Missing Memory (2)
駅を出る。駅前はまだ多くの人で賑わい、明るい空気が流れていた。喧騒を背に、私は道なりに進んでいく。
メインストリートを抜け、前方に見える公園へと入った。この公園を抜ければ、家はすぐそこなのだ。
公園にも多くの人たちが集まっていた。この公園は敷地面積が広く、多くの木々に包まれているため昼夜を問わず、多くの人が集まってくる。周囲に視線を向けると、友人たちと騒ぐ人や、恋人と一緒の時間を過ごしている人、ジョギングや犬の散歩をする人など、様々な人が見受けられた。中には楽器を演奏する人や、ダンスを踊っている人までいて、見ていて本当に飽きない光景だった。
そんな人たちを横目に眺めながら、私は公園を歩いていく。
頭に浮かんでくるのは、ソレイユで最後に見た由美子さんと隆文さんの姿。
二人とも楽しそうだった。その姿に羨望の念を抱かずにはいられない。
「親友、か」
私にはあんな風に心の底から笑って話が出来る関係の人はいない。仕事の付き合いで親しい人はいるけれど、心を許せる相手は存在しないのだ。
だから由美子さんと隆文さんの姿を見て、心がチクリと傷んだ。心の奥底に押さえつけた感情が蘇ってきそうで不安になった。
「こんなんじゃダメだよね。しっかりしなくちゃ」
そんなとき、私の耳に微かな旋律が届いた。
ギターだろうか? 物悲しげな旋律がどこからか聞こえてくる。
「どこだろう?」
何故かその音が強く耳に残った私は、音源の正体を探ろうと足を止めて、周囲を見回してみた。
「いた」
街灯の下。人が四人は並んで座れるほどのベンチに、一人座る男の人。歳はたぶん私と同じぐらい。赤みの強い茶髪におしゃれっけのないTシャツとパンツ。その手にはやや古い感じがするギターを持っている。
男の人は夜空を見上げ、時折思い出したかのようにギターの絃を鳴らしていた。
間違いない。さっき聞こえてきた音は、あの人のギターが奏でる音だったのだ。
しかしどうして、これほどまでに気になってしまうのか。
男の人に見覚えはない。男の人が奏でる旋律にも聞き覚えはない。でも何故か、その旋律に私は懐かしさを感じてしまった。
だからだろうか。後ろ髪を引かれるかのような気持ちになり、私はその場を動けないでいた。
「お姉さん、どうしたの?」
近くで伴奏に合わせてダンスを踊っていた男の子が声を掛けてくる。
男の子は私の視線を辿ると、納得したように相槌を打った。
「あぁ、ゾンビ君? 不気味だよね、いつもああしてベンチに座って、空を見つめてるんだぜ?」
「へぇ……」
「何、ゾンビ君に興味あるの? 止めときなよ、今まで何度か彼に話しかけた子もいたけど、まともな返事が返ってきたことなんて一度もないんだぜ? まるで死人みたいだって、みんな言ってる。だから俺たちはゾンビ君って呼んでるんだ」
「そうなんだ、ありがとう」
お礼を言うと、男の子は再び自分のダンスに戻っていった。
(ゾンビ君、か……)
確かに暗い雰囲気を放っている。周りの人は誰も彼に見向きもしない。まるで幽霊のような存在だった。
しばらくゾンビ君を見つめていたが、彼は私に気付くこともなく、ギターを片付けると公園を去って行った。
「私も行こう」
いつまでもここで突っ立っているわけにはいかない。早く帰らないと、お母さんが心配してしまう。
私はそのまま公園を抜け、自宅へと帰路を急いだ。
それから何事もなく、家へと辿り着いた私は、家の鍵を開け、中へと入った。
「お母さん、ただいまぁ」
リビングでテレビを見ていたお母さんに声をかけると、お母さんはバッと立ち上がり、私のところへ駆け寄ってきた。
「今日は随分遅かったのね。何かあったの?」
「ううん、今日はお客さんが多くて、片付けに時間がかかっただけ」
「そう……知らない男の人とかと話をしたらダメだからね」
「うん、分かってる」
頭の中に、公園で見かけたゾンビ君の顔が一瞬浮かんで消えた。
あのとき感じた懐かしさは一体何なのだろうか。今度は勇気を出して、話しかけてみようか。
「あっ、そうそう」
お母さんの言葉に、私の思考は中断させられた。見ると、お母さんはポケットから、何かメモ用紙のようなものを取り出していた。
「今日のお昼頃ね、真理ちゃんから電話が来てたわよ」
「真理ちゃん?」
聞き覚えのない名前だった。首を傾げていると、お母さんはハッとしたように悲しみに表情を曇らせた。
「天音ちゃんが中学生のときのお友達よ。貴方達、とても仲が良くて、いつも一緒にいたのよ。でもお父さんのお仕事の都合で、大阪の方に引越しちゃったのよね」
「そう、なんだ……」
「……電話番号、ここにあるから気が向いたら電話してあげてね」
「うん」
電話番号をメモした紙を受け取り、私は自室へと戻った。
ベッドにバッグを置き、渡されたメモを見つめた。
「中学生のとき、か……」
思い出そうとするが、そこには何もない。ただの闇しかなかった。
私には記憶がない。正確には高校三年から前の記憶がないのだ。
お母さんが言うには、私は高校三年の夏休みに交通事故に遭い、そのときに頭を強く打ったことが原因で記憶喪失になったらしい。お母さんやお父さんから昔のことを聞き、過去を補完したけど、それは今の私とは違う【わたし】の話だった。
今の私は【私】であって、【わたし】ではないのだ。
「電話、どうしよう……」
昔は仲が良かったのかもしれないけど、今の私からすれば全く知らない人だ。
向こうは【わたし】に親しげに話してくるけど、【私】はどう話したらいいのか分からない。
過去にも何度かそういう経験があり、そのたびに私は言い知れない距離感のようなものと疎外感を感じてきた。
受話器を取り、じっとナンバーディスプレイを見つめる。
しばらく悩んだ後、私は決心してメモの番号を押した。
数回のコールの後、電話が繋がる。
「もしもし、大塚ですけど」
「あ、あの、私、橘天音って言います。ま、真理さんは……」
「えっ、天音!? ウチや、ウチ!」
「えっ、えっ?」
ウチと言われても誰のことだか分からない。もしかして……
「ま、真理さん……ですか?」
「真理さんだなんて他人行儀やわぁ。昔みたいに真理ちゃんって呼んでぇや」
「う、うん」
会話が噛み合わない。このときに感じる相手との距離感が私は嫌いだった。
「それでお話って?」
「ああ、そうそう! この前な、そっちに引っ越してきたんよ。良かったら、会えへんかなって思って」
「えっと、その……私、バイトがあるから」
「あっ、そうなん? 何やってんの?」
「駅前のミルクホールで、ソレイユってところ」
「ああ、知ってる知ってる! じゃあ、明日そこに行くわ」
「えっ、でも!?」
「ええから、ええから。じゃあお昼頃に行くからなぁ」
結局何を言っても真理ちゃんは意見を覆すことはなく、明日のお昼にソレイユに来ることになった。
私はベッドに横になると、大きくため息を吐いた。
「……どうしよう。真理ちゃんは私の記憶がないことを知らないんだよね……」
明日のことを考えると、気分が重くなる。
「どうして私、記憶喪失になんてなったんだろう……」
そんな泣き言を言ってもどうにもならないのは知っているけど、思わず昔の【わたし】に毒づいてしまう。
「……お風呂入って、もう寝よう」
私は起き上がると、バスルームへと向かった。