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いつかの空  作者:
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Missing Memory (4)

「ごめんなさい、天音ちゃん。ちょっといいかしら?」


 夜のソレイユは喫茶店からバーへと変わる。お客さんの出入りが落ち着いた頃、困り顔の由美子さんが話しかけてきた。


「はい、大丈夫ですけど……どうしたんですか?」


「買い出しをお願いしたいんだけどいいかしら?」


「ええ、別に構いませんけど、何を買って来ればいいんですか?」


「ありがとう。ここに必要なものとお店を書いてあるから。はい、これはお金ね」


 そう言って、メモと現金を渡される。メモにざっと目を通すと、それほど量があるわけではなく、店もメインストリートの中にあるようだ。


「それじゃあ、行ってきますね」


「ええ、お願いね」


 エプロンを外し、私は店を出ようとする。するとちょうどそのとき、入口の呼び鈴が鳴り、向こうからドアが開けられた。


「お、天音ちゃん。どうしたの?」


 店に入ってきたのは隆文さんだった。


「あ、いらっしゃいませ。ちょっと買い出しに行くところだったんですよ」


「そっか。頑張れよ」


 明るい笑顔で見送ってくれる隆文さん。その後ろに女の人が一人立っている。

 化粧っけのない整った顔に、さらさらの長い髪、出るところは出て、引っ込んでいるところは引っ込んでいる、理想的な体型。やや釣り目な瞳が若干気の強そうなイメージを与えるけど、それがこの女性の魅力を一層引き立てているようにも感じる。


「隆文君じゃない。いらっしゃーい」


 隆文さんに気付いた由美子さんがこちらにやってくる。


「あら、後ろにいるのはもしかして翔子ちゃん?」


 由美子さんは小さな驚きを込めて、女の人の名前を呼んだ。翔子と呼ばれた女性は、照れくさそうに笑うと、小さく頷いた。

 由美子さんは二人の間に漂う雰囲気に、何かを理解したのか、ポンと手を叩いた。


「そっかぁ。貴方たち、やっとくっついたのね」


「ええ、あのときは色々とありがとうございました」


 翔子さんの言葉に由美子さんは満足そうに頷くと、私に紹介してくれた。


「この子たちはね、天音ちゃんがここに来る前の常連さんだったのよ。同じ大学に通っていて、いつも一緒に来てくれてたの。最近は顔を見せてくれなくなってたから、どうしたのかなって心配してたんだから」


「すみません、色々とあったもので……」


 チラリと翔子さんの視線が私に向けられる。何だろう。その瞳の奥で揺らぐ何かが見えた。

 悲しみ? 寂しさ? 寂寥感のようなものを滲ませ、翔子さんは私を見つめていた。

 もしかして、この人は【わたし】のことを知っているのだろうか?

 そういえば隆文さんも初めて私を見たとき、驚いた顔をしていた。

 二人は【わたし】と何か関係があったのかもしれない。でも、だとしたらどんな関係だったんだろう。そして二人が私に何も言ってこないのはどうしてなのか。

 私の気のせい? 知っている子に似ていたとか、そういったものなのだろうか。


「あっ、この子は橘天音ちゃん。新しく入った子なの。仲良くしてあげてね」


「ええ、よろしくね、橘さん」


 さっき感じた揺らぎなどはもう感じられず、翔子さんはにこやかな笑顔を浮かべている。

 気のせい、なのだろう。私も無理やり自分を納得させ、笑顔で会釈を返す。


「あとでもう一人来るよ。仕事が長引いてるとかで、来るのが遅れるって連絡があったんだ」


「あら、そうなの? じゃあ、先に注文聞いておこうかしら。さぁ、座って座って」


「由美子さん、私行ってきますね」


「ええ、お願いね」


 隆文さんと翔子さんの二人に会釈し、私は頼まれていた買出しのために店を出たのだった。




 時間が時間だったためか、近くの店は全て閉店になっていて、私は少し遠いスーパーまで買いに来ていた。店を出てから時間がだいぶ経っている。私は小走りで店までの距離を走っていた。

