蒼のレクイエム
意識が浮上する感覚は、まるで深い海の底から、一縷の光に導かれるようにゆっくりと水面を目指すそれだった。最初にフミの鼓膜を震わせたのは、遠くで繰り返される、澄み切った水滴が硬質な何かに落ちるような、規則的で静謐な音。次いで、頬を撫でる湿り気を帯びた柔らかな風と、微かに潮の香りが混じる、どこか甘く懐かしい植物の匂い。そして、瞼を持ち上げた彼が最初に捉えたのは、信じられないほどの――そして絶望的なまでに美しい――光景だった。
フミ、25歳。数時間前まで、という時間の感覚すら曖昧だったが、彼が最後に覚えているのは、雑居ビルにある古びた探偵事務所のソファで、依頼の報告書に追われながらうたた寝をしていた、そんなありふれた日常の一コマだったはずだ。それが今、彼が横たわっているのは、濡れた蔦が絡まるコンクリートの突端――かつては高層ビルの屋上庭園だったと思しき場所――であり、見慣れたはずの喧騒に満ちた街は、紺碧の水晶に永遠に閉じ込められたかのように、音もなく静まり返った水の中に沈んでいた。
天頂から降り注ぐ陽光は、ゆらめく水面で無数に乱反射し、きらきらと光のカーテンとなって水中の都市へと降り注いでいる。水没したビル群の窓ガラスが、その光を捉えては角度を変えるたびに虹色の輝きを放ち、かつてのオフィス街や住宅地は、巨大な水槽に沈められた精巧なジオラマのようだった。破壊の痕跡――折れ曲がった鉄骨、崩れ落ちた壁――は確かに存在する。しかし、それら全てを覆い尽くすように繁茂した水草や、色とりどりの魚たちが悠然と泳ぐ姿は、終末的な光景であるにも関わらず、不思議なほどの静けさと、悲しいまでに美しい調和を世界に与えていた。まるで、時を止めた海底神殿に迷い込んだかのようだった。
「……ここは……一体……?」
掠れた声で呟いたフミは、ゆっくりと身を起こした。全身がぐっしょりと濡れてはいたが、不思議と寒さは感じない。身体のどこにも痛みはなく、ただ、目の前の光景に対する圧倒的な現実感の欠如が、彼の思考を鈍らせていた。この世界の全てが、まるで精巧に描かれた一枚の絵画のようで、自分がその絵の中に迷い込んだ登場人物になったかのような錯覚に陥る。
状況を把握しようと、おもむろに周囲を見渡したフミの視線が、不意に、一点で吸い寄せられるように止まった。
数メートル先、同じように水面から顔を出した、教会の尖塔だったと思しき構造物の縁に、一人の少女が座っていた。年は17歳くらいだろうか。陽光を浴びて淡い金色に輝く濡れた亜麻色の髪が肩まで流れ、白いシンプルなワンピースの裾が、まるで呼吸をするかのように静かに水面に揺れている。彼女はただじっと、眼下に広がる水没した街並みを見つめていた。その小さな背中と華奢な横顔は、あまりにも儚げで、それでいて触れることすら躊躇われるような、凛とした清浄な気配を漂わせている。まるで、この世界の悲しみと美しさを一身に体現した存在のようだった。
フミが身じろぎした際に立てた微かな物音に気づいたのか、少女がゆっくりとこちらを振り返った。大きな、大きな瞳。それは、どこまでも深く澄んだ湖の色をしていた。驚いたようにわずかに目を見開き、それから、ふわりと、まるで壊れやすい薄氷の上に咲いた花のような、寂しげな微笑みを浮かべた。
「……気が、つきましたか」
少女の声は、水面を渡る清冽な風のように涼やかで、それでいて聞く者の心の奥深くに染み入るような、不思議な懐かしさを持つ響きだった。
