第9話「俺の部下に手を出すな」
血の気が引く、とはこのことだろう。姫野マリアさんの悪意に満ちた心の声を聞き、私はその場で立ち尽くしてしまった。明日のプレゼン資料が入った、たった一つのUSBメモリ。それを彼女が、自分の手柄のために隠している。
どうしよう。今すぐ彼女の元へ行って「返しなさい」と問い詰めるべきか? でも、証拠はない。「知らない」としらばっくれられたら終わりだ。むしろ、私が彼女を疑っていると騒ぎ立てられ、被害者のふりをされるのが目に見えている。
締め切りは、明日の朝。今から作り直すには、時間が圧倒的に足りない。バックアップは……会社のサーバーにあるはずだけど、最新版ではないかもしれない。焦りと絶望で、心臓が嫌な音を立てていた。
「どうした、水無月。そんなところで突っ立って」
不意に、背後から低い声がかかった。振り返ると、そこには、いつの間にか黒崎部長が立っていた。彼の鋭い視線が、私の青ざめた顔と、荒れたデスクの上を、探るように見つめている。
「な、なんでもありません……! ちょっと探し物を……」
私は、咄嗟に笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉が引きつって、うまく笑えなかっただろう。部長に心配をかけたくない。ましてや、こんな社内のくだらないいざこざに巻き込みたくない。その一心だった。
しかし、黒崎部長は、私のそんな取り繕いなど、全てお見通しだったようだ。彼は私の狼狽した様子と、こちらを窺うように見ている姫野マリアさんの姿を、交互に数秒間見比べた。そして、何かを察したように、ふっと目を細めた。
その時の彼の心の声は、聞こえなかった。いや、あまりにも静かで、嵐の前の静けさのようで、私には捉えることができなかったのだ。
「姫野」
部長が、静かに彼女の名前を呼んだ。その声には、普段の叱責とは質の違う、氷のような冷たさが含まれていた。
「はいっ! なんでしょうか、部長っ!」
マリアさんは、待ってましたとばかりに、ぱっと笑顔を咲かせて部長に駆け寄る。
黒崎部長は、そんな彼女を、値踏みするような冷たい目で見下ろした。そして、静かに、しかし、フロアの隅々まで響き渡るような、有無を言わせない声で言った。
「お前が持っているものを、ここへ出せ」
「え……? わ、私、何も……」
マリアさんの笑顔が、ぴしり、と凍りついた。
「もう一度言う。俺の部下が探しているものを、今すぐ、ここへ出せ」
その声は、もはや脅迫に近いほどの威圧感を放っていた。マリアさんの顔から、急速に血の気が引いていく。彼女は、まさか自分の企みがバレているとは思ってもいなかったのだろう。目が泳ぎ、狼狽しているのがはっきりと分かった。
そして、私の頭の中に、地獄の底から響いてくるような、低く、唸るような音が届いた。
(グルルルルルルルル……! ガルルッ……!)
それは、自分の縄張りを、そして自分の大切な仲間を傷つけようとする敵に対して、ボスの猫が放つ、本気の威嚇音だった。殺意すら感じさせるほどの、激しい怒りに満ちた唸り声。その音に、私の体まで震え上がった。
フロアにいた他の社員たちも、ただ事ではない雰囲気を感じ取り、息をのんで成り行きを見守っている。
観念したのだろう。マリアさんは、震える手で自分のデスクの引き出しを開け、中から、私のものに違いないUSBメモリを取り出した。そして、俯いたまま、それを部長に差し出した。
黒崎部長は、そのUSBをひったくるように受け取ると、マリアさんを一瞥した。
「二度と、俺の部下に手を出すな」
それは、今まで聞いたこともないほど冷たく、鋭い一言だった。マリアさんは、小さく「はい……」とつぶやき、泣き崩れそうになるのを必死でこらえているようだった。
部長は、そんな彼女にはもう一瞥もくれず、私の元へと歩み寄ると、USBメモリを私の手に握らせた。
「……これで、大丈夫だな」
「あ……はい……ありがとう、ございます……」
私は、まだ状況がうまく飲み込めず、ただ呆然と彼を見つめることしかできなかった。なぜ、彼に分かったのだろう。私が何も言わなかったのに。
私の疑問を見透かしたかのように、彼は、ぼそりと言った。
「お前のことは、いつも見ているからな。少しでも様子がおかしければ、すぐに分かる」
その言葉と同時に、私の頭に響いてきたのは、先ほどの激しい唸り声とは打って変わって、心配そうな、優しい鳴き声だった。
(……にゃん……大丈夫か……? もう心配ないにゃ……俺が守ってやるからにゃ……)
自分が、彼の「仲間」として、彼の「守るべき対象」として、認識されている。その事実が、じわり、と胸に広がった。それは、大きな安堵感と、同時に、これ以上ないほどの幸福感をもたらした。
この人は、いつも見ていてくれたんだ。私が一人で耐えていることも、悩んでいることも、もしかしたら気づいてくれていたのかもしれない。
USBメモリを握りしめた私の手は、まだ少し震えていた。でも、心は、不思議なほど温かかった。彼が守ってくれた。その事実が、何よりも私を強くしてくれた。




