チーちゃんと名づけられる。
快適な朝だ。朝食はすでに用意されているし、食器も片づけなくてもいい。ハルさんは鼻歌をしながら、にこにこと家事をやってくれる。食べ終えたら僕はベッドにゴロンとなって涼やかな和室の中でぼんやりとしているだけでいい。これまで自分が何をやってきたかなんてどうでもよくなる。
ハルさんは昼まで暇だからと言って掃除を始めた。怠惰な男が一人で住んでいたのでホコリまみれの家になっていたのだった。ハルさんは、おいおい掃除ぐらいしとけよなあ、まったくもう、と満面の笑みを湛えながら、どこからかはたきと箒と掃除機とを取り出してきてパタパタと掃除をし出した。僕は泰然とした心持ちでベッドに横になっていた。耳にはときおりハルさんの嬌声が入ってくる。まったくもって平和的な午前の過ごし方だった。
その昼すぎに我々は父さんの事務所に向かった。ハルさんの運転は慎重かつ保身的な運転だった。借りてきた女医さんの車にはナビがないので、ハルさんのスマートフォンのアプリを頼りにする。
「つぎ、どっち?」
「二キロ先まで直進だよ。まだ曲がらない」
「了解」とハルさんは言ってハンドルを握りしめている。
「ねえ、ハルさんホントに免許持ってるの?」
「持ってるさ。十八の時とった」
「えっと、失礼かもしれないけどハルさん今何歳?」
「はたち」
「へえ」と僕はうなずいた。
「チヒロは十七だっけ?」
「ああ、そうだよ」
「あたしが十七の時は金髪だったなあ。シム使って腐れたシムどもとバンバン戦ってたよ」
「シム同士でそんな戦うものなの?」
「まあね。組織があれば敵も増える。力があればオカシなやつも出てくる。そういうのを規制しなきゃ世界は守れん」とハルさんはにやにやと笑う。
「世界ね、相変わらずでっかいスケールだ」
「マジな話、シムは世界中にいるらしい。けどなんか日本が一番多いんだってさ」
「へえ、いろいろ謎だね」
「アメリカが次に多いらしい。だから英語話せなきゃ協会の幹部になれないって。ミミも頑張って英語の勉強してるよ」
「へえ、あの子も大変だな。英語が重要とか一般企業と同じだね、異能集団も」
「だよな。笑える。力があったとしても結局のところやることは変わらない。群れる、それから小賢しい奴が素直な奴らをこき使う」
「歴史はいつだってそうだ。次の信号で左折」
「了解。しっかし、東京に近づくとさすがに車の通りが多くなってきたな」
父さんの事務所は三鷹にあった。父さんの旧来の友人である高橋さんと一緒に構えた弁護士事務所だった。座間・高橋法律事務所というそのまんまな名前だ。その名前は入居するビルの二階の窓ガラスに張り付けてあった。
ハルさんは路地に車を止めて待機していた。一人で僕は薄暗い雑居ビルの階段を上った。事務所のドアを開ける。鐘が鳴った。仕切りの奥の方から、話し声が聞こえる。父さんが話しているみたいだった。ハイハイと言いながら一人の中年男性が出てきた。
「お、誰かと思えば大冒険を終えたチヒロくんじゃないか。平日の昼間なのに来てるってことは今日も学校サボってるな」とその男性は嬉しそうに言った。高橋さんである。
「そろそろ学校には行きますよ」
「ハハハ、まあ、学校は好きな時に行くといい。何ごともタイミングだよ。そしてタイミングの悪いことに君のお父さんはいま電話でクライアントとお話し中だ。ちょっとそこで待っててくれ」と高橋さんは笑顔で僕を受け付けのわきにある応接室に通した。僕は黒のソファに腰掛ける。テーブルにはガラスの灰皿があった。少しほこりが積もっていた。事務所の経営が少し心配になる。
「暑くないかい? 麦茶でも飲まないか?」と高橋さんはグラスを三つのせたお盆を持って応接室に入ってきた。僕は麦茶を受け取った。
「ありがとうございます」
「若い人はサイダーとかがいいのかな。まあ、これが一番の安上がりでね」
