第6話|それって、もしかして
春の風が、オフィスの窓から静かに入り込んでいた。来週からは新年度。何となくそわそわするものだ。
私は、いつものように、コーヒーをいれるために給湯室へ向かった。カップに注がれる香りに、つい目を閉じる。
そんな時、社長の声が後ろからかかった。
「みゆきさん、ちょっといいかな?」
振り返ると、社長が微笑んで立っていた。
「はい、どうしましたか?」
「君は来週から、コーヒー入れちゃダメ。」
「…え?」
突然の言葉に、私は手を止める。社長は肩をすくめながら、続けた。
「来週から、新人来るから。」
「あ…そういうことですね。」
驚いたけれど、心のどこかで覚悟はできていた。
「そうだ。もちろん、最初はアドバイスなんてしないでね。」
社長はカップを手に取り、ゆっくりと口元に運んだ。
「でも、君のコーヒー、本当に美味しかったよ。今までありがとう。」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ありがとうございます…。」
ちょっと照れながら答えると、社長はカップを置き、にやりと笑った。
「だからといって、コーヒーが恋しくなって、店開くなんてことには、ならないでほしいけど。」
「え?」
「昔、そんなやつがいたんだよな…。」
そう言うと、社長は軽く手を振って、給湯室を出て行った。
昼休み、私は足が自然と、あの喫茶店へ向かっていた。
エレベーターのドアが開くと、いつもあの香りがふわっと迎えてくれる。来週からしばらくは、毎日ここに来てしまうかもしれない。
「いらっしゃいませ。」
いつもの穏やかな声が聞こえると、私は少しほっとした。
カウンターに座ると、店主が私の顔をじっと見つめる。
「今日は、どんな気分ですか?」
私は静かに答えた。
「今日も、苦いやつを。」
「なるほど…では、とっておきの一杯を。」
店主が手際よく豆を取り出し、ゆっくりと挽き始めた。約10分して、良い香りのコーヒーが、目の前に置かれる。
「これは何ていう豆なんですか?」と聞こうとしたが、その前に、店主が姿勢正しく直立して、軽くお辞儀をした。
「卒業、おめでとうございます。」
えっ、それって、もしかして。
コーヒーをいれ始めた頃を思い出す。初めてのコーヒーは、薄かったなぁ。それから、コーヒー豆を初めて買って帰った日、みんなに「美味しい」と言ってもらえた日、初めて企画案を作った日。この1年、本当に楽しかった。気がつけば、私の毎日は、コーヒーと、このお店を中心に回っていた。
でも、店主、社長。私は、喫茶店は始めないよ。『コーヒーをいれることの価値を、皆さんが分かっている会社』を、私は手放せない。
店主が、何で喫茶店を始めたのかは、分からないし、今は聞かない、聞けない、聞かない方が良いのかもしれない。でも、店主、ありがとう。この店をオープンしてくれて、ありがとう。
今日も、ごちそうさまでした。
Fin