I live in your eyes.
アリスのお姉さんのように優しくて優秀で美しい完璧な姉がほしかったし、ライラやおちゃめなふたごのように痛みと幸福を分かち合えるたったひとりの半身がほしかったし、ドロシーのようにお互いを認め合える仲間がほしかったし、ペペンシーきょうだいのように衣装箪笥の向こうへ渡ってみたかったし、ホームズやセーラのように無二の親友がほしかったし、数多溢れる少女漫画のヒーローのように、自分だけを永遠に愛してくれる恋人がほしかった。
でも、それはすべて過去の話だ。もっとずっと、わたしが幼い頃のこと。そんなのはすべて夢物語で、不老不死を得たがるくらいばかげた望みで、決して手に入らないものなのだととっくに理解できていた。それと同時に、どうして物語の中ではあんなふうに簡単に、何もかも打ち明けられる、そして同じだけ真摯な気持ちを返してくれる友達ができるのだろうと不思議になった。友達というのは、一緒にいる時間が長くても、多少の遠慮と気遣いが必要な存在のはずだ。困ったときに——そう、たとえばもし、家を失って身一つで途方に暮れたとき、あるいは家族とどうしようもない諍いを起こして家を飛び出したとき、玄関のチャイムを押して情けない顔をさらして、部屋にあげてくれないか、なんて頼めば心配しながらもこころよくきいてくれるような友達なんて、そんなほいほいできるものだろうか。苦しくてつらくてたまらないとき、何もできなくてごめんねって言いながら静かに抱きしめてくれる友達が? あるいはあんたってばかねほんとばかって怒りながら一緒にいてくれる友達が?
もしかしたら、世界のどこかにはそんな友情があるのかもしれない。わたしのすぐそばでだって、そんな奇跡は起きているのかもしれない。
でも、わたしにはいないし、きっと一生、そんな相手は作れない。
他人との間にある壁を打ち壊す勇気はないし、こちらからぶち破ったところで、向こうはなんて面倒なんだと壁を打ち直してしまうかもしれない。踏み出さなければ何にもならないというのは真理だけれど、踏み出せるだけの情報すら、わたしにはない。わたしに何もかも受け入れる素地がないのだから、相手に求めるのは酷というものだ。だから、わたしには薄い膜を張った磨り硝子越しに微笑み合う、平穏な友人しかいない。それで充分だ。少し淋しいけど、仕方がない。わたしはわたしなりに、そういう友情を愛しんでいる。あわい靄越しの世界はときどき息苦しく、基本的には過ごしやすい。
そういうふうにわたしはおそらく、そこらじゅうに溢れかえるほどよくいる女子高生として、生きてきた。
だけど、高校一年生の、冬。
わたしはひとりの恋人を得た。おしゃれなカフェで今度は泊りにいきたいねーなんて会話を交わすような、エレベーターの上で手を絡めながら戯れにひたいを合わせるような、ごくありふれた彼氏、だと、わたしははじめ、思っていた。まあ、そのうち向こうが飽きたら別れるんだろうな、とか。自然消滅するかもな、とか。話すことなくなって倦怠期になってやっぱり別れるんだろうな、とか。思い込んでいた。
愛情は、冷めるものだ。一瞬の輝きが恋の熱を燃え上がらせて、あっという間に溶けて消える。スマホのゲームと同じ。興味のひかれるイベントでもないと、余程じゃない限り、だんだん開きもしなくなる。
だけど、今フリーなら付き合って、とこのうえなく軽やかにわたしに告白してきた男は、その日一年経とうという今に至るまでの間ずっと、あれは演技だったのかというほど根気強くわたしに尽くし続けているのだ。
ののか、と弾んだ声が頭上に落ちる。仰向くと、やわらかく目尻を緩めた男が、わたし、四条ののかのことを見下ろしている。すらっと長い、というより大きい背をやんわりと曲げて、スラックスのポケットに突っ込んでいた手をこちらへ突き出してくる。瞬く間もなく、両手をそれぞれ、繋がれた。
「誠司」
「うん」
「これじゃ、振り向けない」
「いいよ、このままついていくから」
