LOVE SONG (1)
息が苦しい。一日中歩き詰めだった足が痛み、今にも立ち止まりそうになるけど、うちは何かに追われるかのように走り続けていた。
いや、追われているのだ。過去の幻影に。
酸欠に喘ぎ、意識がぼやけている。そんな意識の片隅で、公園に置き去りにしてきた天音ちゃんのことを考えていた。
(あとで……謝らんと……)
今はとにかくここから逃げたい。誰もいない場所へ。あいつのいない場所へ。
「っぁ!」
でもそんなうちの意思とは裏腹に、体はとうとう限界を迎えてしまう。足が動かなくなり、うちはその場に立ち止まった。
肺の中の空気が全てなくなったかのような苦しさに、こみ上げてくる吐き気。頭が痛い。視界が揺らぎ、足元がふらついた。
うちは恐る恐る後ろを振り返った。
あいつの姿はどこにもない。どうやら追ってきてはいなかったらしい。
そのことに内心で安堵の息を吐きながら、うちは少しずつ呼吸を整えていく。
膝が震えていた。明日は筋肉痛確定だろう。
いつしか辺りはすっかり夜になっていた。どれぐらい走り続けていたのだろうか。
「……帰ろ」
脇目もふらず走っていたので、今自分がどこにいるのか分からない。
タクシーでも拾おうか。そう思い、大きな道路を探して、適当に歩き出した。
うちが今いるのは住宅街に挟まれた細い街道だった。周りに人の気配はない。街灯に照らされた一本道を、うちはゆっくりと歩いていく。
やがて向かいから一人の若い男の人が走ってくるのが見えた。ジョギングでもしているのだろうか。街灯が彼の姿を映し出す。
トレーナーを着た、若い男の人だ。後ろに撫で付けた髪に、鋭い瞳。彼はジョギングにしては、かなり早いペースで、でも呼吸を乱すことなく走っていた。
「あっ」
狭い道なので、ぶつかりそうになる。うちは横に避けようとしたが、疲労の限界を訴える足はいとも簡単にバランスを崩し、うちは男の人に飛び込むような形で倒れてしまった。
「っと」
寸でのところで男の人が支えてくれたおかげで、転ばずに済んだ。咄嗟に胸元へ置いた手を通して、鍛えられた筋肉の感触が伝わってくる。何かスポーツでもやっている人なのだろうか。
「ご、ごめん……すぐどくから」
そうは言うものの、うちの足は言うことを聞かず、うちはそのままその場に座り込んでしまう。
「おい、大丈夫か?」
「す、少し休めば大丈夫やから、気にせんといて」
力ない笑みを浮かべて、そう返す。男の人はじっとうちの顔を見つめた後、突然踵を返した。
「ちょっとそこで待ってろ」
そう言って、走り去っていく男の人を、うちは呆然と見送った。
そして数分と待たないうちに、男の人が戻ってきた。その手には自販機で買って来たと思われる清涼飲料水の缶が握られている。
「ほら、これ飲めよ」
そう言って手渡された缶を、うちはしげしげと見つめる。
「おおきに……あ、お金」
「いらねぇよ。それよりも、一気に飲むなよ。少しずつ飲め」
「あ、うん」
頷き、缶のタブを開ける。
そして一口、中の液体を口に含んだ。口の中を湿らせるようにして、少しずつ飲み下していく。
生き返るようだった。自分でも気付かないうちに、相当喉が乾いていたらしい。
少しずつ頭痛や動悸が収まってきたような気がする。そしてそれに反比例するかのように足の痛みが蘇る。
「立てるか?」
「……ちょっと、無理かも。でも休めば平気やから」
男の人は小さく肩をすくめると、
「そんなとこに一人でいると危ねぇだろうが。ちょっと行ったところにソレイユって店がある。そこで休め」
「ソレイユ……」
天音ちゃんが働いているところだ。
今頃天音ちゃんはどうしているだろうか。
「なんだ、知ってるのか」
うちは短く首肯する。
「じゃあ、ほら」
そう言って、男の人は突然うちの腕を自分の肩に回した。
「えっ、ちょ、ちょい待ちい! いきなり何するんや!」
「その足で歩くなんて無理だろうが。肩貸してやる」
「で、でも、あんた、ジョギングの最中やったんちゃうんか?」
「こんな状態のあんたは置いていっても、気になってろくなトレーニングになりやしねぇよ。俺のことを考えるなら、大人しく肩を借りとけ」
そう言って、ゆっくりと歩きだす男の人に、うちは何か言おうとして、
「…………」
何も言えなかった。彼からは下心のようなものはまったく感じられず、純粋にうちの体のことを心配してくれていることが伝わってきたからだ。
すれ違う人たちはうちらに奇異な視線を向けてくるけど、彼は全く気にしていないようだった。
「ほら、着いたぞ」