 だからいけなかったのか、注意を疎かにしていた私はパチンコ屋から出てきたおじさんにぶつかってしまった。


「いてぇな! 何しやがる!」


 ドスの効いた、怒鳴り声。私は肩をびくつかせると、すぐにおじさんに謝った。

 だけど、おじさんは怒りに顔を歪め、私の襟首を掴みあげてきた。


「謝れば済むとでも思ってんのかっ、ああっ!?」


「ご、ごめんなさい……」


 怖かった。息が詰まり、涙が出てくる。周りの人は、一瞬だけ視線を向けるものの、みんな知らない振りをして通り過ぎていく。

 誰も助けてくれない。その絶望が心を覆っていく。


「おらっ、こっちへ来い!」


 無理やり手を引かれ、暗がりの路地へと引き込まれそうになる。

 あまりの恐怖に、もはや声は出ず、私はただ神様に祈ることしか出来なかった。


(誰か、助けて……)


「おい、おっさん!」


 そんなとき、後ろから誰かが私の手を掴んだ。


「何だよっ!?」


 おじさんは苛立たしそうに、声の主を睨みつける。


「あまり調子に乗ったことしてると、豚箱にしょっぴかれるぞ」


 声の主は若い男の人だった。年は私と同じぐらい、作業着を着たその人は油にまみれた手で、おじさんの手を捻り上げた。


「いたたたっ! 離せ、離せよ、こらっ!」


「離すのはてめえじゃねぇのか? その子、嫌がってるじゃねぇか」


「っ! くそっ!」


 おじさんは舌打ちと共に、私の手を解放する。突き放された勢いのまま、私は路上に崩れ落ちた。おじさんが掴んでいたところには、赤い手形が浮かんでいて、私はそれを隠すように胸に抱き入れた。


「てめぇ、ふざけやがって!」


 怒りの矛先を私から男の人へと変え、おじさんが男の人に殴りかかる。

 しかしその拳が男の人に当たることはなく、男の人は落ち着いた様子で拳を避けると、走ってきたおじさんの足に自分の足を引っ掛けた。

 バランスを崩され、おじさんは無様に路上に転んだ。顛末を見守っていた野次馬の中から失笑が漏れ、おじさんは怒りと恥ずかしさに顔をどす黒く染めると、再び男の人に殴りかかろうとする。

 しかし、それよりも早く男の人の拳がおじさんの顔の目の前まで突き出される。

 早いなんて言葉では形容できないほどのスピード。それはおじさんも同じだったらしく、驚愕に目を見開き、どすんと腰から地面に崩れ落ちた。


「素人を殴る気はないが……これ以上やるなら、覚悟を決めろよ」


 殺気のこもった声におじさんの喉が短く鳴る。


「ほら、もう行け」


「お、覚えてやがれっ!」


 捨て台詞を残し、おじさんが走り去っていく。

 すると周りから拍手が巻き起こり、男の人は鬱陶しそうに舌打ちした。


「ちっ、見世物じゃねぇってのに……。おい、立てるか?」


 男の人の手がすっと差し出される。私はその手を握り返し、立ち上がる。


「あ、ありがとうございます。おかげで助かりました」


「気にするな。ああいう輩は昔から嫌いなんだ」


 そう答える男の人の目は私を見ているようで、どこか遠いところにある何かを見つめているかのようでもあった。


「あ、あの……私、橘天音って言います。良かったら、あなたの名前、教えてくれませんか?」


「俺は……」


 どうしてか、男の人は名前を教えることを渋っているようだった。だけど、それも一瞬で、男の人は何かを吹っ切るように小さく頭を振った。


「別に名乗るほどのもんでもねぇよ。それよりも、またああいう奴に絡まれる前に早く帰りな」


「は、はい」


 そう言って、男の人は路上に消えていった。私はその人の背中が見えなくなるまで、そこに立ち尽くしていた。


「格好いいなぁ……」


 彼のことを思い出そうとすると、ドクンと胸が小さく脈打った。まるで心の内からノックされたかのような感じ。

 私は訝しげに自分の胸に手を置いた。別に違和感はない。

 じゃあ、今のは何だろうか……?

 【わたし】が何かを伝えようとしていたのだろうか?

 考えても分かるはずがなく、私は店へと慎重に、かつ急ぎ足で戻ったのだった。


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