Dear my (3)
明日はバイトが休みということで、俺は雄一郎の家に遊びに来ていた。
雄一郎の家は区内の外れにあるワンルームマンションの一室にあった。
簡易テーブルを挟み、俺は雄一郎と向かい合うようにして座っていた。テーブルの上にはカセットコンロが置かれ、その上では土鍋がぐつぐつと音を立てていた。
「ふぅん、バイト先にそんな子がいるんだ?」
茹で上がった肉をぱくつきながら、雄一郎は意味ありげに笑う。
「何だよ、その笑みは……?」
「いやいや、お前がそこまで意識するなんて、よっぽどの子なんだなと思ってさ」
「ば、馬鹿っ! 違うっての! 俺はただっ!」
「はいはい、その三島さんだっけか? その子の態度がもう少し柔らかくなればいいのにって言うんだろ?」
「そ、そうだよ……」
俺は出掛かっていた言葉を豆腐と一緒に飲み込んだ。
今話題に上がっているのは、三島さんについてだった。先日のパスケースの一件のときの愚痴から始まり、今は雄一郎の三島さんへの品評会になっていた。
もちろん雄一郎は三島さんに会ったことなどなく、俺の話から推測しているだけだが、雄一郎は何故かとても楽しそうだった。
「要はあれだ。今流行りのツンデレって奴だな」
「はぁ?」
雄一郎は肉を掴んだまま箸を俺に、ズイっと向けてくる。
「最初はツンツン、後でデレデレ。その二面性がいいって、世間じゃもちきりだぜ?」
……どこの漫画の話だ。そんな人間が現実にいるはずがない。
「三島さんはそんなんじゃないよ。何て言うんだろ……」
俺は上手く言葉にならない気持ちをなんとか形にしようと、必死に考えをまとめてみる。
以前までの俺にとって、三島さんは淡白で愛想の欠片もないようなただの同僚だった。でも、今の俺は三島さんに対する認識が少しずつ変わってきている。三島さんは淡白なんかじゃない。どうも無理に肩肘を張っているだけのように感じるのだ。
それに気付いたのは、先日のパスケースの一件。あれがきっかけで、今までの三島さんに対する認識が間違いだということを知った。
三島さんにも感情があり、彼女は何らかの理由からそれを押し隠している。非情を演じている。そう気付いたのだ。
だからだろうか? 三島さんのことが気になり始めていた。
何が彼女をそう変えてしまったのか、知りたかった。
そして……出来ることなら、彼女が人並みに笑うところを見てみたい。そう思うようになったんだ。
でもそのためにはどうしたらいいだろうか? 俺に何が出来るだろうか?
「こりゃ重症だな……」
思考の海から我へと帰ると、鍋から立ち上る湯気の向こうで雄一郎が缶ビールを煽りながら肩をすくめていた。
雄一郎との鍋パーティから一時間、缶ビールがなくなり、俺は近くのコンビニへと買い出しに出ていた。
雄一郎の家の近くを流れる川を下流に十分ほど下っていくと、目的のコンビニがあった。
自動ドアをくぐると、冷たい人工の風が体を包み込む。
レジの横を素通りして酒の入っている冷蔵庫まで行こうとするが、レジに立つ思わぬ人物に気付き、俺は思わずその場で立ち止まってしまった。
「……三島さん?」
名前を呼ばれ、バイトのときと同じ淡白で感情のない瞳が俺へと向けられる。
「えっと、俺のこと覚えてる? 駅前のファミレスで一緒に働いてる小沢。小沢雅也」
「…………」
レジに立つ三島さんは肯定するでも否定をするでもなく、じっと俺を見つめている。何となく威圧感を感じるが、それが彼女の偽りの姿だと知っているため以前ほどプレッシャーは感じない。
周りに客がいないことを確認して、三島さんに話しかけようとした矢先、レジの奥にある扉がガチャリと開いた。そして中から四十過ぎぐらいのおじさんが出てくる。
「遅れてごめんね。三島さん、上がっていいよ」
「……はい」
短く頷くと、三島さんはおじさんが出てきた部屋へと入っていく。
俺は話しかけるタイミングを逃し、思わず頬をかく。
「君、三島さんの友達かい?」
三島さんの代わりにレジに立ったおじさんは、俺に笑顔で話しかけてくる。胸元の名札を見ると、堂本大介と名前が打ってあった。スキンヘッドの恰幅のいいおじさんだ。柔和な顔と雰囲気はどことなく安堵感を覚える。
「あっ、いえ……同じバイトで働いているんです」
「バイト? バイトって、市場の?」
「…………えっ?」
市場? 何のことだ?