フミは生まれつき、物に触れることで、その物が内包する記憶や、持ち主が込めた強い感情の残滓を読み取るという、特殊な能力を持っていた。それは時に、他人の喜びや愛情に触れて心を温かくする祝福であり、また時には、負の感情や悲痛な記憶に苛まれて精神を摩耗させる呪いでもあった。特に、人の想念が複雑に渦巻く都会では、無防備に物に触れることは危険ですらあった。そのため、彼は幼い頃から常に薄い革の手袋を着用し、その力を意識的に制御して生きてきた。彼が探偵という、時に他人の秘密や過去の暗部に触れる職業を選んだのも、この能力を社会の中で活かせる数少ない道だと考えたからであり、また、彼自身の孤独な魂が、誰かの「真実」に触れることを渇望していたからなのかもしれない。
「君は……誰なんだ? そして、一体何が起きたんだ、この世界に……?」フミは混乱する頭で、必死に言葉を紡いだ。
少女は静かに首を横に振った。その仕草一つにも、言い知れぬ憂いが滲んでいる。
「私にも、はっきりとはわかりません。ただ、気がついたら、世界はこうなっていました。そして……あなただけが、私と同じように、ここにいたのです。名前は……ユナ、とだけ」
彼女は自分の胸にそっと手を当て、戸惑ったように眉を寄せた。その繊細な表情に、フミは彼女が非常に高い感受性を持ち、そして何か途方もなく大きなものを内に秘めているような、触れれば壊れてしまいそうな危うさを直感的に感じ取った。
こうして、フミと、名をユナとだけ名乗った少女の、二人きりの、美しくも静謐な水没世界での奇妙な日々が始まった。移動手段は、瓦礫と化したビルの一階部分で見つけ出した、幸いにも損傷の少なかった小さな手漕ぎボートだった。世界の広大さと比較すればあまりにも頼りない小舟だったが、二人にとっては唯一の希望の船でもあった。
フミは早い段階で、ユナに自分の能力について打ち明けた。手袋の理由、物に触れることで記憶を読むこと。ユナは最初こそ驚いたような表情を見せたが、すぐに静かに頷き、フミのその特異な力を、まるで昔から知っていたかのように自然なものとして受け入れたようだった。その反応に、フミは少なからず安堵感を覚えた。
水没した世界は、美しくも残酷な記憶の宝庫だった。フミは手袋を外し、水面から突き出た教会のステンドグラスの破片、半分沈んだ図書館の濡れて変色した蔵書、ショーウィンドウの中に虚ろな瞳で佇むマネキンに、祈るようにそっと触れた。彼の指先から流れ込んでくるのは、かつてこの街に息づいていた無数の人々の日常の記憶。恋人たちの囁き、子供たちの屈託のない笑い声、家族の温かい食卓、仕事に打ち込む人々の情熱、そして、些細な悩みやありふれた喜び。それらは全て、突然訪れた世界の終わりに対する、言葉にならないほどの恐怖と絶望、そして深い悲しみと共にあった。
しかし、不思議なことに、それらの記憶はどれも、この美しく静まり返った水没世界のフィルターを通すと、どこか浄化されたかのように穏やかに感じられた。まるで、世界そのものが巨大な鎮魂歌を奏でているかのようだった。
「このオルゴール……小さな女の子が、誕生日にお父さんからプレゼントされたものみたいだ」水に浸かったアンティークショップの棚から見つけ出した、錆びついたオルゴールに触れたフミが、目を閉じたまま呟いた。「彼女は、毎晩このオルゴールの音色を聴きながら眠りについた。曲名は……『星に願いを』。彼女の夢は、いつか本物の星に手が届くことだったらしい」
「……優しい記憶ですね」ユナは、フミの隣に静かに座り、彼の言葉の一つ一つに耳を傾けていた。彼女はカイが読み取る記憶の断片に、まるで自分のことのように心を寄せ、時には微笑み、時には瞳を潤ませた。その共感性の高さは、フミにとって驚きであり、同時に、この孤独な世界での大きな慰めでもあった。