高橋さんはそう笑いながら僕の対面に座った。
「お気遣いありがとうございます。僕はなんでも大丈夫ですよ。それに今日は急に来てしまって申し訳ないです」
「いやいや、チヒロくんならいつ来てもいいよ」と高橋さんは麦茶を飲んだ。「それで、チヒロくん、君行ってきたんだろ?」
「え?」
「ブラジルだよ! 商店街の懸賞で当たったから友人のツテを使ってその日にすぐ行くとか、そういうとこはやっぱり座間の息子らしいな」
「え、ええ、すごい場所でした。海もすごくキレイで、空もばっちり青かったし。みんなサッカーやってましたよ。なんというか、価値観?ってやつがひっくり返りました」と僕はしどろもどろになりながら答えた。
「うんうん。海外旅行は男を強くするんだよな! 俺もね、若いころはよく一人で海外周ってたよ。ヨーロッパとか、アメリカとかさ。中東も歩き回ったな、人類の起源ってやつに気を引かれてねえ」と高橋さんは懐かしそうに言い始めた。話をそらすチャンスだった。
「高橋さんはバックパッカーだったんですか?」
「うん、まあね。青春の良き日々ってやつ。ブラジルも行きたかったんだよなあ。そうすれば一応五大陸全部に足を踏み入れたことになったんだけど」
「へえ、すごいですね」
「そうでもない。だけどそういうことは若い時にしかできない。チヒロくん、キミの親父さんやお母さんは何か言うかもしれないけど、旅は今の内にしといたほうがいい」と高橋さんは割かし真剣な顔で言うのである。それからバックパッカー時代の苦労話やら笑える話やらいろいろと話し始めるのだった。これ幸いと僕はうんうん、あははと頷くだけである。そうこうしている内に父さんがやってきた。
「電話終わったか?」と高橋さんは笑顔で聞いた。
「いったんは終わった。あの案件はややこしくなりそうだ。遺産関係はいつだってそうなんだ」
「まあそう言うなよ。困ってる人が居ればどんなことでもやるのが俺たちだ」
「まあな。それでチヒロ、よく来たな。どうだったんだ、ブラジルは?」と父さんは 僕に笑いかけた。それから座って麦茶をごくりと飲む。高橋さんは笑って席を立った。
「仲良くやれよ」
「ああ。母さん、心配してただろ。いきなりブラジルだもんな。お前もよくわからないことをやる」
「それは申し訳ないって思ってるよ。心配かけてごめん」と僕は謝っておいた。
「ま、無事で何よりだ。で、どうするんだ? もう帰ってくるか?」
「いや、もう少ししてから帰るよ。体の調子を整えたくてね」
「そうか。まあ、チヒロの好きなようにするといい。お前はなんだかんだいってしっかりしてるからな。そういうところは母さん似なんだろうな」
「いきなりブラジルに行くとこは父さん似らしいよ、高橋さんが言ってた」
「無鉄砲って言われてる俺でも即日ブラジルに行こうなんて思わないよ」と父さんは笑った。それから電話が鳴った。高橋さんが出る。父さんは振り向いてその会話に聞き耳を立てる。僕はぬるくなった麦茶を飲み干す。話すことは終わった。父さんの顔を見ることができただけで十分だった。僕は席を立った。
「父さん、仕事の邪魔したね。会えてよかった」と僕は言った。父さんも立ち上がった。
「ああ、気をつけて帰れよ」
「うん、麦茶おいしかった。じゃあね。仕事頑張って」
「頑張るほどでもないさ」と父さんは笑った。「チヒロも勉強しっかりやれよ。テスト受けるんだろ」
「うん。頑張る。バイバイ」と僕は言って高橋さんの声が響く事務所を出た。
それでその日は終わった。
その翌日は昼の前に立川ミミがやってきた。
「何で来たの?」
「別にアンタに会いに来たわけじゃないです」
「ツンデレかよ」
「はあ?」と立川は呆れたように言ってきた。
「そんなことより昨日は大変な目にあった。ブラジルなんて行ったことない」
