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第3話|もう一度、お店へ

 次の日のお昼休み、私は昨日よりも早くお店に向かっていた。


 昨夜、家でコーヒーをいれてみたけれども、どうにもあの喫茶店の味には程遠かった。コーヒーのいれ方を調べて、その通りにやったつもりだった。でも、苦み・香り・コク、全部違う。

 あえて言えば、ちょっと苦みのある液体と言ったところ。お店で飲んだコーヒーを、2倍に薄くすれば、あんな風になるかもしれない。


 自分で美味しくいれられるようになりたい、というわけでもない。ただ、せっかく豆を買ったのだから、近い感覚を、家でも味わいたい。だから、昨日と同じエレベーターのボタンを押した。

 エレベーターのドアが開き、薄暗い店内に足を踏み入れると、昨日と変わらない静かな空間が広がっていた。


「いらっしゃいませ。」


 店主が、ゆっくりとした口調で迎えてくれる。その穏やかな声に、私は思わずホッとした。


「また来てくださったんですね。」

「はい……昨日、買った豆で、家でコーヒーをいれてみたんですけど、全然違う味になっちゃって。」


 そう言いながら、スマホで撮った画像を見せた。


「確かに、ちょっと薄そうですね。コーヒーをいれるの、慣れるまでは難しいですよね。」

「そうなんですよ。全然美味しくなくて…。」

「うんうん、私だって、初めてコーヒーをいれた時は、そんな感じでした。」


 店主はコーヒーカップを拭きながら、ゆっくりと話し始めた。


「実は、昔サラリーマンをやっていましてね。毎朝コーヒーをいれていたんですけど、不味いって、よく怒られたものです。」


 私は驚いて目を見開いた。


「え? そうなんですか?」

「ええ。毎日、普通にスーツ着て、出社して…。新人だったので、仕事の大半は雑務でした。不味いのが分かっていて、どうして俺にいれさせるんだ!なんて思っていましたよ。」

「それ、わかります。部下にコーヒーをいれさせるなんて、ちょっとしたハラスメントですよね。」


 思わず力強く同意した。

 でも、店主は少し笑いながら、カウンターに肘をついた。


「そうですか?でも私は、その経験があったから、コーヒーが好きになってしまって、いま喫茶店をやっているんですよ。」


 そういうと、店主は遠くを見た。


「豆を2倍ぐらい入れたら、初めて濃い美味しいコーヒーができたんです。でも、コーヒー豆って、安くないじゃないですか。このいれ方じゃ、続かないなと思って、練習したんです。」


 私はカウンター越しに店主の顔を覗き込んだ。


「練習?どうやって練習したんですか?」

「最初はね、頼まれた上司の分だけいれていたんです。早く自分の仕事をしないとと思って、そそくさと。でもある日、先輩に頼まれたんです。『飲み物買い忘れたから、俺の分もお願いできる?』って。」


 店主はコーヒーをカップに注ぎながら、話を続けた。


「どうせいれるなら、他の人の分もいれようと思って、『他にコーヒー欲しい人いますか?』って聞いたら、確か4人手をあげたんですよ。」

「つまり、5人分入れるってことですよね、大変ですよね…。」

「みんな多めに欲しがるので、1回に2人分ぐらいしか出せないんです。そこで、気付いたことがありました。」

「どんなことですか?」

「コーヒーをいれる時間は、もう仕事を気にしなくていいってことです。」


 店主は微笑みながら、カップをそっと私の前に置いた。


「最初はね、上司の分をいれるのに遠慮してたんですよ。『仕事中にこんなことしてていいのかな』って。でも、みんなにいれるようになって、それを上司も何も言わない。コーヒーをいれるのが、自分の中で、ちゃんと業務になったんです。」


 私はコーヒーを一口飲み、ふっと笑った。


「わかる気がします。私も、職場でコーヒーをいれているんですが、でも、仕事という感じがしないんですよね。」


 うんうんとうなずきながら、店主は続けた。


「最初の頃、私は自分ではあんまり飲んでいなかったんですよ。」

「え? どうしてですか?」

「コーヒーをいれる時間と同じで、自分がコーヒー豆を消費しちゃいけない気がしましてね。自分が飲むなんて恐れ多いというか…。」


 店主は苦笑しながら、視線を再度、遠くに向けた。


「みんなが『美味しかった』って言ってくれる日と、そうじゃない日があるんですよ。たまたまなのか、味が違うのか。それで、自分の分もいれてみるようになったんです。そうしてしばらくして、もう一つ気付いたんです。コーヒーは、自分にいれるのと、他人にいれるので、味が違うってことを。」


 私は驚いて、じっと店主を見つめた。


「えっ、どういうことですか?」


 店主は微笑みながら、別のカップにゆっくりとお湯を注いだ。湯気がふわりと立ち上る。その様子を見つめながら、彼は静かに続けた。


「つまりね、最初の頃は『上司のために』とか『みんなのために』って思って、まさに仕事、義務感でいれてたんです。でも、自分のためにいれるようになったら、コーヒーの味がまるで違う。これは義務ではありませんからね。」

「自分のために、ですか?」


 私は自分のカップを両手で包みながら尋ねた。


「ええ。上司や先輩とかのためにいれる時って、無意識のうちに『失敗できない』『早くいれなきゃ』って気持ちが働くでしょう?でも、自分のためにコーヒーをいれる時は、義務から解放されている。気負わずに自然に、ゆっくりいれることができる。実はそれが、味にも大きく影響するんですよ。」

「へぇ…。」


 私は一口コーヒーを飲んで、ふむふむと頷いた。


「それにね、自分が『美味しそうだな』って思うコーヒーは、他人が飲んでもきっと美味しい。自分が何も思わなかったコーヒーは、他人が飲んでもたぶんそんなに美味しくないんです。」

「なんか、深いですね…。」


 私はじっとカップを見つめた。


「それでね、自分が飲みたいと思えるコーヒーを、みんなにもいれるようにしようと思ったんです。そしてね、上手になったら、みんながコーヒー豆をリクエストするようになったんですよ。」

「えっ?」

「この場合、コーヒー豆は経費で買えますからね、それこそ、好き勝手買いました。でも怒られない。むしろ、喜ばれるし、ほめられる。気付けば、楽しい仕事になっていました。」

「なんだか、素敵ですね。」


 私はカップを見つめながら呟いた。

 店主の言葉に、私はふと自分の職場のことを思い出した。毎朝、上司や先輩のためにいれているコーヒー。正直、面倒くさいと思っていたし、ただの雑務のひとつとしか思っていなかった。


「私も…同じかもしれません。」

「どういうことですか?」

「毎日、会社でコーヒーをいれるんですけど、正直、義務みたいになっていて…。」

「なるほど。」

「でも、『自分が飲みたいと思えるコーヒー』を渡せたら、みんなも『美味しい!』って思ってくれるかもしれませんね。」


 店主は静かに頷いた。


「そうかもしれません。そう思うだけで、きっと十分なんですよ。毎日会社でコーヒーをいれるなら、あなたもたくさん練習できますね。」

「明日から、試してみます。」


 ぽつりと呟くと、店主はやさしく微笑んだ。


「ぜひ、美味しいコーヒーを目指して、練習してみてください。」

「はい…。なんだか、ちょっと楽しみになってきました。」


 私はしばらく考え込みながら、店内を見渡した。穏やかな音楽、心地よいコーヒーの香り…ここに来ると、なんとなく肩の力が抜ける気がする。

 会社に戻る途中も、私はずっと考えていた。仕事ではなく、誰かのためではなく、まずは自分のために。いつもより少しだけ、足取りが軽くなっていた。

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