「ああ。でも、その記憶の最後は……突然家が大きく揺れて、お父さんが彼女を庇って……オルゴールは、彼女の手から滑り落ちて、泥水の中に……」フミは言葉を詰まらせた。あまりにも鮮明で生々しい悲しみが、まるで自分の体験のように彼の心を抉る。探偵として、これまでも多くの人の負の感情に触れてきたが、これほど大規模で、純粋な悲劇の記憶に触れたことはなかった。
ユナは何も言わなかった。ただ、そっとフミの腕に自分の手を重ねた。その小さな手の温もりが、フミの心の痛みを少しだけ和らげてくれるのを感じた。彼女の存在そのものが、フミにとって一種の灯台の光のように、この茫漠とした世界での道しるべとなりつつあることに、彼は気づき始めていた。
ある日、彼らは水没した美術館にたどり着いた。建物の多くは崩れていたが、奇跡的にいくつかの彫刻や絵画が、水に浸かりながらもその形を保っていた。フミが、泥と水草に覆われた大理石の女神像の台座に触れると、それを数十年前に彫り上げた老芸術家の魂の叫びにも似た情熱、完成の瞬間の歓喜、そしてその後、多くの人々に鑑賞され、愛でられ、時には批評されながらも、静かに時代を見つめてきた女神像自身の記憶が、奔流のように流れ込んできた。
「この像は……多くの人に見られることを、ずっと望んでいた。美しさを通じて、人々の心に何かを伝えたい、そう願っていたんだ。時代が変わり、人々の価値観が変わっても、ずっとここで立ち続けてきた」
ユナは、女神像の濡れた頬に、まるで労わるようにそっと触れた。「きっと、寂しいでしょうね、今はもう、私たちしか見てくれる人がいなくて」
その言葉に、フミはハッとした。ユナは、物の記憶だけでなく、その物が今まさに抱いているかもしれない「感情」さえも、感じ取っているかのようだった。彼女のその鋭敏すぎる感受性は、フミの能力とはまた違う形で、この声なき世界の深層の声を聞いているのかもしれない。そしてそれは、彼女にとってどれほどの重荷になっているのだろうか、とフミは密かに胸を痛めた。
夜、ボートの上で揺られながら、満天の星を眺めることもあった。人工の光が全て消え去った世界では、星々の輝きは圧倒的な密度と光量で空を埋め尽くし、天の川はまるで乳白色の巨大な河のように、頭上を横切っていた。水面にも無数の星が映り込み、ボートはまるで星の海を進んでいるかのような錯覚に陥った。
「星って、こんなに……こんなにたくさんあったんですね」ユナが、生まれて初めて本物の夜空を見た子供のように、感嘆の声を漏らす。
「ああ。街の明かりが、本当の空の美しさを、俺たちから隠していたんだろうな」フミは静かに答えた。「昔、探偵の仕事で徹夜明けに、ふと空を見上げることがあった。でも、こんな……魂が震えるような星空は、初めてだ」
「フミさんは……どうして探偵になったんですか? その、特別な力があるから?」ユナの問いは、いつも核心を突いてくる。
「……半分はそうだな。でも、もう半分は……ただ、人や物の『本当の姿』を知りたかったのかもしれない。誰もが見過ごしてしまうような、あるいは目を逸らしてしまうような真実に、この力があるからこそ触れてみたかったんだ。それが良いことなのか悪いことなのか、今も分からないけどな」フミは自嘲気味に言った。
ユナは黙ってフミの言葉を聞いていた。そして、しばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。「私も……『本当』が知りたいです。どうして世界はこんなことになってしまったのか、どうして私たちはここにいるのか……そして、私が、ここにいていいのかどうか」
最後の言葉は、ほとんど吐息のようにか細く、フミの胸を強く打った。彼女のその問いに、フミはまだ何一つ答えを持っていなかった。