ほらほら進んで、と言われて仕方なく進む。なんだこれ。誠司はけっこう、意味が分からない。後ろから、ののか、ののか、とまた呼ばれる。わたしはまた、ぐうんと仰向く。
「マフラー、変えた? 前のより、あったかそう」
「ん? んん、そうだね。変えたよ。前のも使うけど」
「ふかふかそう」
「うん、ふかふかしてる」
「ののか、冷え性だから、気をつけないと」
「寒さに?」
「うん、寒さに。俺、カイロあるよ。使ってね」
「いや、いいよべつに」
悪いし。カイロ代も、ばかにならない。
マフラー巻いてコート着て鞄を肩に引っ掛けたわたしは、ちょうど帰るところだ。誠司は部活。今日は、誠司は居残りの日だ。まあまあ使ってよ俺の真心なんだよ、などとのたまう彼に背後をとられていると、なんだか不思議とあったかい。それから、えのぐのにおい、がする。誠司は美術部なのだ。わたしには何の絵具なのか分からないけど、誠司はいつも、そんなかんじの匂いがする。埃っぽい匂いも、たまにする。
「ののか、今日、尾白は?」
「んん? みっちゃん? 部活かなあ。なんで?」
「だってさ、それじゃ、ひとりで帰るんでしょ。大丈夫?」
「大丈夫だよ、何言ってんの。深夜でもあるまいし」
誠司は心配性だ。なんか、いつもわたしを心配している。そんなに気を配っていて疲れないのだろうか。人通りの少ない廊下を行き、階段を降りる。リノリウムの床を上履きがぺたぺた歩く音がする。わたしと、誠司、ふたりぶん。
ぺたぺた。
ぺたぺた。
二月に入ったとはいえ、まだ、夜が長い。五時を過ぎたばかりだけれど、窓の向こうは薄暗くなっていた。淡い影がもぞもぞと揺らめく。ひんやりと細い風がマフラーの隙間を縫って首許を刺す。
「誠司」
握られた手に、力を込めてみた。ぴくりと相手の手が強ばった。
「寒くない?」
訊ねると、ささやかな吐息が、後ろからこぼれるのが分かった。だいじょうぶ、とどこかしんみりとした声が返ってきた。どうしてそんなふうに、緊張のあとの安堵のように、どこか泣きたそうに、でもどうしようもなく穏やかな幸せを噛み締めるように、言うのだろう。わたしはただ、寒くないのか訊ねただけなのに。
「俺は今、すごくあったかい」
「セーターしか上着きてないじゃん」
「ののかと手ぇ繋いでるし」
ああ、へらりと笑み崩れる誠司の顔が、見えないのに目に浮かぶ。
「ののかが心配してくれたからね」
わたしは、んん、と適当に相槌を打った。いったい、それでどうしてあたたかくなるのだろう。シャツとセーターだけなのだから、誰にだって心配されるだろうに。ああ、でも、確かに。
握られた手は、あたたかい。
けれども、その温度は昇降口につくと失われた。解放された両手を一度見つめ、そして振り向く。誠司は微笑んでいた。このひとは、わたしを好きなのだ、と思わせる、そういう、こちらを平静でいられなくする笑みだった。靄がかったわたしの心のどこかしらが、きらめきに弱い女の子のように微かに疼く。
「ののか」
「うん?」
「ここには俺たちだけです」
「うん」
「ちゅーしてもいいですか」
見上げると、照れもせずに彼は一心にわたしの返答を待っていた。わたしは少しばかり呆れて、あのね、と文句を垂れようとして、でも途中で思いとどまって、いいよ、と言った。
ふわん、と誠司の顔がとろけた。
優しく肩を掴まれ、ひたいに押しつけられた渇いた感触を意識して、そして唇で求めに応じる。激しさをこらえた、バターをゆっくりゆっくり溶かす熱のようなキスだった。
それが終わるとおそるおそる、抱き寄せられる。ほーっ……と誠司の身体が弛緩していく、のを感じとる。どうしてだろう。こうやって触れ合うとき、わたしはいつも不思議に思う。どうしてこのひとは、こうも、わたしを大事に扱うのだろう。彼氏彼女なんて、いちゃついて喧嘩して苛々して和解して衝突して妥協して、ってそんなものだろうに。このひとは、わたしを傷つけないように、苛立たせないように、困らせないように、不満を抱かせないように、ものすごく気をつけている。どうしてそこまで、わたしの彼氏でいようとするのだろう?
