おやすみ、世界
朝は、落下から始まる。
何もない空間に、身体だけを置き去りにされる感覚。
上も下も分からないまま、意識だけがずるりと沈んでいく。
もう慣れてしまった、浮遊感。
「……っ」
天井。布団。自分の部屋。
落ちていたはずの身体は、いつも通りベッドの上にある。
目覚めのたびに訪れるこの感覚は、もう何ヶ月も前から続いている。
重力はあるはずなのに、身体だけがそれを信用していないみたいだった。
髪をかき上げて、上半身を起こす。
その瞬間、視界の端で色が跳ねる。
洗面所の鏡に映った私は、いつも通り、壊れていた。
黒髪のはずの地毛に、蛍光色の緑とピンクが混じっている。
染めた覚えはない。
美容院にも行っていない。
ただ、ある日を境に、こうなった。
「……ほんと、意味分かんない」
声に出しても、答えは返ってこない。
どう見ても変な髪。でも今は、普通の髪の自分を想像できない。
それくらい、この髪に慣れてしまっていた。
支度を済ませ、家を出る。
空気は澄んでいて、朝としては完璧だった。
駅へ向かう途中、立ち止まる。
忘れるところだった。
空を見上げる。
雲を押し潰すように、空に固定された巨大な影。
北半球のどこからでも見えると言われる、もう一つの大陸。
落ちれば終わりだと、誰もが分かっているのに、何年も前からそこに浮かび続けている。
それが、この世界の日常だった。
「……おはよう、世界」
誰に聞かせるでもなく呟いて、歩き出す。
⸻
ハルトと待ち合わせをして、学校へ向かった。
同じ道を歩いているはずなのに、景色が違う。
「今日は建物、真っ白だな」
「昨日はちょっと緑っぽかったよね」
気にすることもなく、他愛ない話を続ける。
友達のこと、部活のこと、昨日見た動画のこと。
気づけば、学校に着いていた。
靴箱の前で立ち止まる。
「あれ……?」
自分の名前を探して、視線を滑らせる。
あるはずの場所に、ない。
「ねえハルト。私の靴箱、ここだっけ」
隣で靴を脱いでいたハルトが、ちらりとこちらを見る。
「どうだろうな。俺は昨日と変わってないけど……一個ずれてる気もするな」
「やっぱり?」
「でも、最初からそうだったんじゃないか?」
そう言われると、反論できなくなる。
自分の記憶が正しい証拠は、どこにもない。
「……まあ、そうだったかな」
そう言って、靴を入れた。
廊下を歩く。
いつも通り、静かだ。
「なあ」
少しして、ハルトが言う。
「廊下、長くないか?」
「急にどうしたの」
「さっきから歩数数えてるんだけど、もう三百歩超えてる」
「そんなわけないでしょ」
そう返しながら、前を見る。
確かに、教室が遠い。
「……うちの学校、廊下長いからじゃない?」
「にしても限度あるだろ」
しばらく歩いて、私も確信する。
「……長いね」
胸の奥が、少しざわつく。
怖くなって、無意識に歩調を速めた。
ハルトもつられて、駆け足になる。
次の瞬間。
教室の前に立っていた。
「着いた……?」
「異変だな」
あっさりした声だった。
私も、さっきまでの不安を忘れて、教室に入る。
「おはよー」
「廊下長かったね」
「駆け足じゃないと抜けられないらしいよ」
教室は、いつも通りだった。
先生が入ってきて、朝のホームルームが始まる。
「今日は廊下が長い。駆け足で通れ。走るなよ」
淡々とした注意。
どこか他人事みたいに聞き流す。
それでも、一日は進んでいく。
⸻
放課後、部活がなかった私たちは、一緒に帰った。
「今日の数学の小テスト、クソ問じゃなかった?」
「あれな。嫌がらせだろ」
「ね」
ぽつり、と雨が落ちる。
すぐに本降りになる。
「やば、傘ない」
「俺も」
そのまま、濡れながら歩く。
「そういえばさ」
雨音にまぎれて、私が言う。
「靴箱、帰るときは元に戻ってた」
「そうだったのか?」
少し考えて、ハルトは首を傾げた。
「違和感なかったけどな」
「……そっか」
「まあ、異変ってそんなもんだよな」
慣れた口調。
「そんなもん、かな」
自分に言い聞かせるみたいに、答えた。
分かれ道に着く。
「また明日な」
「うん、また明日」
一人になって、空を見上げる。
大陸は、朝と同じ位置にある。
――少し低い気もするけれど。
気のせいだと思うことにして、家へ向かう。
今日はもう外に出ない。
玄関の前で、いつも通り、呟いた。
「おやすみ、世界」
変わっていない。
そういうことにして、私は世界に背を向けた。
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