食料は、幸いにも商業ビルの地下にあった、防水対策が施されていたと思われる大規模な備蓄倉庫などから、缶詰や乾燥食品が見つかり、当面はそれで賄えそうだった。しかし、それがいつまでもつかは分からない。そんな漠然とした不安を抱えながらも、二人の間には少しずつ、しかし確実に、穏やかで深い信頼関係が芽生え始めていた。ユナは時折、瓦礫の中から見つけ出したもので、ささやかな遊びを考え出した。錆びついたブリキの箱を帆船に見立てて水に浮かべたり、水鳥の美しい羽根を集めてフミのボートの縁に飾ったり。その無邪気な姿は、彼女の年齢よりもずっと幼く見え、水没世界の過酷さを忘れさせ、フミの心を和ませた。
しかし、そんな束の間の穏やかな日々の中に、不穏な影が、まるで水底から湧き上がるように差し始める。ユナの持つ、彼女自身も完全には制御できていないであろう不思議な力が、意図せず周囲に影響を与えることが増えてきたのだ。彼女が何かに強く心を動かされたり、あるいは深い悲しみに沈んだりすると、周囲の枯れたはずの植物が一斉に不気味なほど鮮やかに芽吹いたり、逆に、元気に咲いていたはずの花が急速に色を失い萎れたりした。それはフミの記憶を読み取る能力とは全く異質で、もっと根源的な、世界の生命の理に直接作用するような、畏怖すべき力だった。フミは、その力の片鱗に触れるたび、言い知れぬ不安と、ユナの存在の特異性に対する漠然とした予感を覚えた。
そして、ある朝霧が深く立ち込めた日、彼らの前に、世界の静寂を破るように異質な存在が現れた。黒づくめの、フードを目深に被り、顔の判別できない数人の人影だった。彼らは音もなく水上を滑るように移動し、一定の距離を保ったまま、フミとユナをただじっと見つめていた。その姿からは明確な敵意は感じられない。だが、彼らが放つ異様なまでの存在感と、人間とは異なるかのような静謐さは、フミに強烈な警戒心を抱かせた。フミが、彼らが通り過ぎた後に水面に残っていた、ローブの切れ端と思しき黒い布に偶然触れた時、脳裏に流れ込んできたのは、言葉や映像ではなく、途方もなく古い、原初の記憶の断片と、この世界の「理」そのものを見守り続けるという、厳粛で冷徹な使命感だった。彼らは、世界の終焉と再生の、感情を持たない証人であり、運命の監視者なのかもしれない、とフミは直感した。
ユナは、その黒づくめの者たちに対して、本能的な、激しい恐怖を示した。彼らが姿を現すと、彼女は決まって顔面を蒼白にし、体調を崩し、何かに怯えるようにフミのボートの後ろに隠れた。
「彼らは……一体、何をしにくるのでしょう……私たちを、どうするつもりなのでしょうか」ユナの声は恐怖に震えていた。
「分からない。だが、今のところ、俺たちに直接危害を加えようという動きはないようだ」フミはユナを安心させようと努めたが、彼自身もまた、黒衣の者たちの底知れない存在に、言い知れぬ圧力を感じていた。彼らは、ユナが持つ力の秘密と、この世界の運命に深く関わっているに違いなかった。
ある時、フミは意を決して、定期的に現れる黒づくめの者たちの一人が、いつも同じ場所に残していくかのように水面に浮かべていく、小さな白木の枝に触れてみた。流れ込んできたのは、やはり言葉や具体的な映像ではなかった。しかし、それは純粋な「感情の波動」としてフミに伝わってきた。深い、深い悲しみと、厳粛で揺るぎない決意、そして、この世界の巨大な循環と均衡を、個々の生命の意思や感情を超越した次元で、ただひたすらに見守り続けるという、大きな、大きな使命感だった。彼らもまた、この世界の逃れられない理の中で、感情を押し殺し、永遠に近い時を役割に殉じている存在なのかもしれない、とフミは理解した。そして、その使命感の奥底に、ほんのわずかだが、ユナに向けられたような、憐憫にも似た感情の揺らぎを感じ取った気がした。
