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心の声が聞こえる私が唯一思考を読めない鬼部長、その本音は「にゃーん♡」という猫の声にしか聞こえませんでした  作者: 水凪しおん


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第3話「猫の観察日記」

 黒崎部長の心の声が「猫」だと判明してからというもの、私の会社生活は一変した。恐怖に満ちた灰色の日々は、秘密の発見と戸惑いに満ちた、奇妙でカラフルなものへと姿を変えつつあった。私はまるで、未知の生物の生態を研究する学者のように、彼の観察にのめり込んでいった。私の脳内には、いつしか「黒崎部長観察日記」という名のファイルが作成されていた。


【観察記録1:会議中の生態】


 週に一度の定例会議。部長が難しい顔で分厚い資料の山と睨めっこしている。その眉間に刻まれた皺は、エベレストのクレバスよりも深い。部員たちは緊張した面持ちで、彼の言葉を待っている。静寂が、重くのしかかる。


(すぴー……にゃ……むにゃむにゃ……)


 ……寝てる? いや、正確には寝かけている? どうやら、難しい書類を集中して読んでいると、眠くなってしまう体質らしい。あの近寄りがたいほど集中しているように見える真剣な顔の裏で、子猫みたいに船を漕いでいるなんて、誰が想像できるだろう。時々、カクン、と僅かに彼の頭が揺れるたび、私は必死で口元を引き締めた。頑張って、部長。寝ないで。心の中で、私は彼にエールを送っていた。


【観察記録2:褒めるときの生態】


 大きな契約を決めてきた営業部のエース、高橋さんが部長に報告している。高橋さんの顔は、誇らしさと緊張で紅潮している。


「よくやった。だが、これで満足するな。次の目標に向けてすぐに切り替えろ」


 黒崎部長の口から出たのは、労いと、更なる高みを目指せという厳しい激励の言葉。相変わらずの鬼っぷりだ。高橋さんも「はい!」と背筋を伸ばして応えている。


 だがしかし。


(にゃっはー! にゃっはー! すごいにゃ! さすが俺の部下にゃ! 天才にゃ! よしよししてやるにゃ! ブラボーにゃ!)


 私の頭の中は、カーニバルのような大騒ぎになっていた。心の声がうるさい。喜びが爆発して、もはや鳴き声の原型を留めていない。外面のクールさと内面の熱狂。その温度差は、サウナと水風呂を行き来するレベルだ。私は、あまりのギャップに眩暈すら覚えた。高橋さん、あなた、心の中ではめちゃくちゃ褒められてますよ。頭をわしゃわしゃに撫でられていますよ。と、教えてあげたい衝動をぐっとこらえる。


 この観察を続けるうち、私は一つの事実に気づき始めていた。黒崎部長の厳しい言葉は、彼の本心ではないのかもしれない、と。不器用で、どうやって部下を褒めていいか、どうやって育てていいか分からない。だから、いつも厳しい言葉を選んでしまうのではないか。その裏には、部下への期待と、実はとても大きな愛情が隠されているのではないか。そんな仮説が、私の中で生まれつつあった。


 そんなある日のことだった。


 その日は朝から冷たい雨が降りしきり、夕方には本降りになっていた。私は残業を終え、くたくたになって会社を出る。早く家に帰って温かいお風呂に入りたい。そう思いながら、傘を差して駅へと向かっていた。


 会社の通用口のすぐそば、植え込みの影に、何かがいるのが見えた。目を凝らすと、それは小さな子猫だった。手のひらに乗るくらいの、生まれてまだ間もないであろう子猫が、冷たい雨に打たれ、震えながらか細い声で鳴いている。親猫とはぐれてしまったのだろうか。


 どうしよう。このままでは死んでしまうかもしれない。でも、私の家はペット禁止だ。何もできずに、ただ胸を痛めていると、背後から大きな影が私を覆った。


 振り返ると、そこにいたのは黒崎部長だった。


「……何をしている、水無月。早く帰らないと風邪を引くぞ」


 いつも通りの、冷たい声。私は慌てて「お疲れ様です!」と頭を下げる。彼に、子猫のことがバレないように、咄嗟に体をずらした。彼のような人が、こんな野良の子猫に興味を持つはずがない。むしろ、「くだらない感傷に浸っている暇があったら仕事をしろ」とでも言われかねない。


 しかし、私の心配は杞憂に終わった。いや、全く予想だにしない形で裏切られた。


 黒崎部長の視線が、私の足元、植え込みの影にいる子猫に注がれる。その瞬間、彼の纏う空気が、ほんの少しだけ揺らいだように感じた。


 彼は一瞬、誰も見ていないことを確認するように、素早く周囲を見回した。――私と目が合ったが、彼はそれに気づいていないのか、あるいは私を完全に無視したのか。


 次の瞬間、彼は驚くべき行動に出た。


 さっと子猫のそばに屈みこむと、大きな手で、壊れ物を扱うようにそっと子猫を包み込む。そして、着ていた高級そうなスーツのジャケットの内側、懐にそっと滑り込ませたのだ。一連の動作は、驚くほど自然で、手慣れていた。


 そして、私の頭の中に、今まで聞いたことのない、優しく、そして切ない響きが流れ込んできた。


(くるるるる……大丈夫か……? 寒かっただろう……もう大丈夫だからな……くるるる……)


 それは、親猫が子猫を安心させる時に出すと言われる、喉の奥を鳴らすような、愛情に満ちた音だった。雨の音も、街の喧騒も、何もかもが遠くに聞こえる。私の世界には、彼の優しい心の声だけが、温かく響き渡っていた。


 彼は、何も言わずに立ち上がると、懐の子猫を庇うように少しだけ体を丸め、雨の中を足早に去って行った。私は、その後ろ姿を、傘を差すのも忘れて、ただ呆然と見送っていた。


 鬼部長。冷徹な男。


 その評価が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。


 彼が本当に好きなんだ。猫が。心の底から。


 そして、彼は、とても、とても優しい人なんだ。


 観察日記に、また一つ、決定的な記録が追加された。今日の出来事は、私の中で「鬼部長」という存在を、完全に書き換えてしまうほどの、大きなインパクトを持っていた。胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。

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