やがて、うちらはソレイユの前にたどり着いた。
店の中にはまばらにお客の姿がある。当たり前だが、天音ちゃんはいない。代わりに咲というもう一人のバイトの子がせっせと働いているのが見えた。
ドアを開けると、芳醇なコーヒーの香りが鼻を刺激した。
(ここのコーヒー、本当に美味しいんよね……)
「いらっしゃい」
店長の由美子さんが出迎えてくれた。
「あらあら、真理ちゃん、どうしたの?」
数回しか店に来ていないうちのことを覚えてくれていたようだ。
由美子さんはうちに心配そうな視線を向けている。しかしうちの事情を話すわけにもいかず、うちは適当な言い訳を口にした。
「え、えっと……ちょっとダイエットがてら無茶なマラソンをしてたら、足が動かんようになってもうて……少しここで休もうかなぁって」
「あらあら、無理はよくないわよ? それで、健君だっけ? 健君は真理ちゃんのお知り合い?」
「いや、まったくの赤の他人だよ。こいつがへたってるのを見つけたから、ここまで連れてきただけだ」
「あらあら、そうなの。健君は優しいのね。さぁ、二人とも入って頂戴な」
「あ、いや、俺は」
「何言ってるの。男の人が遠慮なんてしちゃダメよ。はい、こっちにどうぞー」
そう言って、由美子さんに押し切られるような形で健と呼ばれた彼は、うちと同じ席へと案内された。
「今日は私がごちそうするわ。好きなものを頼んでね」
「俺は水でいいです」
「……健君?」
「あぁ、すみません。ふざけてるわけじゃなくて……今、減量中なんですよ。だから、水でお願いします」
「減量? ボクシングかしら?」
「ええ、もうすぐ大会も近いんで」
「そう、分かったわ。それで真理ちゃんはどうする?」
「あ、じゃあうちは、アイスコーヒーを」
「ん、了解~。ちょっと待っててね」
鼻歌でも歌いだしそうな陽気さで、由美子さんが戻っていく。
「なんか、うちのせいでごめんな」
助けてもらっただけじゃなく、トレーニングの邪魔までしてしまったことに申し訳なく感じ、うちは頭を下げた。
「気にするなって。まぁ、事情は聞かないけどよ。もっと自分の体を大切にしろよ」
「おおきに」
なんだろうか。不思議な感じだった。さっきそこで初めて出会ったばかりの人だというのに、まるで長年一緒につるんだ男友達のような、そんな不思議な感覚。
(この感じ……久しぶりやなぁ)
高校生の頃、みんなでバンドを組んでいたときのことを思い出しそうになる。
(正樹……)
どうしてあいつがここにいたのか。それに、あいつの持っていたギターケース。あれは……
「はい、お待ちどうさまぁ♪」
由美子さんの声に、うちはハッと我に返った。
うちは目の前に置かれたアイスコーヒーをストローで啜り、ほうと息を吐いた。
「それにしても、健君と真理ちゃんが一緒にいて、凄く驚いたわ。天音ちゃん、今日は真理ちゃんと遊びに行くって言ってたから。天音ちゃんは一緒じゃないの?」
「天音ちゃんは……その、先に帰ってもうて」
「そうなの? それは残念ね」
「……天音、だと?」
向かいに座っていた健君が小さな声で呟いた。
「あら、天音ちゃんのこと忘れちゃった? ほら、以前あなたが助けてくれた女の子よ」
「あ、ああ、覚えてるよ」
健君は何故か視線を逸らせて、そう答えた。
(あれ、ちょい待って。健君? 健君っていったら)
今日、何度か話題に上がった人物。そして天音ちゃんと二人で躍起になって探し回った人物だ。
「って、あんたかいっ!」
「な、なんだ、いきなり」
目を白黒させる健君に、うちは大きくため息を吐いた。
「あんたのこと、ずっと探してたんよ。天音ちゃんが会いたがってたで。全然店に来てくれないって」
「あ、あぁ……その、あんたはあいつの知り合いなのか?」
「親友や。昔も、今も」
「そうか……」
何故か健君は口元を少しだけ綻ばせると、席を立った。
「あれ、もう行っちゃうの?」
「ええ、俺はそろそろトレーニングに戻ります」
由美子さんに小さく頭を下げると、健君はそのまま店を出て行った。少しずつ雑踏に呑まれて見えなくなる健君の姿を、うちはぼーっと見送り、
「って、あかん! 連絡先聞くの忘れてたわ!」
慌てて追いかけようとするが、まだ回復しきっていない足では走ることもおぼつかず、歯噛みする。
「なぁに、健君の連絡先が知りたいの? 知ってる人に心当たりあるけど、聞いておきましょうか?」
うちの言葉が聞こえたのか、由美子さんがにこりと微笑んで、そう言った。
「是非!」
今日一日色々とあったけど、どうやら目的は達成出来たようだった。