探索を続けるうち、フミはさらに確信に近い形で、一つの事実に気づき始める。彼が触れる「物」――特に、この水没が起こる直前の記憶を強く留めていると思われる物――の記憶の中に、時折、ユナと酷似した少女の姿や、彼女が持つ途方もない力、そしてその力の制御に苦しむ様子を示唆する断片が、より頻繁に現れるようになったのだ。それは、美しい花を一瞬にして満開にさせ、次の瞬間には塵にしてしまったり、穏やかだった水面を突如として荒れ狂わせたりするような、自然の摂理を根底から覆すような力だった。そして、その力の記憶には、常に、彼女自身の強烈な「悲しみ」と「孤独」、そして「恐怖」の感情が、渦を巻くように伴っていた。ユナの力がますます不安定になり、彼女の感情の激しい揺れが、周囲の環境に微細ながらも明確な変化――不意に虹が現れたり、局地的な突風が吹いたり――をもたらすことも増えてきた。
決定的な瞬間は、霧深い早朝、ボートが偶然流れ着いた、水没した古代遺跡を思わせる場所で見つけた、巨大な円形の石碑に触れた時だった。石碑は黒曜石のように滑らかで、表面には見たこともない複雑な紋様が銀色に刻まれており、中央には人の頭ほどの大きさの、乳白色に曇った水晶が嵌め込まれていた。そして、その石碑を遠巻きにするように、あの黒づくめの者たちが、まるで古からの儀式を執り行う神官のように、静かに佇んでいるのが見えた。彼らは、これからまさに起ころうとしている何か重大な出来事を、ただ厳粛に予期し、見守っているかのようだった。フミが、まるで何かに引き寄せられるように、その中央の水晶に、手袋を外した震える指先でそっと触れた瞬間――激流のような、そしてあまりにも鮮明な情報と感情の奔流が、彼の魂そのものを激しく揺さぶりながら襲いかかった。
それは、ユナの、封印されていた記憶だった。
彼女は、この世界の生命エネルギーそのものの化身であり、惑星のバランスを保つために、古の時代から存在してきた特別な巫女、あるいは調停者のような存在だった。生命の誕生と死、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、その全ての感情のエネルギーを一身に受容し、濾過し、調和させる役割を担っていた。しかし、人間の文明が発達し、その活動が活発になるにつれて、世界に満ちる負の感情や環境破壊のエネルギーは増大し、彼女の許容量を超え始めた。彼女の力はあまりにも強大で、そして彼女の心は、その強大な力とは裏腹に、あまりにも純粋で繊細すぎたのだ。人々の絶え間ない争い、際限のない欲望、地球そのものへの悪意に、彼女の心は耐えきれなくなった。そしてある日、蓄積された悲しみと絶望のエネルギーは、彼女の制御を超えて力の奔流となり、まるで世界そのものが涙で全てを洗い流すかのように、この大水没を引き起こしてしまったのだった。それは、彼女の明確な意図ではなかった。それは、彼女の優しすぎる魂が、世界の悲しみに耐えきれずに引き起こしてしまった、あまりにも巨大で、悲劇的な事故だったのだ。
「ああ……ユナ……これが、君の本当の姿……君の背負ってきたものなんだね。弱くて、もろくて、そして誰よりも優しい君が……こんなにも、孤独で……」
フミは言葉を失い、その場に膝から崩れ落ちそうになった。ユナは、世界を滅ぼした張本人であり、同時に、そのことによって誰よりも深く傷つき、絶望している、究極の被害者でもあった。どんな人にも弱さはある。彼女の弱さは、その計り知れないほどの純粋さと、背負いきれない力の強大さ故に、愛する世界そのものを壊してしまったのだ。
