第5話「守りの『シャーッ!』」
プロジェクトは順調に進んでいるように見えた。黒崎部長の的確な指揮と、チームメンバーの努力。そして、彼の心の声という名の応援歌のおかげで、私のモチベーションも最高潮に達していた。しかし、好事魔多し、とはよく言ったものだ。事件は、クライアントへの最終提案を数日後に控えた、まさにそのタイミングで起こった。
問題の発端は、私たちのチームではなく、プロジェクトのデータを一部担当していた経理部の先輩社員の、単純な入力ミスだった。しかし、そのミスが、クライアントに提出する見積もり金額に、大きな誤差を生じさせてしまったのだ。
そして、運の悪いことに、その間違いに最初に気づいたのはクライアント側だった。先方から、怒りに満ちた声で部長の内線に電話がかかってくる。私は、電話口で厳しい言葉を浴びせられている部長の背中を、ただ青い顔で見つめることしかできなかった。
急遽、クライアントとの緊急ミーティングが設定された。先方の担当者は、明らかに苛立っていた。
「水無月さん、この見積もりを作成したのは、あなたですよね? なぜこんな初歩的なミスが起きるんですか。御社の管理体制はどうなっているんですか!」
矢面に立たされたのは、資料の最終的な取りまとめを担当していた私だった。経理部のミスだなんて、この場で口にすることはできない。それは、社内の不手際を外部に晒す行為であり、会社員として許されることではなかった。
「も、申し訳……ございません……」
弁解の言葉も浮かばず、ただ頭を下げることしかできない。冷や汗が止まらない。顔が青ざめ、手足が震える。クライアントの厳しい叱責が、槍のように私の心に突き刺さる。私が、私がこのプロジェクトを台無しにしてしまうんだ。
その時だった。
「お待ちください」
凛とした、それでいて静かな声が、会議室に響いた。黒崎部長が、私の前にすっと立ちはだかるようにして、割って入ったのだ。彼の大きな背中が、私をクライアントの厳しい視線から守る壁のように見えた。
「今回の件、全ての責任は、プロジェクトの総責任者である私にあります。部下の管理不行き届きであり、最終確認を怠った私のミスです。彼女を責めないでいただきたい」
冷静、かつ毅然とした態度。彼の言葉には、一切の揺らぎもなかった。
「本来であれば、このようなミスは万に一つもあってはならないこと。弁解の言葉もございません。ただ、このプロジェクトに懸ける我々の想いは本物です。どうか、もう一度だけ、我々にチャンスをいただけないでしょうか。修正した正式な見積書は、本日中に必ずお届けいたします」
そして彼は、深々と頭を下げた。完璧な「鬼部長」である彼が、全ての責任を自分一人で被り、クライアントに頭を下げている。
私は、彼の背後で、ただ息をのむことしかできなかった。そして、私の頭の中に、今までにないほど激しい音が鳴り響いた。
(シャーッ! フーッ! フーッ! この子をいじめるにゃ! 何か言うなら俺に言えにゃ! 俺の部下に手ぇ出すな!)
それは、自分の大切なものを守るために、全身の毛を逆立てて敵を威嚇する、本気の猫の叫びだった。怒りと、守るという強い意志に満ちた、猛々しい心の声。その激しい音は、私の恐怖をかき消し、代わりに、胸の奥底から熱いものがこみ上げてくるのを感じさせた。
部長の真摯な対応と気迫に押されたのか、あれほど憤慨していたクライアントの担当者は、しばらく沈黙した後、「……分かりました。今日の夕方まで待ちます。ただし、次はありませんよ」と、なんとか矛を収めてくれた。
会社に戻る道すがら、私たちは無言だった。重い空気が二人を包む。私は、何と言って謝罪すればいいのか、言葉が見つからなかった。
「あの、部長……本当に、申し訳ありませんでした。私のせいで……」
私がようやく絞り出した声は、情けなく震えていた。すると、彼は足を止め、私の方を向いた。いつもの厳しい顔。きっと、厳しい叱責が飛んでくるだろう。私は、ぎゅっと目を瞑った。
「……お前は、悪くない」
しかし、聞こえてきたのは、予想とは全く違う言葉だった。
「これは、チーム全体の問題であり、俺の責任だ。お前一人が抱え込む必要はない。……それより、よく耐えたな」
そう言って、彼は、大きな手で、私の頭をポン、と軽く一度だけ叩いた。それは、まるで、労わるような、優しい手つきだった。
顔を上げると、彼の表情は相変わらず険しいままだった。けれど、私の頭に響いてくる声は。
(くるるる……よく頑張ったにゃ……怖かっただろうに……もう大丈夫にゃ……くるるん……)
心配と、安堵と、そして労りに満ちた、温かい喉の音。
その瞬間、私の目から、堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。それは、悔しさや恐怖の涙ではなかった。守ってもらえた安堵感と、彼の優しさに対する感謝と、そして、もう一つ別の感情がない交ぜになった、温かい涙だった。
私は、この人の背中を、ただ「怖い」と思っていた。けれど、違った。この大きな背中は、こんなにも頼もしくて、温かい。
初めて、黒崎部長に対して「頼もしい」と、心の底から感じた。そして、この時、私の心の中に芽生えていた小さな蕾が、はっきりとその形を成したことを、私は自覚せざるを得なかった。