そんなふうに無理をしなくていい、無理してまで付き合わなくていい。
だって、疲れて、しまうでしょう。
そういうことを、でもきちんと口に出せないのはわたしの方だった。
わたしたちは一年経つのに、まだ、こんなふうなのだ。
・・・
プレゼント用のおしゃれなリボンを針金でくくりつけた、赤い包装紙に包まれた小箱を、ぼんやりと掲げてみる。
こんなものを用意してもなあ、という気持ちがもたげてきて、溜息とともに紙袋へ仕舞い込んだ。友人たちに配る友チョコの山の奥底へ隠す。
二月十四日の朝、わたしは自分の席で頬杖をついてあくびをしながら、友人たちがくるのを待っていた。教室を出た廊下、隣の教室との狭間で騒ぐ、女の子たちの声を聴きつつ。
「誠司くんあげるー」
「ホワイトデー期待してるよー」
「わたしもわたしも」
「いやー俺彼女いるんで。ホワイトデーは奮発したいんで無理です」
するなよ、奮発。
彼女、であるところのわたしは、彼氏のそんな声を聴いて、なんとも言えない気分になる。そんなこと、しなくていいんだってば。
誠司は背が高くて、でもほどよく細くて、骨張った形がなんとなく分かるのがきれいで、絵具で汚れていなければ清潔で、そしてわりと、顔が良い。だから、去年もたくさんチョコを貰っていたし、今年も義理を含め多くのチョコレートを貰うのだろう。ということを、予測してしかるべきだった。
何より、誠司は優しい。
頑張る女の子のチョコレートを、突っぱねたりしない。どうしようかなあと思いつつ、おっはよ! と声をかけてきた友達に挨拶を返す。それと一緒に、チョコレートを渡す。
「わ、ありがとー! わたしもっ」
「ありがとー」
平和だ。
教室内は、まあ水面下では冷戦が起きていそうだけれど、表面的にはとっても平和だ。だから廊下に出たくない。
「古里めっちゃ外で捕まってたよ」
「言わんでよろしいー」
「予鈴鳴っちゃうよ」
「放課後あるから」
古里誠司は隣のクラスの人間なので、そして今日の授業は合同授業がひとつもないので、基本的にわたしは彼と顔を合わせることがない。お昼休みも、きっと捕まっているだろうし。
「のーのかー」
「ん?」
「嫉妬しよーよ」
「うーん、難しい相談だね」
「わからんカップルだぜ」
やれやれェ、と両手を広げて肩を竦め、彼女はまた違う友人にチョコを配りに行った。ちなみにその子には、わたしはもう渡している。
わたしは携帯をポケットから引っ張り出し、ソーシャルゲームをちょろちょろっといじって、またポケットに放り込んだ。ふと、映画を観に行きたい、と何の脈絡もなく思った。しかも反射的に、同行を頼むだろう彼氏の方を見てしまった。
目が合った。
誠司の目がまん丸くなった。
誠司の口が大きく開いた。
瞬間、スピーカーからチャイムの音が鳴り響いた。これで席につく子はあんまりいないけれど、誠司の出ばなを挫くには充分らしかった。何の力みもなく朗らかに話していただろう彼の肩が、がっくりと下がっている。そう、誠司は、わたし以外とは、わりとふつうだ。それなりに大雑把だし、それなりに話しやすいキャラだし、それなりにのどかだ。それがなぜ、わたしに対してばかりああも神経を張り巡らすのか。
別れた方がいいのかなあ。
と思いつつ、わたしは自分から切り出せない。そういう状態がずるずると続いている。視線を教卓の方に向ける。わたしは一年前の今日のことを思い出す。
あの日も寒かった。赤とグレーのチェックのマフラーをぐるぐる巻きにしたわたしは、前日のチョコレート製作のせいで寝不足で、それがつらくてあくびばかりしていた。毎年のことながら、バレンタインデーとは面倒臭い社交だ。すぐ閉じそうになる瞼をぴくぴくさせながら、放課後、ゴミ捨てに行った。バレンタインデーだって、掃除当番は巡ってくる。