ユナは、フミが全ての真実を知ったことを、まるでテレパシーのように察したようだった。彼女は静かにフミの前に進み出て、初めて、潤んだ瞳で彼を見つめながら、自分の忌まわしい過去と、制御できない能力について、途切れ途切れに語り始めた。その声は震え、一言一言が、まるでガラスの破片のようにフミの胸に突き刺さった。彼女が流す涙の一つ一つが、この水没した世界の水滴そのもののように感じられた。自分が犯してしまった取り返しのつかない罪の大きさと、永遠に続くかのような絶望を、彼女は全て吐露した。
「私には……この世界を、元の姿に戻す方法が、たった一つだけあります。でも、それは……それは、私が……」
ユナの言葉はそこで途切れ、彼女の大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちた。フミには、彼女が何を言わんとしているのか、そして何をしようとしているのか、痛いほど、そして残酷なまでに明確に分かった。彼女自身の存在、彼女の生命エネルギーそのものを触媒として、この水没した世界を再生させる。それ以外に、この悲劇を償い、世界を救う道はないのだと。
フミは、反射的にユナの細い肩を掴み、強く抱きしめたかった。そんなことは絶対にさせない、と心の底から叫びたかった。だが、彼の特殊な能力は、彼女のその悲壮なまでの決意の固さ、そしてその奥底にある、途方もなく深く、そして純粋な愛と贖罪の念を、あまりにも鮮明に伝えてきた。彼女の「弱さ」が世界を壊し、そして今、彼女の筆舌に尽くしがたい「強さ」が、世界を救おうとしている。そのあまりにも大きな矛盾と運命の皮肉。
「……ユナ……」
フミの声は、自分でも驚くほど震えていた。何を言うべきなのか、どんな言葉をかければいいのか、全く分からなかった。探偵として、これまで数多くの人の嘘や隠された感情、そして時として残酷な真実に触れてきた彼だったが、今、目の前の少女が抱える、あまりにも巨大で自己犠牲的な魂の重みの前では、ただ無力に立ち尽くすしかなかった。
「フミさん。あなたに……あなたに出会えて、本当に、よかった。この広い、広い世界で、たった一人じゃなかったから……だから、私……最後まで、頑張れそうです」
ユナはそう言って、涙に濡れた顔で、それでも精一杯の、儚くも美しい微笑みをフミに向けた。その笑顔は、フミがこの世界で見たどんな光景よりも、どんな記憶よりも美しく、そしてどうしようもなく悲しかった。彼女の心に触れるたびに、フミが感じ取っていた途方もない孤独と絶望が、フミという存在と出会うことで、ほんの少しでも癒やされ、最後の力を振り絞るための支えになったのだとしたら……そう思うと、フミの胸は、喜びと悲しみが入り混じった複雑な感情で、一層強く締め付けられた。
世界の再生の儀式は、その夜、三日月がまるで涙の雫のように細く空にかかり、無数の星々がいつも以上に瞬く、そんな静まり返った夜に、あの古代遺跡の石碑の前で始まった。黒づくめの者たちが、いつの間にか石碑の周囲を、等間隔で静かに取り囲んでいた。彼らは祈るでもなく、何かを語るでもなく、ただ厳粛に、これから始まろうとする世界の運命の転換点を、そしてユナの崇高な選択を、じっと見守っていた。
ユナは、フミに一度だけ深く頷きかけると、ゆっくりと石碑の中央に進み出て、そっと目を閉じた。彼女の小さな体から、まるで内側から発光するかのように、淡い、淡い青白い光が溢れ出し始めた。それは最初、蛍の光のように頼りなかったが、次第にその輝きを増し、周囲の水を、夜空を、そしてフミ自身をも、温かく、そしてどこか切ない光で優しく包み込んでいく。
