第2話|こだわりの喫茶店
『私の好きなコーヒー、あります』
面白いキャッチコピーに、足が止まった。そのお店は、雑居ビルの4階にあった。
この『私の好きなコーヒー』の、『私』は、誰のことだろう?『店主』のこと?それとも、『お客様』のことを、ちょっとおしゃれに言い換えているの?
「まぁ、どっちでもいいか!両方だったりして。」
小声でつぶやきながら、エレベーターのボタンを押した。こんな些細なことでも、ちょっとウキウキしてしまう。もし店員さんが気さくだったら、帰りに聞いてみようと思いもした。
エレベーターが開くと、ドアなどはなく、エレベーターを出て左に曲がると、すぐに薄暗い店内が開ける。照明は控えめで、静かで落ち着いた雰囲気。オーセンティックなバーのようなカウンターテーブルと椅子。
コーヒーのほのかな香りと、静かに流れるジャズの旋律が心地よい。時間がゆっくり流れていく。その波に、自分を浮かべていくような空間だった。
「いらっしゃいませ。」
カウンターの向こうから、穏やかな声が聞こえた。年齢は40歳ぐらい。身長の高い、細身で筋肉質の男性が、一人でカウンターの中にいた。
「お好みのコーヒーはございますか?」
そう聞かれたものの、コーヒー豆のことは分からない。そこで、メニューを見ずに答えてみた。
「とにかく苦いコーヒーってありますか?」
「チョコレートっぽいフレーバーと言われるものと、ワインっぽいフレーバーと言われるもの、どちらに挑戦してみますか?」
「それでは、ワインっぽいものをお願いします。」
『チョコレートっぽい』にも興味はあった。ただ、より味の想像がつかなかったのが、『ワインっぽい』だった。
「10分ほど、お時間、頂きますね。」
店主は、ニッコリすると、豆を取り出し、ゆっくりと挽き始めた。
店主がゆっくりと手を動かすと、コーヒー豆の香りが、少しずつ空間に広がっていく。コーヒー豆の香りを探るように、私は静かにカウンターに肘をついた。
店主はコーヒー豆を、ズリ、ズリ、ズリと、香りを味わうように、ゆっくり丁寧に挽いている。
オフィスにある電動コーヒーミルは、何人分もいれるのに、豆を挽くのに30秒ぐらいしかかからない。でも、ここの店主は、もうかれこれ、2~3分は豆を挽いている。しかも、グルグルガリガリ回すのではない。ゆっくりゆっくり挽いている。
「お待たせして、すみません。」
「いえ、むしろ、この時間で、仕事を忘れられて嬉しいです。」
自分の、たった一杯のコーヒーのために、こんな手間をかけてるんだなと尊敬しつつ。でも、オフィスでこんな優雅に豆を挽いていたら、怒られるか、あるいは、クビにされても文句は言えない気がする。あと、気が急いてる時には、とてもじゃないが、入れない店だ。
豆を挽き終わると、今度はお湯を注ぎ始めた。細くゆっくりと注がれるお湯は、円を描くように回っていく。オーダーしてから10分ぐらいたって、コーヒーが提供された。
「モカハラーと言います。エチオピア産の深煎りです。この豆の特徴は、ワインのようなフレーバーです。ヨーロッパの貴族たちに愛されたことから、『貴婦人』なんて呼ばれたりもしています。楽しんでみてください。」
『ワインのようなフレーバー』は聞いていたが、『貴婦人』という意外な表現に、思わずメニューを探した。黒板に、いくつかのコーヒー豆の名前を発見したが、『モカハラー』という名前は見当たらなかった。
「ありがとうございます、頂きます。ちなみに、メニューには書かれていないようですが…。」
「そうですね、うちのようなお店では、店主の好み・お客様の好みでいろいろ変えるので、メニューにはあんまり書かないんですよ。」
「そ、そうなんですね。ちょっとお値段が心配で…。」
「安心して召し上がってください。初めてお越しいただいた方には、私のコーヒーを好きになって頂きたいので、本日のお勧めと同じ、一番安い価格でお出ししております。」
ホッとした。高いコーヒーは、一杯めちゃくちゃ高いと聞いたことがある。そんなことを考えながら、コーヒーを口に運んでみた。
「美味しい…こんなに違うんだ。」
思わず声が漏れた。口の中に広がる苦みも、鼻を抜ける香りも、自分のいれたコーヒーとは全然違う。今の自分には、『ワインっぽいフレーバー』は分からないけれども、何かが本質的に異なる。
この豆を買って、丁寧にいれれば、自分でも、近い味が出せるんだろうか?初めて、『コーヒーをいれる』ことに興味を持った。
帰りに、『モカハラー』の豆を買った。家でいれてみようとおもって、少し奮発した。この豆を使えば、休みの日に、あんな優雅な気分になれるかもしれない。そんな期待を抱きながら、オフィスに帰った。