中庭をまたぐ渡り廊下で、つまりゴミ捨て場の近くで、わたしは誠司がぽけっと突っ立っているところにでくわした。
彼はなんだかどうと言いにくい不可思議な顔で、手に持ったチョコレートを見ていた。わたしは首を傾げ、そしてふと思い至る。これは、もしや、告白、された後ってやつではないだろうか、と。きっと余韻に浸っているんだと納得し、わたしはそろそろと気づかれないようにゴミを捨てた。するとゴミを捨てる音が盛大に鳴った。もちろん誠司はこちらを向いた。
きょとん、とした様子で瞬く彼にたいへん気まずい思いをした。
愛想笑いをすると、四条さん、と彼は特に意味はなさそうな感じで呟いた。一年の頃は同じクラスだったので、彼がわたしを知っていたことは、さほどおかしなことではなかった。ここは囃し立てるべきだろうかと考えたけれど、わたしは誠司とそんなに仲が良いわけではなかったので、どうするべきかとても迷っていた。迷っている間に、誠司が行動した。四条さん、と今度ははっきりとわたしに呼びかけたのだ。そして、へにゃりと笑って言った。四条さん今フリー? なら、俺と付き合って、と。
わたしは何言ってんだこいつ、と思ったし、今告白されたんじゃないのかよ! 彼女欲しいならオッケーしなよ! ていうかつまり断ったのかよ! と思った。混乱するわたしにひょいと近寄り、さらっとゴミ箱を取って、ね、頼むよ、と彼は繰り返した。それから困ったような微苦笑に変え、だめかな、と。わたしはこの頃にはすでに、恋人というのは日常を適度に彩るお気に入りの洋服やささやかな趣味のようなものだと認識していたので、まあ、いいか、という気分になった。どうせ彼の方がそのうちもういいやってなるだろう、それまで彼氏彼女というのをやるのもいいだろうと。それにわたしはこのひとのことが嫌いではなかった。彼は優しくて朗らかで穏やかなひとだった。わたしは頷いた。あっさりと頷いた。うん、いいよ。とても軽く、その軽さに我ながら驚いた。でももっと驚いたのは、そう返したとき、誠司の目がじわじわと見開かれ、やがてゆっくりと、とても嬉しそうに笑み崩れたことだ。
その表情は、ほろほろと溶けるように光をこぼして、目尻が下がって、唇がほころび、安堵に頬が緩められた。これほど喜びに満ちた誰かの顔を、わたしはもしかしてはじめて見たのではないだろうかという気がした。
ありがとう、とはにかんだように言う彼の声と表情をよく覚えている。あのときのことを思い出すと、わたしはいつも心臓の音を乱してしまう。
まったく。
わたしはもう、ないものねだりの子どもではないのだ。まったく。
放課後、わたしはすかすかになった紙袋を片手に、一足先に掃除から解放された誠司を探して、美術室に向かった。誠司はまだ、今描いている絵を完成させていないらしい。暇があれば美術室にいる。
ノックをしてからそろそろと引き戸を開けると、誠司の背中が見えた。呼ぼうとして、止まる。
「せんぱい」
必死な声が聞こえたから。
「これ、お願いします、もらってください。わたし……知ってます、けど。でも、先輩が、好きです」
やっべーところにきちゃったようである。わたしはだらだらと冷や汗を流した。どうしようどうしようどうしよう。ここは大人しく去るべきか。ノックしちゃったけど! もう思いっきりガラガラってやっちゃったけど!
まるでそれらすべてがなかったことのように身を引きかけたわたしは、しかしこれまた運の悪いことに告白していた女の子と目が合ってしまった。なんでわたしっていつもこうなの? 去年と同じパターン!