「フミさん、ありがとう」
眩い光の中で、ユナの声が、言葉としてではなく、直接フミの心に、温かい感情の波動として響いた。
「あなたのその手の温もりと、あなたの優しい心に触れて、私は……私は、救われました。私の犯したことは、決して許されることではないけれど……それでも、この世界の最後に、あなたと出会えて、本当に……本当に、嬉しかった……」
声が、光の粒子と共に途切れていく。フミは必死に手を伸ばすが、聖なる光の奔流に阻まれて、彼女の指先にすら届かない。
「ユナッ! ユナァァァァッ!!」
フミの絶叫は、彼女に届いているのだろうか。彼の目から、熱いものが、まるで堰を切ったように止めどなく溢れ出た。圧倒的な無力感と、どうしようもない深い悲しみ。そして、彼女のその気高く、あまりにも純粋な魂に対する、畏敬の念にも似た激しい感情。これが、彼女がたった一人で選び取った道なのだ。彼女の優しすぎる弱さが生んだ悲劇を、彼女自身の命を賭した強さで終わらせる。フミは探偵として、これまで多くの事件の結末や、人間の業を見てきた。だが、これほどまでに切なく、そしてこれほどまでに美しい魂の決断が、この世に存在し得たのだろうか。
「君は……君は、弱くなんてないッ! 誰よりも……誰よりも強く……そして、誰よりも優しいんだッ……!」
フミの魂からの叫びは、ますます強くなる聖なる光の中に、虚しく吸い込まれていった。彼自身のどうしようもない弱さ――彼女を止めることができない、この過酷な運命を変えることができないという、骨身に染みる無力さ――を、心の底から噛み締めながら、それでも彼は、ユナの最後の輝きを、その一瞬一瞬を、自らの網膜と魂に永遠に焼き付けようとした。彼女の存在そのものが、この絶望的な世界の、たった一つの希望の光なのだと、今、痛いほど、そして明確に理解していた。
光が最高潮に達し、世界が完全に純白の閃光に包まれた瞬間、フミの意識は、まるで優しい何かに抱き締められるように、静かに途絶えた。
どれほどの時間が経過したのだろうか。あるいは、それは時間という概念を超越した、永遠とも呼べる一瞬だったのかもしれない。フミが再び意識を取り戻した時、彼は柔らかな草いきれと、暖かな陽光に包まれながら、見渡す限りの緑豊かな草原の上に立っていた。空は、まるで洗い清められたかのようにどこまでも青く澄み渡り、様々な種類の小鳥たちの楽しげなさえずりが、すぐ近くの木々から聞こえてくる。かつて紺碧の水底に沈んでいたはずの街は、まるで何事もなかったかのように、その活気ある元の姿を取り戻し、遠くには家々の窓から立ちのぼる炊事の煙や、子供たちのはしゃぎ声さえも微かに感じられた。世界は、再生されていた。ユナの命と引き換えに。
しかし、彼の隣に、あの亜麻色の髪の少女の姿は、もうどこにもなかった。
フミは、その場に呆然と立ち尽くした。胸に、まるで巨大な風穴がぽっかりと空いてしまったかのような、耐え難いほどの喪失感。だが、不思議なことに、以前のような全てを投げ出してしまいたいほどの絶望はなかった。ユナの最後の温かい光の感触と、彼女の感謝の想いが、まだ彼の心と体に、確かな温もりとして残っていたからだ。彼女は犠牲になったのではない。彼女は、この美しく再生された世界そのものに還り、その一部として、永遠に生き続けるのだ。そうフミは確信していた。
ふと、足元に、朝露に濡れてきらめく一輪の小さな花が咲いているのに気づいた。それは、ユナの大きな瞳の色に酷似した、どこまでも澄んだ、淡い青色の花だった。フミはそっと屈み込み、その儚げな花に、手袋をいつの間にか外していた素手の指先で、祈るようにそっと触れた。
