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心の声が聞こえる私が唯一思考を読めない鬼部長、その本音は「にゃーん♡」という猫の声にしか聞こえませんでした  作者: 水凪しおん


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第4話「鬼の意外な弱点」

 子猫救出事件以来、私の「黒崎部長観察」は、新たなフェーズに突入していた。もはや彼に対する恐怖心はほとんど消え失せ、代わりに、彼の人間性をもっと知りたいという探求心が日増しに強くなっていた。


 そんな矢先、営業部に大きなチャンスが舞い込んできた。業界最大手のクライアントとの、大規模な共同プロジェクトが立ち上がったのだ。社の威信をかけたこのプロジェクトのメンバーに、私はなんと抜擢された。そして、そのプロジェクトの総責任者は、当然のごとく、黒崎部長だった。


「やったじゃない、莉奈! 大抜擢だよ!」


「水無月さん、すごい!」


 同期や先輩たちから祝福の言葉をかけられるが、私の心境は複雑だった。もちろん、大きな仕事を任されるのは光栄だ。しかし、それはつまり、鬼……いや、猫部長と、これまで以上に密接に関わることを意味する。彼の心の声を聞きながら、平静を装って仕事ができるだろうか。


 私の不安をよそに、プロジェクトは猛烈な勢いで始動した。オフィスには特設チームのデスクが設けられ、連日連夜、議論と作業が続いた。必然的に、黒崎部長と二人きりで残業することも増えていった。


「水無月、この部分のデータ、もう少し深掘りできないか。ターゲット層のインサイトが見えてこない」


「はい、すぐに取り掛かります」


 オフィスには、私たち二人分のキーボードを叩く音だけが響く。以前なら、この静寂と彼の存在感に押しつぶされそうになっていただろう。だが、今の私は違った。


 彼の厳しい指摘に「はい」と答えながらも、私の頭の中では別の声が同時再生されている。


(うーにゃ……ここが一番大事なところにゃんだ……がんばれ、水無月……にゃ……)


 頑張れ、と応援してくれている。しかも、私の名前を呼ぼうとして、途中で「にゃ」になってしまっている。可愛すぎる。危ない、また口元が緩むところだった。私は必死で表情筋を引き締め、真剣な顔でパソコンに向き合った。


 ある夜のこと。時計の針はとっくに午後十時を回っていた。集中していたせいか、急に空腹と疲労感がどっと押し寄せてくる。ぐぅ、と情けないお腹の音が静かなオフィスに響き、私は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。


 すると、隣で黙々と作業をしていた黒崎部長が、すっと立ち上がった。そして、何も言わずにオフィスの外へ出て行ってしまう。


(……怒らせてしまっただろうか。集中を乱した、と)


 そんな不安がよぎった数分後、彼はビニール袋を片手に戻ってきた。そして、私のデスクに、トン、と無言でいくつかの物を置いた。


 それは、一本の栄養ドリンクと、チョコレート、それにクリームがたっぷり入った甘そうなパンだった。


「え……?」


 驚いて顔を上げると、彼はもう自分の席に戻り、私に背を向けて作業を再開している。


「あの、部長……これ……」


「……腹が鳴っては戦はできん。集中しろ」


 ぶっきらぼうな、命令口調。でも、その声はいつもより少しだけ、柔らかい気がした。そして、彼の背中から聞こえてくる心の声は。


(……にゃあ……やれやれだにゃ……腹が減ってはいい仕事はできにゃいからな……しっかり食べるにゃ……)


 ……やれやれ、じゃないですよ。完全に、私のために買ってきてくれたんじゃないですか。


 その不器用すぎる優しさに、私の胸はきゅうっと締め付けられるような、温かい気持ちで満たされた。チョコレートの甘さよりも、ずっとずっと甘い感情が、心の中に広がっていく。


「ありがとうございます……! いただきます!」


 私が元気よくそう言うと、彼の背中から、満足げな「……ふん(にゃん)」という短い鳴き声が聞こえた気がした。


 この一件をきっかけに、私は彼の「意外な弱点」というか、人間らしい一面をさらに発見することになった。


 例えば、彼はいつもデスクでブラックコーヒーを飲んでいる。しかし、私が給湯室でコーヒーを淹れていると、彼がやってきて、周囲に誰もいないことを確認してから、こっそりと自分のマグカップに角砂糖を三つも投入するのを目撃してしまった。


(……にゃん……やっぱりブラックは苦いにゃ……これくらいがちょうどいいにゃ……)


 彼は、実は甘党だったのだ。鬼部長のイメージを守るためか、人前では決して甘いものを口にしないし、コーヒーもブラックで通しているらしい。なんて健気な努力だろう。その日から、私が彼のコーヒーを淹れる当番の時は、そっと砂糖を一つだけ多めに入れてあげるようになった。彼がそれに気づいているのかは分からない。でも、彼がコーヒーを一口飲んだ瞬間に聞こえる「ごろごろ……」という満足げな音が、私にとっての答えだった。


 またある時は、プロジェクトのことで激しく意見がぶつかり、私がつい反論してしまったことがあった。しまった、と思った時にはもう遅い。彼の眉間の皺が、これ以上ないほど深くなる。


(な、生意気なやつだにゃ……だが……その視点はなかったにゃ……グルル……こ、こっちの言い分の方が正しいにゃ……たぶん……いや、しかし……うーみゅ……)


 口では「素人が口を挟むな」と一蹴しながらも、心の中では私の意見を真剣に検討し、少し動揺しているのが丸分かりだった。結局、翌日になって「……昨日の件、一理ある。その方向で再検討しろ」と、ぼそりと言ってくれた。素直じゃないんだから。


 怖い鬼部長。そのイメージは、日々の小さな発見によって、少しずつ、しかし確実に塗り替えられていった。厳しいけれど、本当は優しくて、不器用で、甘党で、そして、誰よりも真面目に仕事と向き合っている人。


 プロジェクトは佳境を迎え、私たちの距離は物理的にも心理的にも、確実に縮まっていた。この胸の高鳴りは、連日の残業による疲れのせいだけではない。私は、その事実から、もう目を逸らすことができなくなっていた。

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