「……気持ちはありがたいけど、」
「あっ……」
「え?」
すっごく間抜けなシーンが繰り広げられた。真面目に答えようとした誠司を遮って、思わずといった様子で女の子が小さく声をあげたのだ、わたしに向かって。口許に手を当て、青ざめた顔で。
まるでスローモーションみたいに、誠司の振り返る動きがゆっくりだった。そう、見えた。
「ののか」
誠司が呟く。意味をもたない呟き。わたしはたぶんとても困った顔をして頬を掻いた。
「誠司」
「うん」
「わたし、教室にいるから」
「うん?」
「話あるから」
「うん」
「時間できたらでいいから、あとで呼んで」
「……うん、あのさ」
誠司もまた、困った顔をしている。
「そこで、待っててくれたりしない? 寒くて、悪いんだけど」
わたしは呆れ返った。
この男は何を言っているのだ。
「それは、さすがに悪いでしょ。わたしじゃなくて、その子に。どっちにしても、答えは、一対一で聞きたいと思うよ」
「……うん、まあ、うん」
はああ、と誠司にしては珍しく、弱りきった様子で溜息を吐いた。わかった、と彼は答えた。
「じゃあ、この階のあっちの、空き教室の方で待っててほしい。あそこ、美術部のアトリエっていうか、保管場所みたいなとこでさ。今日はたぶんみんないないと思うから、そこに」
「わたし、入っていいの?」
「へーき。それよりごめん、頼むよ」
わたしはちょっと笑った。笑ってみせた。今はじめて自覚したけれど、わたしはどうも、誠司の「頼むよ」に弱い。
「おっけー」
言ってから、茫然としている女の子にさっと頭を下げる。
「話の邪魔して、ごめんなさい」
タメ語でいくべきか敬語でいいか迷ったので、曖昧な感じで謝り、わたしはその場からすばやく抜け出した。片側に結わえた髪がびよんびよん跳ねるくらい走った。
空き教室を探しながら、考える。
誠司はどう答えるんだろう。わたしは、別れた方がいいんだろうか。それでも、わたしはたぶん、構わない。誠司がいい方にしたい。でもあのひとは優しいから、少なくともあの子への返事は保留にするんだろうな。だって、わたしとまだ別れていないから。けじめをうやむやにするひとではない。ああ、でもどうだろう。恋はときどき、人を惑乱させる。
わたしだって、そうだから。
「はー……」
どさ、と空き教室の空いた机に鞄を投げ出し、椅子に座り込む。でろんと突っ伏す。窓の向こうでは夕焼け空が燃え落ちている。光が融解するみたい。淡い紫と水色とピンクがぐちゃぐちゃになって交わって、どろどろと雲を食い合っている。夜の時間まで、あと少し。視線を教室の中に戻すと、誠司の言った通り、色んな絵が雑に置かれていた。いや、雑ではなく、意図的なものなのかもしれないけれど、素人目には無作為に見える。
誠司の絵が、見たいな。
あのひとは恥ずかしがってなかなか見せてくれないので。わたしは絵に被せられた布を、そろりそろりと細心の注意を払ってめくりあげていく。キャンバスの側面に貼られた付箋に名前があるので、それを見て探す。古里、古里。なかなかない。どうも、このあたりは三年生のようだ。持って帰らなくていいのだろうか。
「うーん……?」
まさか、わたしの覗きを恐れて隠すわけがあるまいし。二年生のコーナーらしき場所まできたけれどまだ見つからない。早くしなければ誠司がきてしまう。と焦ったそのとき、ぱたぱたという足音が聞こえてきた。ぎくりと肩を揺らすと、教室の戸が開いた。
「ごめん、待たせた! って何してんの?」
「あ、えっと、そのなんでも」
と言いつつ、次の絵を盗み見る。はっと誠司の目が動揺を見せた。
「な、ななな何してんのほんと! やめてください!」
「まさかあたり! 惜しかった!」
「何言ってんの!?」
ばりっと絵から引き離されたわたしは苦々しい気持ちで誠司を睨んだ。ううっ……と彼は身を仰け反らせた。