訝しむ俺を見て、堂本さんは納得したようにため息を吐いた。
「どうやらまたバイトを増やしているみたいだね……」
「あ、あの……貴方は三島さんについて何か知っているんですか?」
「ん? ああ、知っているといっても、少しだけどね」
「そ、その、三島さんって、いくつもバイトを掛け持ちしてるんですか?」
俺の問いに、堂本さんは困ったように眉を潜めた。
「そうみたいだね。どうも家計が厳しいみたいで、少しでも親御さんの助けになろうと毎日色々な仕事をしてるみたいだよ。いまどき珍しい健気な子さ。無口なのが玉に瑕だけどね」
家計が厳しい……つまり家が貧乏で親の助けとなるためにバイトの掛け持ちをしているってことか。
『……お金が必要だから』
先日、三島さんがそう言ったのはそういう理由からだったんだ。
『お金って……何か欲しいものでもあるの?』
『そんなものないわ』
欲しいものがあるわけでもなく、親のために。
『じゃあ、どうして?』
『それは…………っ!』
あのとき何かを言い留めたのは、そのことを言うのに抵抗を感じたからなのだろう。誰だって、自分の家が貧乏だとは言いたくないはずだから。
理由が分かると、何だかホッとした。
どうやら俺は、もっと三島さんが辛い境遇にいるのではないかと邪推していたようだ。
再びドアが開き、着替え終わった三島さんが出てくる。
「お疲れ様です」
俺へと視線を向けることなく、三島さんはコンビニを出て行く。
「あっ、ちょっと待って!」
俺は慌てて彼女の後を追って、コンビニを出た。
外へ出ると、今までの心地いい冷たい空気とは打って変わって、身を炙るような蒸し暑い風が吹いてくる。
俺は随分前を歩いている三島さんに駆け寄った。
「……まだ何かあるの?」
三島さんがスッと俺へと視線を向けてくる。俺は彼女の横に並びながら、自分が何も彼女に話しかける言葉を用意していなかったことに気付いた。
「あっと、その……」
必死に頭を回転させながら、話題を探す。
「そ、そうだ。今夜は一段と暑いよな?」
「平気よ。それじゃあ」
「あっ、ま、待ってくれよ! 途中まで一緒に行こうぜ?」
俺の言葉に、三島さんは不快と苛立ちをない交ぜにしたような表情を一瞬だけ滲ませる。
だけど拒絶するような言葉はなく、代わりに三島さんは若干歩くスピードを上げた。
「……何が目的なの?」
「えっ?」
視線は正面に向けたまま、三島さんが呟く。
「前に言ったはずよ。私には関わらないでって」
「あ、ああ……そういえば、そんなこと言われたっけ」
パスケースの一件のとき、俺は確かに三島さんに拒絶された。
「どうして私に関わるの? 何が目的なの?」
「目的って……そんな大層なものじゃないよ。ただ、三島さんと話がしたかったってだけだよ」
「私と話を? どうして?」
「どうしてって……そりゃ、その……」
何だか口にすることが憚れて、俺は思わず頬を掻いた。
訝しげに俺を見つめていた三島さんだが、やがて自己完結したのか、それ以上俺に話しかけてくることはなかった。
そして無言のまま、俺達は十字路まで差し掛かった。ここを北にまっすぐ行けば駅に着き、東に進めば雄一郎のマンションに着く。つまりはここでお別れということだ。
「あっ、俺こっちなんだ。三島さんは駅の方?」
「…………」
三島さんは何も答えることなく、西へと進路を変える。
駅に行くのではないということは、家がこの近くなのだろう。
「三島さんっ!」
俺は思わず三島さんを呼び止めた。しかし三島さんは止まることなく、路地を歩いていく。
「さっきの答えだけど、俺は三島さんと友達になりたいだけなんだ! ただ、それだけだから!」
「…………えっ?」
ピタリと三島さんの足が止まる。一瞬聞こえてきたのは、戸惑いと驚きの声。だけどそれも一瞬で、三島さんはそのまま路地の向こうへと歩いていった。
「友達になりたい、か……」
雄一郎のマンションへ戻りながら、俺はさっき自分が口にした言葉を思い返していた。
あのまま別れたらいけないと思い、ついその場の勢いで答えてしまった。
だけど、あれは紛れもなく俺の本心だった。
でも……
「俺、何言ってるんだろ……」
後になって恥ずかしさがこみ上げてくる。
