第13話「嵐の夜の二人きり」
黒崎部長との「考えてやらんでもない」食事の約束を取り付けたものの、お互いの仕事が忙しく、具体的な日程はなかなか決まらなかった。それでも、私の心は浮き立つような期待感で満たされていた。
そんなある日の午後、天気予報が、大型で非常に強い台風の接近を告げた。夕方から夜にかけて、関東地方を直撃する見込みだという。会社からは、全社員に早めの帰宅を促す通達が出された。
「水無月、お前も早く帰れ。電車が止まるぞ」
「はい。部長も、お気をつけて」
他の社員たちが次々とオフィスを後にしていく中、私は急ぎの仕事を片付けていた。もう少しで終わる。そう思っていた矢先、窓の外が急に暗くなり、ゴロゴロという不気味な音が響き始めた。そして、バケツをひっくり返したような、猛烈な雨が窓ガラスを叩きつける。
慌てて携帯で運行情報を確認すると、時すでに遅し。私が利用する沿線は、強風の影響で運転を見合わせているという非情な知らせが表示されていた。
「……嘘でしょ」
呆然とつぶやく私に、まだオフィスに残っていた黒崎部長が声をかけた。
「どうした」
「あ、いえ……電車が、止まってしまって……」
彼は自分のPCで状況を確認すると、「他の路線も時間の問題だろうな」と、眉間に皺を寄せた。
「タクシーも、この状況ではまず捕まらん。……仕方ない。今夜は、会社に泊まるぞ」
「ええっ!?」
会社に、泊まる? この、黒崎部長と、二人きりで?
私の頭の中は、台風情報よりも、もっと大きな嵐に見舞われていた。
「総務に連絡して、仮眠室の毛布などを持ってきてもらう。お前は、何か必要なものがあれば今のうちに売店で買ってこい」
彼は、動揺する私を尻目に、冷静に、淡々と指示を出す。その落ち着き払った態度に、私は少しだけ我に返り、「は、はい!」と頷いた。
夜が更けるにつれ、風雨はさらに勢いを増していく。誰もいなくなった広大なオフィスは、不気味なほど静まり返り、時折響く風の唸り声だけが、現実感を際立たせていた。
そんな中、突然、バチン! という音と共に、オフィスの照明が一斉に消えた。
「きゃっ!」
予期せぬ停電に、私は思わず小さな悲鳴を上げた。完全な暗闇。窓の外で荒れ狂う嵐の音だけが、やけに大きく聞こえる。どうしよう。怖い。
心細さで体が震えそうになった、その時だった。
「……落ち着け、水無月。俺はここにいる」
すぐそばから、黒崎部長の声がした。そして、暗闇の中で、私の腕が、大きな手によって、そっと、しかし力強く掴まれた。
「ぶ、部長……」
「ただの停電だ。すぐに復旧するかもしれんし、ダメでも非常灯がつくはずだ」
彼の声は、不思議なほど落ち着いていた。その声と、腕を掴む手の温かさに、私の恐怖心は少しずつ和らいでいく。そして、私の頭の中に、優しい音が響いてきた。
(くるるるん……大丈夫だにゃ……怖くないにゃ……俺がそばにいるからにゃ……くるるん……)
それは、不安がる子猫を安心させる、親猫の喉の音。その温かい響きに、私の心は完全に落ち着きを取り戻していた。
やがて、ぼんやりとしたオレンジ色の非常灯が点灯し、完全な暗闇からは解放された。しかし、彼は、私の腕を離そうとはしなかった。
「……少し、このままでいていいか」
「……はい」
私たちは、薄暗いオフィスの中で、無言のまま、しばらくそうしていた。嵐の音と、彼の心の穏やかな「ごろごろ……」という音が、不思議なハーモニーを奏でている。
このドキドキする気持ちは、ただの吊り橋効果なのだろうか。非日常的な状況が、私を大胆にさせているだけなのだろうか。
いや、違う。
私は、彼の隣にいると、心の底から安心できる。彼の心の声が聞こえるからだけじゃない。彼の存在そのものが、私にとっての安息の場所になりつつあるのだ。
「……腹、減ったな」
沈黙を破ったのは、彼のそんな一言だった。私は思わず、くすりと笑ってしまった。
「そうですね。何か食べましょうか」
私たちは、売店で買っておいたカップラーメンやスナック菓子を、非常灯の明かりを頼りにデスクに広げた。まるで、秘密基地にいる子供みたいだ。
お湯を注いだラーメンを二人で啜りながら、私たちは、普段は決してしないような、他愛もない話をした。好きな映画の話、学生時代の話、そして、彼が昔飼っていた「シロ」という猫の話。
「あいつは、本当に賢いやつでな。俺が落ち込んでいると、いつもそばに寄ってきて、喉を鳴らすんだ。まるで、慰めてくれているみたいに」
そう語る彼の横顔は、今まで見たどんな顔よりも、優しくて、少しだけ寂しそうだった。
私は、その時、確信した。
この気持ちは、本物だ。嵐の夜が生んだ、一過性の感情なんかじゃない。私は、この不器用で、優しくて、大きな猫のような人が、心の底から好きなのだ。
台風は、まだ外で荒れ狂っている。でも、私の心の中は、嘘のように、穏やかで、温かい光に満たされていた。彼の心の「ごろごろ」という音に耳を澄ませながら、私は、この夜が、永遠に続けばいいのに、とさえ思っていた。