「そんなの知りませんよ。アンタはブラジルに行ったんです。それでサンバの修業をしてきた。そういう設定ですよ」
「サンバ? そんなの聞いてなかった」
「いわゆる裏設定って奴です。いつか踊るように求められるかもしれません。師匠とかライバルとかも出てくるかもしれないです。かってに練習しとけばいいです。一人サンバカーニバルでもやっとけばいいんです」と立川は言ってハルさんのいる台所へと行った。なんてこった。
昼は三人で食べた。顎と胃にやさしい素麺だった。結局、我々は七束の素麺を平らげた。
その後、我々はゲームをやっていた。ハルさんが用意したものでコントローラを持ってぴこぴこする対戦ゲームだった。思い起こせば僕が小学生の頃にけっこうやりこんでいたシリーズ物の格闘系ゲームだった。
「懐かしいな。さて、僕に勝てるかな」と強張った手でコントローラを持った。
「いやアタシに勝ったら、おっぱい揉ませてやるよ」とゲーム機を起動しながら、真面目な声でハルさんは呟いた。
「まじ?」
「ああ、マジだ。賭けてるモンが違うんだよ」とコントローラをゆるく握ったハルさんはとことん真面目な顔で言った。僕は立川を見た。立川は素知らぬ顔でコーラをちびちびと飲んでいた。なるほど。数分後、僕は瞬殺されていく自分のキャラクターをぼんやりと見つづけることになった。
「ハルさん、廃人」と僕はコントローラを放り投げた。ぽいっと。
「ふふん。骨がないねえ」とハルさんはにやにや笑った。
「指の動きと反応速度がおかしいよ」
「普通のやつでもこんなもんだぞ。そうだ。ミミ、ひさしぶりにやろう。チヒロじゃ相手になんねえ」
「いいけど。久しぶりじゃないよ。先月もやったし、先々月もやった」と立川は僕を蹴って、テレビの前からどかした。居場所を奪われた僕はソファに腰掛け、嬉々とした様子でゲームに興じはじめた二人の女の子たちを眺めた。立川もなかなか廃人に近いようで、ハルさん相手に善戦をしていた。たまに勝ったりもしてたほどだ。ハルさんは負けるたびに、にゃおおんとか甲高い悲鳴を上げた。廃人の特徴だ。そのたびに立川はうるさいと笑いながらハルさんの胸を揉んでいた。なるほど。
何回かハルさんのやわらかそうな胸が揉まれるのを見届けてから、僕はうたた寝をしていた。その眠りは深く、そして短いものだった。起きた時には日は暮れていて、ハルさんは台所でゆったりと食事を作っていた。立川はその横でハルさんの話し相手になっていた。
夕飯はアジの開きだった。みそ汁はえのきが入っていた。副菜にはほうれん草のおひたしがあった。すべてが美味かった。僕はもりもりとご飯を二杯食べた。久しぶりの事だった。
ご飯を三杯食べた立川は不満そうな顔で、仕事があると言って帰って行った。立川を見送った僕はソファに座って、テレビのニュースを見ながら呟いた。
「大変だな、これから仕事なんて」
「シフト制だからさ。その辺のコンビニと変わらない」とハルさんは食器を洗いながら答えてくれた。
「朝までやるのかな、やっぱり」
「たぶん、そうなるね。経験上」
「へえ。ハルさんもミミと同じとこで働いてたの?」と僕はリモコンをいじりながら聞いていた。
「まあね」とハルさんは素っ気なく言った。
「ふうん。ハルさんってやけに強いから、そこの幹部だったりしたんでしょ」
「いや、ただの下っ端。いいように使われてた」とハルさんは水道を止めて、台所から出てくる。「あたしは運が良かったよ。下っ端でもこうして生きてる」
「ハルさんが死んでたら、僕も死んでたね」
「へっ。まあ、そういうことになるな」とハルさんは僕の隣に座って、ぼんやりとした表情でテレビを眺めはじめた。
我々は黙ってテレビを見た。その番組はデパ地下特集をのんびりと流していた。ここのトンカツは絶品です。ほんとうですかあ? どれ、一つ食べてくださいよ。ええ……、仕方がないですねえ。はむ。さくさく。お、おいしい!
