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炎天下のはしっこの話

作者: らいく

彼女の名は炎天下という。


「炎・天下」ではない。正式にいうと安田炎天下という。

真冬、雪がこれでもかというほど降り積もって交通機関がマヒしたその日に生まれ、こんな吹雪の日であっても私とあなたの愛は変わらない証がこの子よ、という母親によって付けられた名前だ。

その名を聞いた誰もが、10秒ほど絶句してから、あ、ああそうなの素敵な由来ね、などと白々しく口にしたことは当然であったが、幸いにも世は新種の名前が溢れていたため、炎天下は名前のせいで苛められることなど殆どなく、12歳まで健やかに成長した。

それがつい昨日までの過去の話だ。


さて、その未来たる今日本日現在の話だ。

炎天下は炎天下の中を必死に歩いていた。洒落ではない。

雲一つない空で太陽がふんぞり返り、蝉はのびのびと大声でわめき散らし、地面は高熱の鉄板と化して生物をステーキにしようと目論んでいる。

情け容赦のない炎天下で、麦わら帽子だけを装備した炎天下は、ひたすら必死に歩き続けていた。

華奢な体にはさぞ辛いのだろう、時折ふらりと足取りが乱れるが、それでも灼熱のアスファルトを進み続けていく。

彼女の足を動かしているものは、たった一つの意志。怒りだった。

疲労を感じさせない鋭い目つきは、親の仇を見るようだと形容されるであろう。

しかし、彼女が仇を取るのは親ではなかった。

彼女、炎天下は今、己の仇を取るため炎天下を進んでいるのである。


事の起こりは本日の午前。学校の休み時間のことだ。

名前のせいで苛められることなど殆どなく、というのは、殆どないけど多少苛められてはいたということだ。

彼女を苛めていたのは浜岡山太郎。炎天下と同い年の小学六年生だ。

実のところ、苛めていた理由は、名前がおかしいからではない。炎天下がかわいいからだった。

炎天下を構う理由が欲しくて、とりあえず目立つ名前をからかっていたのだ。

山太郎の年齢と、炎天下の愛らしい容姿を思えば、それなりに情状酌量の余地はあろう。

それに炎天下は、名前について多少からかわれたところで、まったくどうでも良いことと思っていた。

彼女の母が炎天下という名の奇天烈さを気に留めなかったように、炎天下も世間の評価を気にしない少女だった。

齢12歳にして、炎天下の精神は強靭だった。

しかし、それが逆によろしくなかった。山太郎のプライドとメンタルは12歳相当であり、あまり強くなかった。

もしも炎天下が泣きでもすれば止まったろうに、殆ど無視され続けた結果、山太郎はつい意固地になり、やりすぎるようになってしまった。

そうして事件は起こった。


山太郎が、炎天下の髪をはさみで切ったのである。


山太郎は性根のひどい子供ではない。だから切ったのはほんの少し、端のはしっこだけだ。

しかし、驚いて振り向いた炎天下は、山太郎の手の中のはさみと、真っ黒な髪の切れ端を見て、見て、呆然と見た。

そうしてから10秒、ぼろぼろと涙を流し、烈火のごとく泣き出した。

真っ青になったのは山太郎だ。

いつも平然としている炎天下が、ここまでショックを受けるなんて、予想だにしていなかった。

騒ぎを聞き、どうしたことかと、教室にいた生徒たちの目が向く。

山太郎はおろおろと周りを見渡したのち、咄嗟に教室を飛び出した。

後に残ったのは、事情も話せぬほどに泣きじゃくる炎天下だけだった。


数時間後、泣き止んだ炎天下は、結局だれにも事件のことを話さなかった。代わりに、午後から学校を抜け出した。

己の仇は己でとると、12歳の炎天下は決意したのだった。

その独立自尊なる精神は、彼女の名に違わず、どんな吹雪も敵わないほどの苛烈さだ。

そうしてこうして炎天下は、山太郎がいるであろう海辺へ向かっているのである。


波の音に立ち止まる炎天下。

揺らぐ視界の中、海と、その手前にいる山太郎の姿が目に入った。

山太郎は体育座りで丸まっている。

山太郎は何かあるとすぐに海辺へ行って、海の見える木陰の下でいじけている。基本的に打たれ弱い少年なのだ。

足音に顔を上げた山太郎は、炎天下の姿を認めてぎょっとした。

「な、なんでここに、いるっ、えっ!?」

炎天下は要件を伝えようとして、声が出ないことに気付いた。喉の奥が張り付く。脱水症状だ。

ぐらりとバランスが崩れた。後ろに倒れそうになる。

山太郎が慌てて手を伸ばそうと立ち上がる。

しかし、炎天下は真っ直ぐに二本の足を踏みしめ、耐えた。

彼女は、声が出ないことも、眩暈がすることも、どうでも良いと思った。それよりすべきことがあるのだから。

炎天下は最後の力で踏ん張ると、山太郎の体に全力で体当たりした。

二人は折り重なり、浜辺に転がる。

ぐええと蛙の潰れたような声を出し、潰れる山太郎。

けれど、女子でも小柄な炎天下と、男子でも大柄な山太郎では、肺の空気が少し抜けた程度だ。

山太郎をぺちゃんこにすることなどできない。炎天下もそのくらいはわかっている。彼女の狙いはそこではなかった。

