2. 新婚生活の始まり
初回のお見合いから三ヶ月後、私たちは正式に婚約し、さらに二ヶ月後には霧島家の庭園で結婚式を挙げた。怜央斗さんは式の間中緊張で真っ青だったけれど、誓いの言葉だけはしっかりと述べてくれた。
新居は霧島家の敷地内にある離れの平屋。「静かで落ち着く」という彼の希望で選ばれた場所で、本家から程よく距離があり、私たちだけの空間を持てる住まいだった。
そして今、私たちの新婚生活が始まろうとしている。
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引っ越しの荷物を運び終えた夕方、私たちは初めて二人だけでリビングに向かい合って座っていた。
怜央斗さんは膝の上で指を絡ませながら、視線を床に落としている。私も緊張で手のひらに汗をかいている。夫婦になったとはいえ、まだお互いのことをよく知らない。これからどうやって生活していくのか、話し合わなければならないことがたくさんある。
長い沈黙の後、私が勇気を出して口を開く。
「あの……寝室のことなのですが」
怜央斗さんがハッと顔を上げる。その深いオリーブ色の瞳には、緊張と困惑が混じっている。
「……寝室?」
「はい。この離れは思っていたより広くて、客間もいくつかあるようですし……」
私は言葉を選ぶのに苦労する。
「夫婦は普通、同じお部屋だと思うのですが……でも、どうするのが正解でしょうか」
怜央斗さんの頬が真っ赤になる。しばらく口をパクパクと動かした後、やっと小さな声で答える。
「……え、あの、その」
「私も初めてのことで、よく分からなくて……」
「……俺も、分からない」
二人してうつむいてしまう。政略結婚とはいえ、こういう話は避けて通れない。でも、どちらも経験がないから、どうしていいのか本当に分からない。
「あの……」
私が恐る恐る切り出す。
「もしよろしければ、しばらくは別々のお部屋で……?」
怜央斗さんがほっとしたような表情を見せる。
「……はい。それが、いいかもしれません」
「では、怜央斗さんはお隣の客間を?」
「……お言葉に甘えて」
「お布団の準備とか、一緒にしましょうか?」
「……いえ、自分で。桃香さんに迷惑を」
「迷惑だなんて。でも、分からないことがあったら遠慮なく」
「……はい。ありがとうございます」
次の話題に移るのも気まずくて、また沈黙が流れる。
「それから……お食事は……」
怜央斗さんは困ったような顔をする。きっと料理などしたことがないのでしょう。
「……桃香さんは、料理は」
「一応できますが……怜央斗さんがお嫌でなければ」
彼はほっとしたような表情を見せるものの、すぐに申し訳なさそうな顔になる。
「……嫌なわけでは。でも、負担になるのでは」
私も彼に遠慮して、つい選択肢を増やしてしまう。
「大丈夫です。でも、もし外食やお弁当がご希望でしたら」
「……いえ、桃香さんが作ってくださるなら」
お互いに相手の意向を探り合うような会話。好みを聞いても、彼の答えは曖昧だった。
「……特に好き嫌いは。何でも食べます」
きっと自分の希望を言うのが苦手なのでしょう。私も具体的なことは決められないまま、曖昧な返事をするしかない。
「そうですか……では、少しずつ覚えていきますね」
また沈黙。二人とも相手に気を遣いすぎて、会話が続かない。家事の分担についても同じような調子で、どちらも相手の負担になることを心配して、なかなか話が進まない。
「……俺は全く料理ができないので、掃除くらいは」
「いえいえ、お忙しいでしょうし」
結局、お時間があるときに少しだけお手伝いしていただく、という曖昧な結論に落ち着く。
「……はい」
こんな風に、ひとつひとつの事柄について、お互いに遠慮しながら相談していく。どちらも相手の負担になることを心配して、なかなか自分の希望を言えない。
「あとは……ご家族への報告とか」
「……本家には、定期的に顔を出さなければ」
「はい。私も一緒に伺わせていただきます」
「……桃香さんの実家への帰省も、いつでも」
「ありがとうございます」
「……何か、他に」
「今思いつくのはこれくらいでしょうか」
「……そうですね」
結局、具体的なことはあまり決まらないまま、最初の話し合いが終わった。でも、お互いに相手を思いやる気持ちは伝わってきた。これから少しずつ、夫婦としての形を作っていけばいいのかもしれない。
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その夜、私たちはそれぞれの部屋で過ごすことになった。
主寝室で一人ベッドに横になりながら、隣の客間から聞こえる小さな物音に耳を澄ませている。怜央斗さんが布団の準備をしている音、畳を歩く足音、そして時々聞こえるため息。
壁一枚向こうに彼がいることを思うと、不思議な気持ちになる。夫婦なのに、まるで隣人のような距離感。でも、いきなり同じ部屋で寝るのは、お互いにとって負担が大きかったでしょう。
「おやすみなさい」
私が小さく声をかけると、しばらくしてから客間の方から答えが返ってくる。
「……おやすみなさい」
その声は襖越しでも聞こえるほど静かな夜だった。私たちの新しい生活が、こうして静かに始まった。