第12話「心の声の変化、そして期待」
黒崎部長の過去を知ってから、私の中で何かが変わった。彼の心の声を聞くたび、その背景にあるであろう彼の寂しさや優しさを想い、胸がきゅっとなる。そして、そんな私の心情の変化に呼応するかのように、彼の心の声そのものにも、僅かな、しかし確実な変化が現れ始めたのだ。
以前は、彼の心の声は、状況に応じた「にゃーん」や「ごろごろ」といった、純粋な猫の鳴き声だった。しかし、最近、私が彼の近くにいる時だけ、その声に、不思議な響きが混じるようになったのだ。
例えば、私が資料を彼のデスクに持って行った時。
「部長、頼まれていたデータです」
「ん、ああ」
彼は資料を受け取ると、いつものように無表情でそれに目を通す。しかし、彼の心の中からは……。
(……りな……にゃ……? よくできたにゃ……)
「りな」?
確かにそう聞こえた。私の名前を、猫の鳴き声に混ぜ込むように、心の中で呼んでいる……?
最初は気のせいかと思った。でも、それは一度だけではなかった。
私が給湯室でコーヒーを淹れていると、彼がやってきて、隣に立った時。
(……いい匂いがするにゃ……りなの……匂いかにゃ……)
りなの匂い!?
私は、危うく持っていたマグカップを落としそうになった。慌てて彼から距離を取る。心臓が、ありえないくらい大きな音を立てている。そんなことを心の中で思われているなんて、恥ずかしすぎて彼の顔を直視できない。
極めつけは、営業部の飲み会でのことだった。他の男性社員が、私に「水無月さん、最近綺麗になったよね。彼氏でもできた?」と、からかうように話しかけてきた。
「い、いえ! そんなことないです!」
私が慌てて否定していると、少し離れた席に座っていた黒崎部長の方から、明らかに不機嫌そうな心の声が飛んできたのだ。
(……みゃっ! ……むっ……!)
それは、まるで、お気に入りのおもちゃを横取りされそうになった猫のような、短いけれど、嫉妬と不満がたっぷりと込められた鳴き声だった。そして、その声に続いて、さらに小さな声で、こう聞こえたのだ。
(……俺のだにゃ……りなは、俺の……)
俺の!?
もう、ダメだった。その言葉を聞いた瞬間、私の顔はカッと熱くなり、茹でダコのようになってしまったに違いない。「ちょっと、お手洗いに……」と、その場から逃げ出した私は、トイレの鏡に映る真っ赤な自分を見て、さらにうろたえた。
もしかして。
もしかして、部長も、私のことを……?
淡い、本当に淡い期待が、私の心の中に芽生え始める。もちろん、自惚れかもしれない。ただ、彼の心の猫が、私に特別に懐いてくれているだけなのかもしれない。
でも、そうであったとしても、彼の無意識が、私を特別な存在だと認識し始めているのではないか。そう考えずにはいられなかった。
その期待は、私の行動を少しだけ大胆にさせた。
ある日、残業で二人きりになった時。私は、勇気を振り絞って、彼に話しかけてみた。
「部長、この間の猫のクッキー、ありがとうございました。すごく美味しかったです」
彼は、パソコンの画面から目を離さずに、短く「……ああ」と答えただけだった。やっぱり、私の一方的な思い込みなのかも。少しだけ落ち込みかけた、その時。
(……にゃん! 覚えててくれたのかにゃ……! 喜んでくれたみたいで、嬉しいにゃあ……ごろごろ……)
言葉とは裏腹に、心の中は喜びで溢れている。そのギャップに、私の心は再び温かくなった。いける、かもしれない。
「それで、あの……もし、迷惑じゃなかったらなんですけど……」
私は、さらに続けた。
「今度、その……お礼に、私に何かご馳走させていただけませんか?」
言ってしまった。これはもう、ほとんどデートの誘いではないか。私の心臓は、破裂寸前だった。
黒崎部長は、ピタリ、と動きを止めた。そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、私の方を向いた。彼の顔には、驚きと、戸惑いと、そして、ほんの少しの……期待? のような色が浮かんでいるように見えた。
彼の心の声は、かつてないほどに、混乱していた。
(にゃ、にゃんだとー!? りなと、食事……!? デートのお誘いにゃのか!? え、どうするにゃ、俺! スーツはこれでいいのかにゃ!? 髪型は崩れてないかにゃ!?)
心の猫が、大パニックに陥っている。その様子が、あまりにも可笑しくて、そして愛おしくて、私は思わず吹き出しそうになった。
彼は、数秒間、何かを必死に考えているようだったが、やがて、咳払いを一つすると、いつも通りの低い声で、こう言った。
「……まあ、お前の気が済むなら、考えてやらんでもない」
ツンデレ!
これぞ、ツンデレの極みだ!
(やったにゃー! やったにゃー! りなとデートにゃー! にゃっはー!)
心の中では、ちゅーる祭りが再び開催されている。
私は、込み上げてくる笑いと喜びを必死に抑え込み、「本当ですか!? ありがとうございます!」と、満面の笑みで答えた。
確信は、まだない。
でも、この期待は、もうただの淡いものではなくなっていた。彼の中で、私が特別な存在になりつつある。その手応えを、私は、はっきりと感じていた。