花の柔らかな記憶が、春の陽だまりのように優しく、そして鮮明に流れ込んできた。それは、ユナの心からの感謝の気持ちと、そして、「生きてください」という、切なくも力強い願いだった。そして、もう一つ、か細いけれどはっきりとしたメッセージ。「あなたの手の温もりを、私は決して忘れません」と。
「ああ……ユナ……」
フミは、天を仰いだ。涙が再び彼の頬を伝ったが、それはもはや、単なる悲しみだけの色ではなかった。温かく、慈愛に満ち、そしてどこか誇らしいような、言葉では言い尽くせない、不思議な感情の結晶だった。
「ありがとう、ユナ。ありがとう……」
どんな人にも弱さはある。ユナも、フミ自身も、そしてかつてこの世界に生きていた全ての人々も。彼女は、自分の弱さが引き起こしてしまった取り返しのつかない過ちを償うために、その命を賭して、究極の強さを示した。フミは、彼女を救うことができなかった自分の無力さを、生涯忘れることはないだろう。だが、その弱さを受け入れ、それでもなお、一歩前に進もうと決意する時、人は本当の意味で強くなれるのかもしれない。ユナが、その身をもって、彼にそう教えてくれたのだ。
フミはゆっくりと立ち上がり、再生された世界へと、最初の一歩を踏み出した。世界は、あまりにも眩しく輝いており、そして、ユナがいないという一点において、少しだけ寂しい気がした。彼は、かつて自分の探偵事務所があった場所へと、記憶を頼りに向かった。驚いたことに、雑居ビルは以前と全く同じ姿でそこに建っていた。恐る恐る事務所のドアを開けると、そこには、まるで数時間前に自分が仮眠を取っていた時のままの光景が、そっくりそのまま広がっていた。まるで、水没も、ユナとの出会いも、全てが長い、長い夢だったかのようだ。しかし、彼の心には、ユナと共に過ごしたかけがえのない日々と、彼女の最後の崇高な輝きが、決して消えることのない真実として、鮮明に刻み込まれている。
彼はもう一人ではない。ユナの尊い想いと、彼女が命を賭して遺してくれたこの美しい世界と共に、彼はこれからを生きていくのだ。決して、彼女のことを忘れずに。そして、人々が日常の中で見過ごしてしまうかもしれない失われた記憶や、言葉にならない想いに、そっと寄り添い、真実の欠片を拾い集めていく。それが、彼にできる唯一の償いであり、ユナへの、そしてこの世界への、静かな約束なのかもしれない。
数年の歳月が流れた。フミは、街の片隅で、以前と変わらず小さな探偵事務所を営んでいた。時折、解決の糸口が見えない難事件にぶつかり、弱音を吐きそうになることもあった。しかし、そんな時、彼はいつも事務所の窓辺に飾られた一輪の青い花に目をやるのだった。その花は、ユナの優しく澄んだ瞳の色を湛え、季節ごとにその姿を微妙に変えながらも、不思議と一年中枯れることなく、いつもフミの傍らで静かに咲き続けていた。そして、彼は手袋を外し、その花弁にそっと触れるのだ。すると、いつでもユナの温かい気配と、励ましの想いが伝わってくるような気がした。
「どんな人にも弱さはある。そして、その弱さを認め、抱きしめてこそ、人は本当の意味での強さを得て、誰かのために優しくなれるのかもしれないな」
ある晴れた日の午後、フミは窓の外に広がる、活気に満ちた街並みを見下ろし、空を見上げて小さく呟いた。空は、あの日、ユナが見せてくれた最後の聖なる光のように、どこまでも優しく、そして希望に満ちて澄み渡っていた。そして、彼は信じている。いつかまた、どこかで、形を変えたとしても、彼女の魂に巡り会える奇跡の日が来ることを。その日まで、彼は、確かな足取りで、この再生された美しい世界を、未来へと歩き続ける。ユナの愛と共に。