第2話「鬼の心は猫の声」
あの衝撃的な会議室事件から数日。私はまだ混乱の渦中にいた。自分の能力が恒久的なエラーを起こしたのか、それとも一時的なバグなのか。それを確かめるべく、私は恐る恐る他の社員たちの心の声に耳を澄ませてみた。
「あー、疲れた。早く帰ってビール飲みたい」
「今日のランチ、何にしようかな。パスタがいいな」
「やばい、この仕事、締め切り明日じゃん」
……大丈夫だ。佐藤さんからも、田中課長からも、新人の鈴木くんからも、いつも通りの、人間の思考が聞こえてくる。私の能力は、正常に機能している。
――つまり、黒崎部長の心の声だけが、本当に「猫」になっているということだ。
その事実を認めざるを得なくなった私は、新たな悩みに頭を抱えることになった。今までは、ただ「怖い」という感情だけで彼から距離を取っていればよかった。しかし、今は違う。彼の姿を見るたびに、どうしても耳、いや、意識を集中させてしまうのだ。
月曜の朝礼。部長が、いつも通りの厳しい顔で、先週末の営業成績について部員たちを叱咤激励している。
「……以上、全体的に数字への意識が低いと言わざるを得ない。特に、Aチーム。目標未達の原因をどう分析している? 今日の午後までに報告書を提出しろ」
低い声がフロアに響き渡り、名指しされたAチームのメンバーは青い顔で縮み上がっている。私も背筋を伸ばし、緊張した面持ちで彼の言葉を聞いていた。表面上は。
しかし、私の頭の中に響いてくるのは、まったく別の音だった。
(にゃごにゃごにゃご! もっと頑張るにゃ! やればできるにゃ!)
……ぷっ。
危ない。思わず吹き出しそうになるのを、必死で唇を噛んで堪えた。怖い顔で部下を叱り飛ばしながら、心の中では一生懸命応援している猫がいる。なんだこのシュールな状況は。叱られているAチームには申し訳ないが、私の心の中では、恐怖よりも別の感情がむくむくと湧き上がってくるのを止められなかった。
好奇心だ。
あの日以来、私の中で「鬼部長」という存在は、「よく分からない、ちょっと(かなり?)怖い上司」から、「行動と心の声が全く一致しない、謎の生命体」へと変化していた。
その日の午後。営業部の電話が鳴り響き、ある部下が大きな契約を取ったという朗報が舞い込んできた。フロア全体が「おお!」という歓声と拍手に包まれる。黒崎部長は、その報告を受けても表情一つ変えず、ただ「そうか。ご苦労だった」と短く告げただけ。いつも通りの塩対応だ。
けれど、私の耳には、はっきりと聞こえていた。
(やったにゃー! にゃっはー! さすが俺の部下にゃ! 今夜はちゅーる祭りにゃ!)
……ちゅーる祭りって何!?
私はもうダメだった。俯いて、必死に肩を震わせる。笑いを堪えるのに、腹筋が痙攣しそうだ。喜びをまったく表に出さないくせに、心の中ではちゅーる祭りを開催するほど大はしゃぎしているなんて。
そして、またある時は。
部長が、分厚い企画書に目を通しながら、眉間に深い皺を寄せている。何か、非常に難しい判断を迫られているような、険しい顔つきだ。誰もが息を殺して、彼の次の言葉を待っている。私も固唾をのんでその様子を見守っていた。
(ふみふみ……ふみふみ……うーん……ふみふみ……)
前足で柔らかい毛布でも揉んでいるかのような、リズミカルな心の声。どうやら彼は、真剣に考え事をしている時、猫が甘える時にする「ふみふみ」という行動を心の中(?)でしているらしい。その事実を知ってしまった私は、彼の険しい表情が、なんだかもう、一生懸命考えている子猫にしか見えなくなってきていた。
怒っている時はどうだろうか。
先日、他部署のミスで営業部にクレームが入り、部長が対応に追われていた。受話器を片手に、普段よりさらに低い、ドスの利いた声で相手と話している。その眼光は鋭く、近づいたら斬り殺されそうなほどの気迫だ。
(シャーッ! フーッ! うちの子に何してくれるにゃ! グルルル……!)
……なるほど。怒っている時は、ちゃんと威嚇するんだ。でも、やっぱり猫だ。自分の縄張りや仲間を守ろうとする、ボスの猫のような激しい威嚇。その「うちの子」というのは、おそらく私たち営業部の部員のことだろう。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになった。怖いけれど、少しだけ、守られているような……?
いやいや、何を考えているんだ、私は。相手はあの鬼部長だ。その本質は何も変わらない。彼の冷たい言葉も、厳しい態度も、全て現実だ。
それなのに。
(ごろごろごろ……)
給湯室で、彼が自動販売機で買った缶コーヒーを一口飲んだ瞬間。ほんの一瞬だけ、彼の目元が和らいだように見えた。そして、私の頭の中に響いたのは、満足げに喉を鳴らす、穏やかな音。
怖い。恐ろしい。でも、面白い。そして、なんだか、可愛い……?
日を追うごとに、黒崎部長の心の声は、様々なバリエーションで私の頭の中に流れ込んできた。そのシュールなギャップに、私の感情はジェットコースターのように揺さぶられる。今まで恐怖でしかなかった彼の存在が、気づけば、目で追ってしまう「観察対象」へと変わり始めていた。
この能力が、こんな形で私の日常をかき乱すなんて、今まで一度もなかったことだ。私は、この先自分がどうなってしまうのか、期待と不安の入り混じった、複雑な気持ちで、今日もまた「鬼」であり「猫」である上司を、こっそりと見つめるのだった。