「あの……ごめん……でもそれだけは勘弁……」
弱気だなあ。わたしを急き立てていた勢いがふうっと萎む。
「誠司」
語気が変わったのに気づいてか、誠司が落ち着いた表情を浮かべた。うん、と優しい声が頷く。この一年、聞き慣れた声。
「あのね」
「うん」
「わたしは、別れた方がいいかな」
「俺と?」
「他にいないでしょ」
「いたら泣いてた」
「おおげさな」
嫌な顔をしてやると、誠司は苦笑を洩らした。大きな手が、長い指が、絵具の匂いのする肌が、わたしの頬にゆるく触れた。耳の裏をそっと滑る。
「大袈裟じゃないよ。ののか、あのね、俺の希望を、言ってもいいですか」
「うん」
「俺と、付き合っててください」
わたしはゆっくりと瞬いた。
呼吸が、ちょっとだけ止まった。
「……それがいいの?」
「うん」
誠司は簡単に頷いた。わたしは眉をひそめる。
「わたしといるのは、しんどくない?」
「ううん。どっちかっていうと、かなり幸せ」
「……変だなあ」
「ふつう、ふつう」
「そう?」
「俺にとっては、ふつう」
「ふーん……」
「ののかはさ」
「うん」
「俺と別れたいってわけじゃ、ないでしょ」
気づくと、両手をそれぞれ結ばれていた。このひとは、手を握るのが好きだ。そして、お見通しのようなことを言う。
「うん。どっちでもいいよ」
どっちであっても、わたしの気持ちは同じなのだ。だから、誠司の望む方がいい。
「何でかって、今日は、訊いてもいいかなー」
「いいよ」
「じゃ、なんでですか」
「わたしは、誠司を好きだから」
付き合ってても、付き合ってなくても、現時点のわたしは、誠司を好きだ。
誠司がわたしを好きじゃなくても、好きだ。これは、付き合ったからこそ生まれた感情だけれど。でもこの感情は強くわたしに根付いてしまったので、もし誠司と別れても、なかなか離れないだろう。たった一年、されど一年。わたしの恋は盛大に浮き上がってわたしを混乱させることはあっても、沈むことはなかった。つまり、そういうことだ。
「俺も」
熱を孕んだ声が囁いた。こつんと額がぶつけられる。
「俺も、ののかが、好きだよ。あと、愛してる」
「愛、ですか」
「うん。ちょっと、どうかってくらい、ですね。溺れそう」
「……愛に?」
「ののかに」
溺れて、窒息しそうです。そんなことをさらりと言う。やめてほしい。なぜか、脈拍が狂ってくる。なんだか熱い。今は、冬なのに。息を、つく。
「…………そうなの?」
わたしは訝しんだ。誠司は不満げに唇を尖らせる。
「なんで疑うの」
「いや、だって、誠司って、わたしに対して、気ぃ張りすぎ」
「そう?」
「そうだよ。ふつうさあ、もうちょっとわたしに対して苛々とか、不満とか、もってぶつけてしかるべきじゃない?」
「不満かあ」
お。手応えを感じた。わたしは勢い込んで訊ねる。
「ある?」
「ちょっと」
「何?」
「俺、ののかが好きなんですけど」
「はあ」
「ののかがどういう気持ちでいるのかわりと分かるけど」
「うん」
「俺がさっき告白されてたとき、嫉妬してもいい場面だった」
「……そう?」
「あと、俺、今日チョコ零個です」
「え、朝もらってたじゃん」
「彼女いるからって断りました」
「もったいない……」
「俺はこんなに独占欲強いのに、ののかにはまるでないところが不満です」
「独占されている気があんまりしないからなあ」
それに、べつに、独占欲がないわけではない。嫉妬しないわけではない。でもそれよりも、誠司が好きで。
ああいうとき、誠司を好きだと、すごく思うので。それで頭の中がぐるぐるしてショートしそうになって、とにかく好きで好きでそれで心がいっぱいになってしまうので。
「……あと、不安が少ないのかも」
「ん?」
「誠司ってあんまりこう、告白されてもときめいてなさそうだから」
「まあ、そうですね」