炎天下は、素早く山太郎のズボンのポケットを探った。あの直後、慌ててそこに入れたのを見た。

取り出したのははさみだった。

理解できず、制止することもできず、その行動を見ているだけの山太郎の前で、炎天下ははさみを構え――自分の長い黒髪を、ばさりと切り落とした。

ざくりと切り落とした。更に切り落とした。腰ほどに長かった黒髪が、肩の上で、いびつに短くなっていく。

「ちょ…っ! やめ、やめろ!! 何してるんだよ!」

ようやく理解が追いついた山太郎が、炎天下の腕を掴んで制止する。

炎天下の動きが止まる。急に電池が切れたように、その手からはさみが落ちる。限界だった。

小さな身体が傾ぎ、山太郎の上に倒れた。

異常なぐらいに熱い身体。子供の山太郎にも、それが明らかに危険であることはわかった。

「あ、なんで…しっかりしろ! 炎天下!炎天下! …えっちゃん…!!」

炎天下がぴくりと反応し、山太郎を見た。

男女の性差や、ちいさな恋心や、くだらない見栄のために、長らく呼ばれなかったそのあだ名。

炎天下は、じっと山太郎を見つめてから、口を動かした。声は出なかった。

やまちゃん。

そう言ったのが、山太郎にはわかった。


炎天下という名前についてからかわれたところで、まったくどうでも良いことと思っていた。

えっちゃんと再び呼ばれる日を、炎天下はずっと待っていた。

それ以外はどうでも良いことと、そう思っていたのだった。


山太郎は炎天下を抱えて走り出した。

炎天下の意識はとっくに途絶えていた。

だから、ざんばらになった炎天下の髪を見て、走馬灯のように昔のことを思い出したのは、必死で走る山太郎の方だった。

やまちゃんと呼ばれていた頃のこと。何でもないある日、この木陰で、すぐに忘れてしまうくらい、何の気もなくあっさりと、山太郎は言ったのだった。

えっちゃんの髪ってきれいだね、と。

髪の残骸が二人の身体から落ち、風に飛ばされ、砂浜に散らばっていく。

山太郎は走った。走りながら泣いた。

ごめん、ごめんなさいと、泣きながら走り続けた。

声を聞きつけた大人たちがかけつけ、二人して病院にかつぎこまれた。

しかし山太郎は泣き止まず、結局半日泣き続けた。

ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと、幼い子供のように、泣いた。



真っ白なベッドに、小柄な少女、炎天下は横たわっていた。

「炎天下」

「…………」

山太郎が炎天下に呼びかける。反応はない。

「…炎天下」

「…………」

山太郎が呼びかけても、炎天下はぴくりとも動かない。

炎天下の瞳が山太郎を見ることは、ない。


という風に書くと誤解を招くかもしれないが、炎天下は無事である。

ここは個室の病室であり、適切な治療を受けた炎天下は、すっかり元気で健在である。

目が覚めた炎天下は、こっぴどく両親に叱られた。そして山太郎も、泣き止んだ後に叱られた。当然の成り行きだろう。

しかし炎天下の両親、特に母は普通とは言い難く、倒れたのも髪の毛も自分のせいだと山太郎が言うと、じゃあ二人で解決しなさいと、炎天下と山太郎をさっさと二人きりにしてしまったのである。

それから数十分は経った。しかし、二人の間に未だ会話はなかった。


「おーい…炎天下…」

「…………」

炎天下は眠っているわけでもない。しっかり起きている。

炎天下はぷいと山太郎とは逆の方を向いている。

ただ単に、拗ねているだけである。

理由は言うまでもないし、山太郎にもしっかりわかっている。

だが恥ずかしい。改まってあだ名を呼ぶのは、今さらものすごく恥ずかしい。

山太郎はうううと散々に唸り、顔を赤くして、ぼそりと呟くように言った。

「……えっちゃん」

炎天下は首を動かし、すかさず山太郎を見た。その顔は昼間とはまるで別人で、瞳は星空のように煌めいている。

山太郎は赤面して目を逸らしたが、少しだけ躊躇したのち、炎天下と目線を合わせ直した。大事なことだからだ。

ばさばさの髪の毛が目に入る。

「…その、えっちゃん……ごめん」

沈黙。

炎天下はじっと、山太郎の次の言葉を待っている。

山太郎は小さく息を整えた。

「髪の毛…また、伸ばしたら。今度は絶対、あんなことしない。大事にする、から」

沈黙。

炎天下はじっと山太郎を見つめている。

山太郎が慌てだす。

「う、ええと…髪、えっちゃんの髪、俺、す…き……だし…」

山太郎の顔は真っ赤だ。

数秒の沈黙。

炎天下はじっと、山太郎のことを見つめた。くりりと大きな瞳。

見つめながら、言った。


「……髪だけじゃやだ」


炎天下の瞳に射抜かれた山太郎は、熱中症で倒れそうになって、尻餅をついてこけた。

炎天下は小さく笑った。


こうして安田炎天下は、見事に己の仇をとったのだった。





めでたしめでたし。おわり。

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