「おいしくなきゃ、商品になれないだろうよ」と僕は呟いていた。
「トンカツ、食べたくなるね」とハルさんは答えてくれた。
「商店街においしいトンカツ屋さんがあるよ」
「へえ。今度連れて行ってよ、ミミも一緒に」
「いいよ。支障なく歩けるようになったらね」
「うん。しかし、久しぶりだな。こうやってテレビをゆっくり眺めるの」
「見なくても生きていける。それはそれでなんだかさびしいけど」
「うん。昔はよく見てたんだ。かじりついちゃうくらいにさ。いろんな番組見て、わんわん泣いたり、げらげら笑ったり、ふんふん感心したり、そういうふうに過ごしてた」
「ふうん。いつから見れなくなったの?」と僕はハルさんを見た。ハルさんは目を瞑っていた。
「やっぱり、シムになったときかな。そのときから変わっちゃったんだ。なにもかもね」
「へえ」
「もう四年たつのか」とハルさんは笑った。「早かった。知らぬ間に四年だ」
「ふうん」と僕はチャンネルを変えた。なんとなしに他の番組が見たかったのだ。
「ふうんで終わりかよ」とハルさんは笑った。
「四年は別に長くないよ。僕は五年もある友人からゲームを借りたままだし、十七年間、つまり生まれてからずっと恋人なんていたことない。歳月はやっぱり簡単に過ぎていっちゃうんだ。月日は百代の過客にして、行かう年もまた旅人なりってわけだ」
「それってなんか意味ちがうだろ」
「そうかもしれない」と僕はチャンネルを変えつつ言った。
「あのさ、チヒロってなんというか、マイペースだよね。そういうとこがあたしにも影響してきてんのかなあ」とハルさんは僕をじっと見つめてきた。僕はその様子を横目で見ながら、お堅いニュース番組にチャンネルを合わせていた。海外で起きた爆弾テロ事件についての解説が流れ始める。資金の面で日本の新興宗教が関わりを持っているようだ、と解説員は暗い顔で語った。
「どういうこと?」
「なんかさ」とハルさんは僕の方に寄ってきた。「チヒロの近くにいると、安心するんだ」
「はつみみ」と僕は口ごもる。というのもハルさんは僕の肩に頭を乗せてきたのだ。こてんと。
「うん。実はさ、看病してたからそうだったんだ。いつもは焦燥感とかそんなのがじくじく心臓をかじってくるんだけど、チーちゃんの近くにいたらさ、どーでもよくなっちゃうんだ」
「チーちゃん」と僕は呟いた。肩がやけに熱かった。ハルさんの髪の毛が僕の首筋をやさしくなぞっていた。
「チーちゃん。……ダメ?」
「いや、いいけど。んんん、どーでもよくなるって、まずくない?」
「そーかな。べつに生きるのがイヤになるってわけじゃないんだ。ただ、すごく安心する。昔に戻ったって感じがするんだ。すとれすふりーって感じ」
「ストレスフリー」と僕は復唱する。もはや前頭葉の機能が低下し始めていたのだ。ニュースがただの雑音に過ぎなくなる。
「うん」とハルさんはため息をついた。「ねえ。あのさ。いろいろ、あったんだ。ちょっと聞いてよ。少しずつでいいんだ。ちょっと聞いて」
「うん。聞くよ。傾聴する。謹聴して傾聴するよ」と僕は体をもぞもぞ動かした
「暑かった? ごめん」とハルさんは、はにかむように笑って僕から離れて行った。
「いや、暑くない。免疫がないものだから。うん。暑かった」
「どっちだよ」とハルさんは笑って台所に行った。今度は僕がぼんやりとテレビを見る番になった。バタンと冷蔵庫があいて、かちゃんとコップが用意されて、どばどばと何かが注がれて、バタンと冷蔵庫がしまった。
「チーちゃんはさ、勉強しなくてもいいのか?」
「うーん。しないとまずいね。赤点まっしぐら」と僕は両手で顔をごしごしとアライグマのように洗ってから立ち上がった。「うん。勉強しよう。僕は勉強する」
「そうだ。その調子」とハルさんは笑った。
僕は足を引きずりながら久しぶりに祖父の書斎に入った。勉強道具はすべてそこにあったのだ。ぱたんと扉を閉めた。壁がすべて本で埋まっている。ほこりが減った気がする。僕は椅子に座って開いたままにしてあった数学の問題集を解き始めた。試験範囲ではないが、頭の体操にはもってこいの問題たちである。
はて、πは無理数か? よし、やってやろうじゃないか。
さて、当然なことであるが、僕ごときの脳みそでそんなことを証明出来るわけがなかった。十分後にはふんふんと解説を読んでいた。なにごとも諦めが肝心である。このような諦めが意欲を産むときだってあるのだ。そのあと僕は素直に理系各種の教科書を手に取って、初めのページから読んでいった。
ハルさんが風呂に入んなよーとドアを開けてくるまでずっと読んでいた。
それから、ほかほかしている僕はベッドに入っていた。同様にほかほかしているハルさんは隣に布団を敷いていた。あたしもここで寝ると宣言したからであった。ヤマシイことは何も起こるまい。たぶん。
「じゃあさ、ちょっとずつ話していくからね」とハルさんは丸めたタオルケットに顔をうずめながら言った。
「うん。きっちり耳を開けとく」
「ちゃんと聞けよ。忘れたり、寝てたりしてたら怒るから」
「オーケー。僕はハルさんより先に寝ない。努力するよ」
「うん、じゃあさ、どこから話そうかなあ。やっぱり、天野ハルコの誕生からかなあ」
「……長くなりそうだね」