Missing Memory (8)
休日の夜、私は真理ちゃんと、とある場所に来ていた。
目の前には、小汚い印象を受ける小さなコンクリートの建物が建っている。
中からはパン、パンと小気味いい音や、男の人の大きなかけ声が漏れ聞こえていた。
「ねぇ、やっぱりやめようよ」
「ここまで来て、今更何言ってるんよ」
尻込みする私を、真理ちゃんが呆れた表情で見返してくる。
視線を上げると、建物の入り口には年季の入った木製の看板。そこには大きな字で有田ジムと書かれていた。
そう、ここは私の家から電車で三駅離れた場所にあるボクシングジムだ。
どうして私がこんなところにいるのか。その理由は昨日の夜にかかってきた真理ちゃんからの電話にあった。
「天音ちゃん、明日の夜は暇?」
「えっ、うん。明日は仕事も休みだけど……どうしたの?」
「うち、行きたいとこあるんやけど、一緒について来てくれへん?」
「別にいいけど……どこに行くの?」
「そんな遠いとこちゃうよ。電車で三駅ぐらいかなぁ。じゃあ、明日の夜八時ぐらいに迎えに行くな!」
「えっ、あ、真理ちゃん?」
詳しい話を聞く間もなく、一方的に通話が切れる。
私は小首を傾げながら、受話器を戻した。
「何だろう、凄く嫌な予感がする」
そして、このときの私の予感は見事に的中することとなったのだ。
「ここって、もしかして……」
「うん、健君が通ってるボクシングジム」
それはもう晴れやかな笑顔で真理ちゃんが頷いた。
「いやぁ、由美子さんに健君の友達を紹介してもろたんよ。隆文って人でな、すっごい楽しい人やったよ」
「隆文さん……」
あの人か……
そういえば、健さんとは知り合いなんだった。隆文さんなら健さんの所在などを詳しく知っていてもおかしくはないだろう。
「で、健君の通ってるジムの場所を教えてもろうて。天音ちゃんをそこへ連れて行こうって、うちが計画したんよ」
「はぁ……」
あまりのことに、ため息しか出てこない。
「あ、あのね、真理ちゃん。何度も言ってるけど、私と健さんは別にそういう関係じゃないから」
「じゃあ、健君のこと嫌いなん?」
「き、嫌いってわけじゃないけど……」
私の健さんに対する気持ち。それを言葉にすると、何が一番ふさわしいのだろうか。
感謝? 尊敬? 確かにそういう気持ちは持っているけど、それだけじゃない気がする。
じゃあ、好意?
……分からない。確かに健さんのことは好きだ。だけど、それが異性--つまり一人の男性として好きなのか、それとも彼の人となりが好きなだけなのか。
考えれば考えるほど、自分で自分の気持ちが分からなくなってくる。健さんのことを考えると、胸の奥の方で何かが疼くのだ。まるで昔の【わたし】が訴えかけてくるかのように。
そのせいだろうか、どうしても私は健さんに対する気持ちというものを、はっきりと意識することが出来なかった。曖昧な好意。それが今、私が健さんに抱いている気持ちなのだろう。
「ほな、中に入ろか」
「ちょ、ちょっと!」
中へ入ろうとする真理ちゃんを、私は慌てて押しとどめた。
「用もないのに、こんなところ入れないよ」
諦めてもらおうと、必死に説得するも真理ちゃんは素知らぬ顔。
「用ならあるよ。ほら、これ」
そう言って、真理ちゃんはバッグの中から小さな紙袋を取り出した。
「健君に介抱してもろうたお礼渡そうと思って、来たんよ」
「そ、それだったら、私は必要ないじゃない」
「一人やと心細いやん? まぁ、話はうちがするから、天音ちゃんは後ろついて来たらええよ」
真理ちゃんがドアを開ける。仕方なく、私も真理ちゃんの後を追いかけるようにして、中へと入った。
外観とは異なり、内装は多少の傷みこそあるものの、しっかりとした作りになっていた。入口からはまっすぐ通路が伸びており、左右にいくつか部屋が点在している。各部屋は更衣室やリングに繋がっているのだろうか。
「おっ、見かけない顔だね。入会希望かい?」
建物の中に入るとすぐに、初老のおじさんが声をかけてきた。トレーナーの人だろうか。背が高く、白髪の髪を後ろに撫で付けて鬚をきちんと剃ったその姿は、紳士然とした印象を醸し出している。
「あ、入会じゃなくて、人を探してるんです。高城健って人なんですけど、ここにいるって聞いて」
真理ちゃんが事情を説明している。おじさんは心当たりがあるのか、「あぁ……」と短く頷いた。
「高城君か。彼なら、会長とスパーしてるんじゃないかな。ちょっと呼んで来ようか?」
「お願いします」
ちょっと待ってて、とおじさんは通路の右奥にあるドアへと入っていった。
「なんだか緊張するね……」
「平気やって。うちに任せとき。ちゃんと二人の時間作ったるから」
「だ、だからっ」
反論しようとしたとき、ドアからさっきのおじさんが戻ってきた。
「ごめんよ。高城君、どうやら今は走り込みに行っていて、ここにいないみたいなんだ。もうちょっとしたら戻ってくると思うから、中で待っているといいよ」
あっ、いないんだ。
ホッとする反面、彼がいなかったことに残念がる自分がいて、私はドキリとする。
「じゃあ、そうさせてもらおうかなぁ」
中で待つのを断り、私と真理ちゃんは入口横に設置された小さな椅子に腰かけた。おじさんは指導があるのか、また先ほどの部屋へと戻っていった。
