第10話「芽生えた恋心、そして決意」
姫野マリアさんの一件が解決し、オフィスにはひとまずの平穏が戻った。彼女はあの日以来、私に対してあからさまな敵意を向けてくることはなくなり、むしろ、私を避けるようになった。黒崎部長の「二度と俺の部下に手を出すな」という言葉が、よほど堪えたのだろう。
一件落着。それで済むはずの話だった。しかし、私の心の中は、かつてないほどの嵐が吹き荒れていた。
あの時の、私を守るために立ちはだかってくれた大きな背中。
「お前のことは、いつも見ている」という、不器用だけど、どこまでも誠実な言葉。
そして、私の頭の中に響いた、仲間を守ろうとする激しい唸り声と、その後の優しい鳴き声。
それら全てが、私の心の中で何度も何度もリフレインされる。
仕事中、彼の姿が視界に入るたびに、心臓が大きく音を立てる。彼に名前を呼ばれるだけで、顔が熱くなる。給湯室で偶然二人きりになれば、緊張で何を話していいか分からなくなる。
もう、認めざるを得なかった。
私は、黒崎誠部長のことが、好きだ。
それは、部下としての上司への尊敬や、彼のギャップに対する好奇心ではない。一人の女性として、一人の男性に恋をしているのだ。はっきりと、明確に。
怖いけれど、誰よりも優しくて、不器用で、そして猫が大好き。
社内では「鬼」の仮面を被っているけれど、その下にある本当の顔は、愛情深くて、仲間思いで、少し寂しがり屋な、大きな猫のような人。
私だけが知っている、彼の本当の姿。その全てが、愛おしくて、たまらない。
ある日の昼休み。屋上で一人、ぼんやりと空を眺めながら、私は自分の気持ちを整理していた。
この気持ちは、本物だろうか。
ふと、そんな疑問が頭をよぎる。私が彼に惹かれたきっかけは、間違いなく、彼の心の声が聞こえたことだ。もし、私にこの特殊な能力がなかったら? 私は、彼を「冷徹で怖い鬼部長」としか認識せず、恋に落ちることなんて、きっとあり得なかっただろう。
彼の心の声が聞こえるという、この特殊で、ズルいとも言える状況だからこそ、生まれた感情なのかもしれない。だとしたら、この恋は、本物と言えるのだろうか。
もし、万が一、この気持ちを彼に伝えたとして、彼はどう思うだろう。「なぜ、俺の気持ちが分かるんだ?」と、気味悪がられるだけではないか。この能力は、私の秘密だ。誰にも打ち明けたことはないし、これからもそのつもりだ。
相手は、あの黒崎部長だ。冷静沈着で、論理的。そんな彼に、非科学的な特殊能力の話など、信じてもらえるはずがない。それに、もし信じてもらえたとしても、それはもう、対等な関係とは言えないのではないか。
考えれば考えるほど、袋小路に迷い込んでいく。
告白なんて、とんでもない。絶対にできない。
この気持ちは、誰にも知られず、私一人の胸の中に、静かにしまっておくべきだ。
そう、結論を出そうとした時だった。
デスクに戻ると、私の机の上に、小さなメモ書きと一緒に、一匹の猫の形をしたクッキーが置いてあった。メモには、拙い、けれど丁寧な字でこう書かれていた。
『先日は、すまなかった。迷惑をかけた』
差出人の名前はない。でも、この不器用な気遣いは、間違いなく、あの人だ。姫野さんとの一件で、私に余計な心労をかけたことを、彼なりに気に病んで、謝罪のつもりで置いていってくれたのだろう。
クッキーは、通勤途中にある有名な洋菓子店のものだった。わざわざ、私のために、買いに行ってくれたのだろうか。あの鬼部長が、一人でファンシーな洋菓子店に入り、この猫のクッキーを選んでいる姿を想像して、思わず頬が緩んだ。
そして、聞こえてきたのだ。部長席から。
(……にゃん……ちゃんと、受け取ったかにゃ……? 甘いものでも食べて、元気出すにゃ……)
心配してくれている。私のことを。
その温かい心の声が、私の迷いを、優しく溶かしていくようだった。
特殊な能力があったから、彼を好きになったのかもしれない。
でも、彼の優しさに触れて、彼の人柄を知って、どんどん惹かれていったこの気持ちは、紛れもなく本物だ。彼の心の声が聞こえなくても、きっと、私は彼の不器用な優しさに、いつか気づいていたはずだ。そう信じたい。
このまま、何もせずに後悔したくない。
この恋が叶う確率は、限りなくゼロに近いかもしれない。でも、この温かい気持ちを、ただ胸に秘めて、諦めてしまうのは、あまりにも切ない。
私は、猫のクッキーを、そっと両手で包み込んだ。
まだ、何をどうすればいいのか分からない。でも、ただ一つ、決めたことがある。
もう、この気持ちから逃げるのはやめよう。
たとえ、一方的な想いだとしても。
私は、黒崎部長への恋心を、大切に育てていこう。
いつか、この気持ちを、自分の言葉で伝えられる日が来ることを、ほんの少しだけ夢見ながら。私の心の中に、小さな、しかし確かな決意の光が灯った瞬間だった。




