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心の声が聞こえる私が唯一思考を読めない鬼部長、その本音は「にゃーん♡」という猫の声にしか聞こえませんでした  作者: 水凪しおん


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第1話「私の秘密と鬼の鳴き声」

【登場人物紹介】


水無月みなづき 莉奈りな

25歳。中堅企業の営業部所属。入社3年目。他人の心の声が聞こえる特殊能力を持つがゆえに、人間関係に疲れ、恋愛に臆病になっている。真面目で仕事はできるが、人に深入りすることを避けて生きている。鬼部長・黒崎に恐怖を感じていたが、彼の心の声が「猫」だと知ってから、彼を見る目が少しずつ変わっていく。


黒崎くろさき まこと

32歳。莉奈が所属する営業部の部長。仕事に一切の妥協を許さない厳しい姿勢と鋭い眼光から「鬼部長」と恐れられているイケメン。莉奈の能力でも彼の思考は「にゃーん」「ごろごろ」といった猫の声にしか聞こえない。その正体は、極度の猫好きで、愛情表現が苦手なだけの不器用で優しい男性。

(うるさいな……)


 ずらりと並んだデスクの島、そのあちこちから聞こえてくる不協和音に、私はそっと眉を寄せた。


「水無月さん、この資料ありがとう! 助かるわー!」


(……ったく、この仕事も本当は私のじゃないのに)


「莉奈ちゃん、週末どうだった? 彼氏とデート?」


(どうせ一人で寂しく過ごしてたんでしょ)


 にこやかな笑顔の裏で渦巻く、黒々とした本音。キーボードを叩く音や電話の呼び出し音に混じって、それらは私の頭の中に直接流れ込んでくる。これが、物心ついた頃からの私の「日常」だ。


 水無月莉奈、二十五歳。中堅企業の営業部で働く、ごく普通のOL。……ただ一つ、他人の心の声が思考として聞こえてしまう特殊能力を持っていることを除けば。


 この能力のせいで、私はずっと人間関係に臆病だった。向けられる好意が本物なのか、笑顔の裏にどんな感情が隠されているのか、知りたくなくても分かってしまう。純粋な気持ちで人と向き合うことが、私にはとても難しい。だから、誰かと深く関わることを無意識に避け、当たり障りのない毎日を送るのが処世術になっていた。


 そんな社内生活において、私が最も苦手とする人物がいる。


「水無月」


 低く、温度のない声に呼びつけられ、私の背筋は氷の棒でも差し込まれたかのように凍りついた。恐る恐る顔を上げると、デスクの向こう側、部長席から鋭い視線が私を射抜いていた。


 黒崎誠部長、三十二歳。整いすぎた顔立ちに、一切の妥協を許さない仕事ぶり。些細なミスも見逃さず、的確かつ冷徹な言葉で部下を追い詰めるその姿から、社内では「鬼部長」の名で恐れられている。


「は、はい! なんでしょうか、黒崎部長」


「昨日提出された企画書の件だが。三ページ目の市場分析、データが古い。先月の最新データに差し替えて、午前中までに再提出しろ。以上だ」


 それだけを言い渡すと、彼はもう私に興味を失くしたかのように、手元の書類に視線を落とす。心臓が早鐘を打っている。またやってしまった。細心の注意を払ったはずなのに、この人の前ではいつも綻びが見つかってしまう。


(なんで俺の言うことが一回でできないんだ)


(だからお前はいつまで経っても半人前なんだ)


 そんな心の声が聞こえてくるのだろうと、私はいつも身構える。上司が部下を叱責するとき、その思考は大概、言葉以上に辛辣なものだ。だから、私はいつも彼の前から逃げ出すように自席に戻り、胸の痛みに耐えながらパソコンに向かう。


 今日もそうだ。彼の冷たい声と、きっともっと冷たいであろう心の声に打ちのめされ、私は自分のデスクへと逃げ帰った。彼の周囲だけ、空気が五度くらい低い気がする。


「また捕まってたね、莉奈。ドンマイ」


 隣の席の同期、佐藤さんが小さな声で慰めてくれる。彼女の心からの同情に少しだけ救われながら、私は必死で資料の修正に取り掛かった。


 ◇


 午後、会社の命運を左右すると言っても過言ではない、重要な会議が開かれた。大口クライアントとの共同プロジェクトに関する最終プレゼンだ。プレゼンターは、もちろん我らが黒崎部長。私はそのアシスタントとして、会議に同席していた。


 部長のプレゼンは完璧だった。よどみなく、力強く、それでいて相手の心に響く。クライアントの役員たちも、満足げに頷いている。このままいけば、きっと契約は取れるだろう。張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだように感じた。


 しかし、その時だった。質疑応答の流れで、私が準備した補足資料の一部に、小さな誤植が見つかってしまったのだ。プロジェクトの根幹を揺るがすようなミスではない。けれど、完璧に進んでいたこの会議の場においては、致命的な汚れのように見えた。


 クライアントの一人が、咎めるような視線を私に向ける。サーッと血の気が引いていくのが分かった。どうしよう。私のせいで、この大きなプロジェクトが……。頭が真っ白になり、冷や汗が背中を伝う。


「申し訳、ございません……!」


 蚊の鳴くような声で謝罪するのが精一杯だった。隣に立つ鬼部長から、絶対零度の視線を感じる。終わった。きっと、会社に戻ったら、私はこれまで経験したことのないような厳しい叱責を受けるだろう。いっそ、この場で気絶してしまえたらどんなに楽か。


 私が恐怖で身を固くした、その瞬間だった。


(…………にゃーん……)


「え?」


 確かに聞こえた。私の頭の中に直接響いた、その声。それは今まで私が聞いてきた、どんな人間の心の声とも違っていた。か細くて、心細そうで、どこか悲しげな……子猫の鳴き声?


 幻聴……? あまりの恐怖とプレッシャーに、ついに私の能力までおかしくなってしまったというのだろうか。混乱する私を置き去りにして、事態は動いた。


「大変失礼いたしました。こちらの資料は私の監督不行き届きによるものです」


 黒崎部長が、凛とした声でそう言った。そして、深々と頭を下げたのだ。彼のその行動に、クライアントも、私も、その場にいた誰もが息をのむ。彼は続けて、誤植があったデータについて、口頭で正確な情報をよどみなく説明し、見事にその場を収めてみせた。


 会議室からの帰り道、私はまだ自分の耳を、いや、頭を疑っていた。隣を歩く部長の横顔を盗み見る。いつも通りの、能面のような無表情。冷たいオーラも健在だ。


 きっと、気のせい。そうに違いない。鬼とまで呼ばれるこの人から、あんな可愛らしい音が聞こえるはずがないのだから。そう自分に言い聞かせようとした、まさにその時。


(……はぁ……しょぼん……にゃ……)


 まただ。今度は、ため息交じりの、明らかに落ち込んだ様子の猫の声。私は思わず、その場で立ち尽くしてしまった。


 私の秘密の能力が、今、とんでもないバグを引き起こしている。鬼部長の心の声だけが、なぜか、猫の鳴き声に変換されて聞こえるらしい。嘘でしょ、と心の中で叫びながら、私は目の前の大きな背中を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

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