「どこの漫画の話だっての……」
苦笑しながら、それでも少し浮かれた気持ちで、俺は夜空を見上げた。
頭上ではまん丸の月が神々しく大地を見つめている。
「さってと、さっさと戻って、雄一郎と一杯やるか……」
歩くペースを上げようとして、
「あっ……」
酒を買い忘れていたことに気付き、俺はもう一度コンビニへと走ることになったのだった……。
三島優衣は家への道を歩きながら、先ほどの出来事について思い返していた。
優衣の頭を占めているのは、自分に馴れ馴れしく話しかけてくる青年、小沢雅也についてだった。彼とは駅前のファミレスで一緒に働く、ただそれだけの関係。
それだけなのに……。
『さっきの答えだけど、俺は三島さんと友達になりたいだけなんだ! ただ、それだけだから!』
先ほどの彼の言葉が蘇ってくる。
「友達、か……」
口に出してすぐに頭を振る。自分で自分の考えていたことに腹が立ち、優衣は足元にあった石ころを思い切り蹴飛ばした。
「馬鹿馬鹿しい……」
優衣は知っていた。人間という生き物は偽善と言う名の皮を被った悪魔だということを。
甘い言葉を囁きながら近寄ってきて、こちらが心を許した途端に手のひらを返したかのように残虐な行為を平気で取ってくる。
優衣は知っていた。人間が誰も信用できないということを。今までの人生で嫌と言うほどに知り尽くしていた。
そして優衣が立ち止まった先には小さな一軒家が建っていた。
周りが全て敵だらけだった世界で、唯一の味方だった祖母が遺してくれた家。
明かりは消えており、何の音も聞こえてこない。
優衣はポケットから鍵を取り出すと、そっとドアを開けた。
何の温もりもない乾いた空気が優衣を出迎える。
「ただいま……」
声をかけるが、帰ってくる言葉はない。そこに一抹の寂しさを感じながら、優衣はリビングを抜け、階段を上がり、二階へと向かった。
向かい合うようにして並ぶ二つのドア。右側が優衣の部屋だった。そして左側は……。
「麻衣、帰ったよ……」
左側のドアをノックして、声をかける。だが、返事はなかった。
「入るね?」
優衣はドアノブに触れる。鍵はかかっていなかった。
そっとドアを開けると、視界一杯に深く重たい闇が広がった。
明かりが消え、カーテンは締め切られ、何の音もしない部屋。
そんな部屋の隅に置かれたベッド。そこに少女が座っていた。
優衣と瓜二つの顔立ち。違うところは、『あの日』以来伸びっぱなしになった髪が今では腰に届くほどになっているということ。そして……。
「麻衣、大丈夫だった?」
優衣は笑顔を作りながら、ベッドに座る‘妹’へと声をかける。
だが麻衣からの反応は何もなく、麻衣はただ虚空を見つめている。その瞳には光が灯っておらず、優衣には時折麻衣が人形のように見えてしまうことがあった。
そんな麻衣を見るたびに、優衣は心の内からこみ上げてくる激しい怒りを覚える。
笑顔の可愛い子だった。しかしもうその笑顔はここにはない。全て、自分勝手で強欲な大人たちが奪っていった。
優衣は麻衣の頬へ、そっと手を伸ばした。
温もりの感じない冷たい頬に、優衣は無性に悲しくなった。
「ごめん……ごめんね……」
知らず知らずの内に涙が頬を伝う。いくら懺悔しても何も変わらないことを知っているが、謝らずにはいられなかった。
もっと早く気付けていたら、もっと早く連れ出せていたら……後悔が涙と共に次々と噴き出てくる。
嗚咽をこぼす優衣を、いつしか麻衣が見つめていた。
「おねえちゃん……」
今にも消え入りそうなか細い声。しかし自分を呼ぶ声に優衣はハッと顔を上げる。
「おかえり……」
「うん……ただいま……」
相変わらず光の宿らない瞳。しかしその声に乗せられた深い想いに、優衣はさらに涙をこぼす。
「麻衣……」
優衣はギュっと力いっぱい、麻衣を抱きしめる。麻衣も弱々しくだが、抱き返してくる。
「守る……今度こそは絶対に守るからね。麻衣は私が守ってみせる」
優衣は麻衣のかさついた髪に顔をうずめながら、何度もそう口にする。
「もう誰も信じない……自分の力だけで私は麻衣と生きていくんだ……」
あの日誓った決意。それをもう一度口に出し、優衣は麻衣への想いを強く心に刻み込んだ。