「飽きられるかもしれない、とは思っても、わたしが嫉妬で狂いそうになるくらい恋する相手ができたように、見えないから」
「な、なるほど……。それは、仕方ないかあ。俺はたぶんののかに狂ってるからなー」
「ええ?」
それはどうも納得しがたい。けれども、誠司の中では事実であるようだ。彼はにこりと微笑み、わたしの頬を両手で持ち上げた。
「ののかはさ、俺のことを世界でいちばん好きじゃないよね」
わたしはぽかんと彼を見つめた。とても近い距離で、目と目が合わせられる。誠司の黒い目の中にわたしがいる。
「ののかを大事に大事にしちゃうのはさ、俺が、ののかの世界でいちばん好きな相手になりたいからだよ」
まるで少女漫画のヒーローみたいに一途を求めてくる。そんなことがこの世でふつうに起こるものだろうか。だってそれは奇跡のようだ。誰かにそんなふうに、永遠の恋をするなんて。
わたしの世界ではあるはずがなかった。
だって、想い想われるその気持ちが、かち合うことすら信じられないのに。それが永遠に続く? まさか。わたしが? まさか。わたしは、わたしを信じたりできない。だって一生裏切らない無二の相手なんてできなかった。熱に浮かされるような恋が一年も続いただけでも驚きなのに。
「ちなみに、俺は、そうです」
なのに、誠司はさらに言う。
「たぶん、ののかのことが、世界でいちばん好きです」
うそだ。
数年後にはわたしたち、他人になっているかもしれないのに。
「陳腐で嫌だから言いたくなかったけど。ののかもきっと信じてくれないだろーなーと思ってたし」
「うん、まあ……」
「でもさ、だからさ、気ぃ張ってるんじゃなくて、好きだから、過剰になってるだけだよ」
「……ん、んん」
「ののかの嫌がることはしたくないし、厄介の種は近づけたくないし、いつもののかの世界が平穏であればいいと思う。できればいいことがたくさん起きてほしい。優しいものであふれていてほしい。それから、」
「……それから?」
「俺を好きであってほしい」
やわらかな抱擁が、わたしの体温をひどくあげる。どうしよう、くらくらする。いつも通り、決して強くはないハグなのに。絵具の匂い。それだけじゃない、誠司の匂い。
「さっき言った通り、俺は、ののかのいちばんになりたいので」
「……うん」
「すべてが打算です」
「……えっと」
「とにかく優しくしたいし、それでもっと好きになってほしいし、ののかの好感度をあげまくってトップに立ちたいんです」
「……えー、と……」
もうだめだ、このひとが何を言っているのかちょっとよくわからない!
「あ、あのさあ、たぶん、トップだと思うよ」
「でも『いちばんすき』じゃないでしょ」
「……それは……だって、そんなこと、それがどんなかんじが、わたしには分からない」
「うん、知ってる」
知ってるのかよ、もうなんなの。ののかはけっこう厄介だよねー、と笑う、誠司の方が厄介だ。
「だから長期戦ってことで」
「う、うん」
「でもちゅーはしたいです」
「……どうぞ。ていうかさ、訊かなくていいから。宣言しなくていいから」
「あはは、でもほら、気分じゃないときにして困らせたくないし。……あと、言ったときの、ののかの顔が好きなんだよねー」
「は?」
今聞き捨てならないことを、と思ったときには唇を奪われていた。頭の後ろを支えられ、深く優しく甘い口づけを与えられる。ああもう、なんでこう、キスまで優しいんだろう。いや、わたし、誠司とのキスしか、知らないけど。でも、なんだか身体中とろとろに溶けてしまいそうに優しくて、視界もきれいに曖昧にさせられて、ただただうっとりとしてしまう。激しさなんて感じないのに、夢中になる。これって、ふつうなんだろうか。
力が抜けて、こつ、と机にお尻がぶつかる。そこでわたしは今日が何日なのかを思い出した。
「ふ、……ん、ん」
ぺしぺしと誠司の胸を叩く。いつまでキスしてるんだ、もう! わたしも!