「ここにいると、よく声が聞こえるよね」
外にいたときよりもはっきりと、サンドバッグを叩く音や、掛け声などが聞こえてくる。
健さんもこうやって、ここで汗を流しているのだろうか。
健さんがボクシングをしている姿を想像してみる。
……ちょっと格好いいかもしれない。
「ん? なんや、その顔。もしかして、健君の恰好いい姿でも妄想しとったん?」
「し、してないし!」
慌てて頭を振る私の姿がよほど滑稽だったのか、真理ちゃんがケラケラと笑う。
(遊ばれてるなぁ……)
それから少しの間、真理ちゃんと雑談していると、唐突に入口のドアが開かれた。
視線を向けると、背の低いお爺さんが建物の中に入ってきたところだった。禿げ上がった頭に、鷹のような鋭い目つき。どうしよう、凄く怖い。頬に傷でもあったら、完全にそっちの道の人に見えそうだ。
お爺さんの視線が私たちへと向けられる。その眼光にすくんでしまったかのように、私も真理ちゃんも動くことが出来ないでいた。
「ん?」
お爺さんは、どういうわけか私のことをじろじろと見つめてきた。
怖いから、あまり見ないでほしいんだけど……
「嬢ちゃん」
「は、はいっ」
発せられた声にも張りがある。私は肩をびくつかせながらも、なんとか返事を返した。
「嬢ちゃん、もしかして天音ちゃんかい?」
「……えっ?」
お爺さんの口から発せられた意外な言葉に、私は目を見開いた。
「ど、どうして、私の名前を……」
「あぁ、やっぱりそうかい。随分懐かしいのう。すっかりべっぴんになって」
「天音ちゃん、この人と知り合いなん?」
当然、そんなわけない。私はこのお爺さんとは完全に初対面だ。それなのに、彼は私のことを知っていた。ということは、彼は【わたし】の関係者なのだろうか。
「あ、あの……」
「前は毎日のように健の野郎の応援に来てたのに、途中からばったり来なくなったもんだから、何かあったのかって心配してたんだよ」
「……健さんの、応援に? 私が?」
「おう。って、なんだ忘れちまったのか?」
怪訝そうな顔でこっちを見つめるお爺さん。私はどう答えたらいいのか分からず、曖昧な言葉を吐くばかりだった。
「えっと、そうそう! 天音ちゃん、進学の関係で、この町を離れてたんよ。で、大学を卒業して、こっちに戻ってきたっていうわけで!」
真理ちゃんが慌ててフォローしてくれる。それで合点がいったのか、お爺さんは小さく頷いた。
「なるほど、それで久しぶりに健の野郎に会いに来たってわけか。ってことは、まだ健とはこれが続いてるんだな。そいつぁ、良かった。あいつは不器用なやつだからな、天音ちゃんみたいな子がついていてやんねぇと、心配でよ」
お爺さんはそう言って、小指をピンと立てて見せた。
小指を立てるのって、えっと、確か……
「あ、あの……私と健さんって、昔は、その……」
「なんだい、今更照れることねぇだろう。あんたら、恋人同士なんじゃなかったのかい?」
「恋人……私と、健さんが?」
どういうことだろう。私は過去にこのジムを頻繁に訪れていた。それは恋人の健さんの応援のため?
胸がざわめいている。それはまるで触れてはいけないものに触れようとしていると、心が警鐘を鳴らしているかのようで。
「あ、あのっ」
何か言おうと口を開くが、なぜか言葉が出てこない。
心臓の鼓動の音がうるさいぐらいに聞こえていた。息が上手く吸えない。足元がぐらついた。頭の中が真っ白になっていく。不安で胸が押しつぶされそうになる、
「おいっ!」
散り散りになろうとしていた私の意識を繋ぎ止めたのは、聞き知った声。
入口のドアを乱暴に開け、トレーナー姿の健さんが入ってきた。健さんは私の腕を掴むとそのままの勢いで私を外へと連れ出した。
「なんで、お前がここにいるっ」
「わ、私は……」
詰問するかのような、鋭い健さんの声。彼はどういうわけか本気で怒っているようだった。
私は健さんに理由を説明しようとした。
健さんにお礼を言いたい真理ちゃんについてきただけ。
ただ、それだけ。それだけなのに……
「……っ」
やはり声は出なかった。
「…………すまない」
冷静になったのか、健さんは視線を逸らしながら謝ってきた。
「…………」
それでも私は何もしゃべることが出来ないでいた。
聞きたいことは山ほどあったはずなのに。何も聞けない。聞くことが怖い。私の心を占めているのは恐怖。だが、私が一番戸惑ったのは、その恐怖が健さんに対するものではなく、私自身に対するものだったということだ。
私は私自身に理由もなく恐怖していた。
「すまないが、今日は帰ってくれ。今度、店に顔を出す。そのときに話をさせてくれ」
それだけ言うと、健さんはジムの中に入っていった。入れ替わりに真理ちゃんが外へ出てくる。
「天音ちゃん……」
どう声をかけたらいいのか分からないといった感じで、代わりに真理ちゃんは私の手をぎゅっと握ってくれた。
「なんか、ごめん」
「ううん、大丈夫。大丈夫だから」
やっと声が出せたことにホッとする。
そして私たちは帰路に着いた。終始お互いに無言だったけど、私の手を握ってくれる真理ちゃんの手の温もりが、沈んでいた私の心を少しだけ軽くしてくれた。