第5話|原点
「みゆきさん、ちょっとこの企画、案を考えておいてくれない?3時ぐらいまでに。」
上司にそう言われたのは、6月に入るちょっと前の、天気の良い朝だった。
私は、思わず息を飲んだ。
「はい、分かりました。」
そう答えたものの、胸の奥が妙にざわついている。
広告の企画案。
これまで、議事録や仕様書をまとめたり、画像や見積りを探したりはしてきた。でも、自分で企画案を丸投げされるのは、初めてのことだった。
デスクに戻り、パソコンの画面に向かいながらも、何から手を付けていいのか分からず、じっとカーソルを見つめるばかりだった。
「…どうしよう。」
周囲を見渡すと、先輩たちは各々の作業に集中している。キーボードを叩く音や電話の応対、マウスのクリック音。普段と何も変わらないオフィスの風景が、今日は妙に遠く感じられた。
まずは、これまでの企画書を参考にしよう。過去のファイルを開いてみる。
完成された企画書。仕事になった企画書は、どれも洗練されていて、ストーリーも自然だった。書かれている内容に、ムダが無い。何より、キャッチコピーが分かりやすい。
「…私に、これが書けるの?」
頭の中に、「これが良いアイデアだ!」と確信できるものが浮かばない。何をどう書けばいいのか、まるで手探りだった。不安が押し寄せてくる。
企画書の見出しを入力してみるものの、手が止まる。キーボードに指を置いたまま、何十分が過ぎた。
この日のランチは、サンドイッチで済ませた。コーヒーは、先輩が代わりにいれてくれた。
「何から組み立てればいいんだろう?」
「ターゲット層?年齢?性別?」
「斬新さ?予算?」
次々と疑問が浮かび上がる。正解が分からず、ぐるぐると同じところを回っている。ただ、分かってる。圧倒的に足りないのは、アイデアだった。
「…ダメだ、まとまらない。」
手元のコーヒーを一口すする。冷めていて、妙に苦く感じた。
「みゆきさん、どんな感じ?」
突然、背後から声がした。振り返ると、田村先輩が立っていた。
「えっと…まだ、考え中です。」
「まぁ、最初からスゴイ企画が作れる人はいないんで、まずは頑張って悩みなよね、焦らずに。」
「はい…。」
励ましてくれるのはありがたいけれど、焦る気持ちは消えない。
14時過ぎ、やっとの思いで企画案を仕上げた。過去の企画書やらなんやらをひっくり返して、イメージの近いものを、私なりにまとめてみた。
「先輩、ちょっとお時間いいですか?」
思い切って、田村先輩に見てもらうことにした。
「お、どれどれ。」
私はビクビクしながら、でも実は少し、「頑張ったね」って褒められる可能性も感じながら、プリントアウトした企画案を渡した。
田村先輩は、じっと紙面を見つめて言った。
「あー…みゆきさん、これさ…。」
開口一番、その声のトーンに嫌な予感がした。
「これ、うちの一昨年の案件の企画書を参考にした感じだよね。」
「そ…そうなんです。」
思わず苦笑いする。
「たぶんね、今回のお客さんも、この案件、知ってるんだよ。同じようなの出したら、手抜きって言われちゃうな。やり直しっ!」
先輩は、私の肩を軽く叩いた。面白そうに笑顔で言ってくれたが、私の心は折れかけていた。
午後3時前、まだ全然見せられる状態ではないことを、上司に報告に行った。そうしたところ、上司は笑顔で言った。
「みゆきさん、少し休憩しておいで。そして、喫茶店でコーヒーでも飲んでおいで。経費にしていいからさ。」
思わず目を丸くする。
「え……いいんですか?」
「いいよ。こういう仕事ってさ、アイデアが出てこなくなったら、リラックスすることも仕事のうちなんだよ。」
「じゃあ、行ってきます。」
上司の言葉に、私は少しだけ救われた気持ちになった。カバンを手に取り、足早にオフィスを出る。ビルの外に出ると、夕方の風が心地よく頬を撫でた。
もちろん、足は自然と、あの喫茶店に向かっていた。
エレベーターのドアが開くと、喫茶店の心地よい香りが、いつものようにふわっと迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。」
店主の落ち着いた声が、いつものように響く。
私はカウンターに腰を下ろした。バッグを膝に置いたまま、動けなくなった。どっと疲れが押し寄せるのを感じた。
「今日は、どんなコーヒーにしましょうか。」
店主が、優しく尋ねる。
「何か、苦いのを…」
「なるほど、懐かしいですね。初めていらっしゃった日も、そんなことを言っていましたね。それでは、その時選ばなかった方を飲んでみますか?」
私は小さくうなずいた。
準備しながら、店主が訪ねた。
「何かあったんですか?」
「仕事で広告の企画案を作ってるんですけど、全然うまくいかなくて…。」
店主は「なるほどね」と微笑みながら、コーヒーミルに手をかけた。
「ちょっと聞いてもいいですか?その企画は、あなた自身が心の底から面白い、絶対やった方が良いと思った企画でしたか。」
「いえ、時間が決まってたんで、何とか仕上げた内容でした。でも、前に似たような案件があったので、それを参考にして、上手く仕上げられたと思ったんです。」
「なるほどね。お仕事の内容を存じ上げないのに、差し出がましいのですが、広告の企画案を作るのって、コーヒーをいれるのと似ていると思いませんか?」
「え?」
私は思わず顔を上げた。
「初めてコーヒーをいれた日のことを、思い出してみてください。同じようにやったつもりでも、全然美味しくならなかったですよね。でも練習を重ねて、ある程度上手にいれられるようになった。そうしたら今度は、いろんな人の好み・要求に対応する必要が出てきた。」
確かに。今の私は、そんな風にコーヒーをいれている。最近は、豆を見かけると、香りをかいでみて、「これは誰誰さんが好きそう」なんて考えたりもする。
「そして、大事なのは、まずは自分自身が『美味しい』と思えるものをいれることでしたよね。それはたぶん、『広告』のお仕事でも同じなんじゃないでしょうか。」
店主の言葉に、私はしばらく黙ったまま考え込んだ。
「…まずは、自分自信」
私は、ふと天井を見た。そういえば、私がやったことと言えば、言葉・画像・数値をあてはめただけだった。
「確かに…過去の成功例を真似して、処理しただけでした。前は、こんな風にコーヒーをいれてたなぁ。」
店主は静かに頷き、カップにコーヒーを注ぎながら言った。
「もしかすると、そんなことを教えたくて、新人にコーヒーをいれさせているのかもしれませんね。実は他の皆さんも、コーヒー、美味しくいれられるんじゃないですか?」
「えっ?」
私は驚いたように顔を上げた。
そういえば、味わう余裕は全くなかったけれども、今日先輩は、誰にも教わらずに、コーヒーをいれていた。もしかしたらこれは、うちの会社の通過儀礼なのかもしれない。
「もしそうだとしたら、コーヒーをいれることの価値を、皆さんが分かっている会社なんて、素敵な会社ですね。」
私は、思わず笑ってしまった。何で笑ったのかは分からない。でも、店主の言うことがその通りだと思った。
店主の言葉に、心が少しずつ軽くなっていくのを感じた。コーヒーを飲み干し、私はスッと立ち上がった。
「少しだけ、やるべきことが見えた気がします。」
店主は微笑みながら頷いた。
「それは良かった。焦らず、じっくりとね。」
支払いを済ませ、カップの余韻を残したまま、オフィスへと戻った。
オフィスに戻って、静かにキーボードを叩き始めた。カップに残っているわずかなコーヒーは、冷めているのに美味しかった。