「ん、なに?」
「こ、これ」
紙袋から取り出した、人生で初の本命チョコを突き出す。本命……そんなものがわたしの人生に出現するとは思わなかった……。
誠司はこぼれんばかりに目を見開いた。
「なんでそんなに驚くの」
「いや、期待してたけど期待してなかったみたいな」
「……言いたいことはなんとなく分かるけど」
こほん、と咳払い。
「ぜひもらってください」
「……はい」
ぼーっとしたふうな誠司が、なんだか賞状みたいにしてわたしのチョコを押し頂いた。いや、そんなたいそうなものじゃないんですけど。
ふう。
チョコを渡したことで、わたしはだいぶすっきりした。そしてだんだんと落ち着きを取り戻してきた。
「誠司」
「……」
「誠司?」
「……感激……」
「えっ、あ、そう。戻ってこい」
そこまでか。
「もうちょっと余韻に浸らせてほしかった」
「浸るようなものじゃないから。ただのチョコだから。だいたい、彼氏なんだからもらえるのは当然じゃん」
「いやいやいや、当然じゃないよ。そんな甘えたこと言えるわけがない!」
「ときどき誠司のことがまったく分からないよ……」
未だ感動し続ける誠司を放置することにし、わたしはぐるぐるともこもこしたクリーム色のマフラーを首に巻きつける。
「誠司、部活は?」
「あ、今日はもう帰るよ」
「じゃあ一緒に帰る?」
「もちろん」
へにゃり、と嬉しげに彼は笑った。そっか、とわたしも微笑んだ。
「じゃあ帰る前に一目」
そしてばさっと誠司の絵にかかっていた布を取り払った。
「わああああっっ!」
絹を裂くような悲鳴とはこういうのを言うのかなあと絶対違うことを考えながら、真正面から絵を鑑賞する。
教室の絵だ。窓辺。帰り支度をしている女の子がいる。赤とグレーのチェックのマフラーをしている。顔はほとんど見えなくて、左の頬が微かに髪の影から覗くくらい。窓の外では花が咲いている。外からの陽射しを受けて、教室の床がやわらかな光を放っている。あたたかくて、なぜか胸がきゅっと締まるような絵だった。不思議とどきどきする。きれい、と自然に思った。
「誠司、すごいなあ! なんで見せてくれなかった、の……、え?」
興奮して振り向いたわたしは、誠司の顔を見て唖然とした。
彼は耳まで真っ赤になっていた。
今まで見たこともないそんな姿に、こちらがうろたえてしまう。
「え……え、え? どうしたの。な、なんでそんなに照れて、る? の?」
「…………はずかしい」
「はあ?」
「俺の純情を踏みにじるはやめてください」
「はいい? 人聞き悪いなあ! 何それ……何……、ん?」
それに気づけたのは、まさに天啓が降りたのだといって差し支えなかった。赤とグレーのチェックのマフラー。それはわたしが去年愛用し、今年も一月まで使っていたものだ。
——まさか。
「……わたし?」
「あーもー見ないでください! ほんとに! 俺死んじゃう!」
この喚きよう、嘆きよう。
当たりらしい。
じわ、じわ、と頬が熱くなってくる。あ、あれ、何これ。なんだか、おかしい。
世界がクリアだ。
靄が完全に晴れている。
反動で酔いそうなくらい!
赤くなった顔を見られたくないのか、誠司は片手で目のあたりを隠し、ささっと絵に覆いをかけた。
「せ、せいじ」
「はいはい!」
「かえろう」
「あ、うん、かえろう!」
ぎくしゃくと背を向けた恋人に、手、とわたしは訴えた。
「え?」
「手、繋がないの?」
あとで思い返せばこのときの自分はかなりおかしかった。わたしは、こんな動揺しきった顔で、こんなことをねだったことはなかった。でも、このときはどうして誠司が手を繋いでくれないのか理解できなくて、半ば怒っていたし、困惑していた。
誠司と手を繋がないなんて、おかしい。
わたしのその気持ちはたぶん、ちゃんとは通じてなかった。わたしだって分かっていなかった。誠司は惚けたように二、三瞬きをし、そして心底幸せそうに笑った。
「うん、繋ごうね」
やさしく、やさしく、でもしっかりと手は掴まれた。
わたしはしっかり、誠司に捕まった。
たぶん、おそらく、きっとぜったい、世界でいちばん好きなひとに。
・・・
のちのちに分かったことだけれど。
誠司は飽きもせず、わたしの絵ばかり描いている。正直、正気を疑うところだ。しかもなんということだろう、このひとは最初にわたしに告白してきたとき、すでにわたしに恋していたのだ。それを一枚の絵が語っている。
まったく、わたしははじめから、誠司のてのひらの上で踊らされていたらしい。
まったく、まったく。
……ちょっとやめてください絵に残すのは! あと、わたしの顔が赤いのは、誠司の目の錯覚だから!
わたしはあなたの瞳の中に住んでいる。(タイトル)
大遅刻!!! べっべつにバレンタインデー用に書いたんじゃないから……展開的にそうなっちゃっただけだから……(震え声)という言い訳はさておきお疲れさまでした。ここまでおつきあいいただきありがとうございました。
ハッピーバレンタイン!(遅)