い出しそうなのは間違いない。唯一頼りになる沙羅も、今はここにはいない。気を利かせてどこかへと行っているのだ。
返事ができないまま立ち尽くす夏目を見て、慌てて澪は謝り始める。
「す、すみません!!困らせてしまいましたね……いや、いきなり言われたら困りますよね……すみません……今のは忘れてください……」
「……いや」
他の誰かに見張りを頼むよりも、自分がやった方が何かと都合がいいのかもしれない。そう思い直すと、夏目は少し離れた位置に座った。
「……何もしないから安心してほしい」
「何もしなさそうだから頼めたのですけどね……」
そう言うと、ようやく澪は笑った。つられて夏目もふふっと笑ってしまう。
「お寒くありませんか?」
「大事ない。もう休め」
本当は少し寒かったのだが、気にはならない。元々、彼女が寝つくまでは起きておこうと思っていたのだ。そのあとに上着か何かを羽織れば問題ないだろう。
しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら澪は寝てしまったようだ。夏目はそれに安心し、一度上着を取りに出ていった。そしてすぐに澪の部屋へと戻ってくると、ようやく夏目も眠りについた。
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澪はうっすらと目を開けた。
何かが聞こえたような気がしたのだ。
何だろう、と耳を済ませると、荒い息づかいと誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。恐る恐る体を起こすと、思わず目を見張る。
「相楽様!?」
部屋の隅で夏目が頭を抱えて倒れこんでいたのだ。小さく呻き声をあげており、時折痛みに耐えかねて床に爪を立てている。
すぐさま駆け寄ろうとしたが、澪ははっとした。彼の側にもうひとつの影を見たからだ。
それはひとりの女人だった。糖蜜色の目をした彼女は、綺麗な眉をハの字にして夏目に寄り添っている。今にも泣き出しそうな声で夏目の名をしきりに呼んでいた。夏目もそれに応えるように時たま手を伸ばすが、それはいつも空を切っていた。
「あの……」
澪が声をかけると、女人はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとした動きで澪のほうに目を向けた。
互いに言葉を発さないまま、見つめあう。
どのくらい時間が経っただろうか。彼女の瞳を見ていると、吸い込まれてしまいそうで、むしろ目が離せなかった。
「し……沙、羅……うっ」
夏目の苦しそうな声に彼女――沙羅ははっとする。一体彼女は何者なのだろうか。澪がいぶかしんでいると、ついに沙羅が口を開いた。
「私のことが見えるのですね」
その問いかけの意味がよくわからなかったが、とりあえず澪は頷いた。沙羅は心なしか顔を伏せ、一瞬眉根を寄せる。だが、やがて決心したように顔をあげた。
「今は説明している時間がありません。私のことを信用してください。私も相楽様のことを、貴女様と同じように大切に思っているのですから」
「……はい」
よくわからなかったが、そう返事をすると、沙羅も頷いた。
「では、桜庭様を呼んできては頂けませんか?本来ならば私が行くところなのですが、この通り、相楽様を介抱してますので」
「わかりました」
澪は急いで芳乃の部屋へと向かう。
芳乃の部屋の前に来ると、挨拶もそこそこに障子を急いで開ける。既に床に入っていた芳乃は驚いたようにこちらを見ていたが、澪の様子にただ事ではないと悟ったらしく、素早く立ち上がる。
「夏目だな?」
澪が頷くと、彼は隣にいた椿に先に行くように命じる。ここにも見知らぬ女人がいたのか、とあっけにとられる澪の横を、椿は何も言わず、風のように通り抜ける。気づいたときには、もう既に彼女の姿は見えなくなっていた。
「俺たちも行こう」
「えっ、あっはい」
夏目に寄り添う沙羅という少女、芳乃の側に控えていた椿という少女。自分が六波羅のすべてを知っているわけではないことぐらい承知していた。だが、さすがにこんな場所に女中以外の者がいるとは思っていなかった。一体あのふたりは何者なのか。澪は悶々としていたが、今は芳乃についていくので精一杯だった。
「さ、相楽様、しっかりしてください!!」
沙羅の焦ったような声が聞こえたかと思うと、椿が沙羅を叱咤するような声もした。だが、椿の声自体も焦りがにじみ出ており、どうやら思った以上に深刻な事態になっていることが窺えた。
「あ、あの……相楽様は一体どうなさったのでしょう?」
もしかしたら先ほど、寒い格好で庭に出っぱなしだったことが悪かったのかもしれない。風邪を引いてしまったのなら澪の責任だ。澪の気持ちもますます暗くなってしまう。
隣の芳乃の表情も曇っていた。ぐったりしている夏目を前にして、真剣に何かを考えている様子だった。
「親父を呼んでくる」
そう芳乃が呟いた瞬間、夏目がばっと顔を上げた。
澪は思わず息をのむ――夏目の目が金色に光っていたからだ。
「夏目……?」
「……芳乃、だな」
いつもの声音ではなかった。その声には鋭さが潜んでいた。
次回は2月17日午後8時投稿です。
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